困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
- 1 :人間七七四年:2008/03/08(土) 20:08:53 ID:5YkPWQKJ
- 「日の本一の律儀者、しかし、律儀すぎるのも非常に困る」と家康に評され、
「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」と石田三成との友誼を重んじた、
佐竹義宣を語りましょう。
<関連スレ>
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196512813/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185375928/
- 77 :人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/07(土) 09:40:16 ID:1eEjkjqJ
- >>76
恣意的…誰のですか?
親佐竹の宇都宮家改易は、対徳川包囲網を綻ばせ…親徳川の蒲生(減転封されたとはいえ)を宇都宮に封じた点では失策と思われ。
蒲生の後釜に上杉を会津に転封して奥羽の鎮将として伊達・最上〜徳川ラインを断つ…としても、飛び地だらけの上杉は仮想敵国が多すぎた。
これも失策ではないか…と思われ。
この為、後の上杉征伐で宇都宮や小山が一時本営となり義宣が身動き取れなくなった。
- 78 :人間七七四年:2008/06/22(日) 22:41:32 ID:/21BosXo
- 事前に電話予約で先着50人、受講料1000円です
日程はこんな感じ
第1回:平成20年5月17日(土)10:00〜11:30 文禄の役と佐竹義宣@
第2回:平成20年6月28日(土)10:00〜11:30 文禄の役と佐竹義宣A
第3回:平成20年7月19日(土)10:00〜11:30 佐竹義宣肖像画の謎
↓連絡先などはこちらまで
ttp://www.iju-join.jp/prefectures/ibaraki/208000/k/721/
こういうイベントを増やしていって
少しずつ太田辺りでも佐竹家が見直されるようになってくるといいね
- 79 :人間七七四年:2008/06/25(水) 03:01:20 ID:TGbwMteD
- 義宣は西軍に通じてたせいで秋田に飛ばされた訳だけど
結果的には良かったのかもしれないな
関東や近畿の大大名なんて、殆ど徳川三代で改易の憂目に遭ってるし
東軍について常陸を安堵されても結局潰されたと思う
明治の世で侯爵にまで出世する佐竹家はなかっただろう
- 80 :人間七七四年:2008/06/25(水) 03:06:00 ID:TGbwMteD
- あ、佐竹氏全体の事の話題は別スレがあるのか
移動します
- 81 :人間七七四年:2008/06/25(水) 08:54:04 ID:EcYDasun
- 佐竹高校
- 82 :人間七七四年:2008/06/25(水) 22:19:02 ID:DA80aQ8z
- 佐竹って来年大河に出るの
- 83 :人間七七四年:2008/06/25(水) 22:45:42 ID:oJYz2dPd
- 漫画に出てきた軍師の人は実話?
- 84 :人間七七四年:2008/06/26(木) 09:22:29 ID:neEM2lKd
- 大河には出るでしょう
上杉・佐竹は長年の盟友 義宣は景勝大好きのはずですが
- 85 :人間七七四年:2008/06/26(木) 09:42:11 ID:jtxhdd1/
- 大好きってなんじゃい。
江戸に近い常陸に54万石持つ佐竹は、徳川にとって脅威だったと言われることがあるが、
北条政権を事実上継承した徳川は、むしろより佐竹にとって脅威じゃい。
関が原以後の転封は徳川視点で見られることがあるが、
純粋に佐竹の視点から見れば、徳川の存在は北条よりもでかかったんじゃい。
豊臣による天下の元で戦場は封鎖されていたから、秀吉生存前は大して問題ではなかったが、
秀吉が死んだあと、上杉佐竹vs徳川という抗争が始まったのは、
小田原討伐以前の状況の再現じゃい。
徳川が佐竹を関東から追い出して、関八州支配するのは全く当然のことで、
佐竹が上杉と徳川に対抗したのも歴史的に当然のことなんじゃい。
- 86 :人間七七四年:2008/06/26(木) 11:49:51 ID:TCsQ7LZb
- よく分からない??
だから 佐竹と上杉はいい関係なんでしょ?
だから 大河出るかって?って書き込みに、出るって書いただけだけど?
大好きが気に入らなかった?
小説では 義宣が景勝に兄事してたって感じで書いてあったから書いただけですよ。
- 87 :人間七七四年:2008/06/26(木) 14:29:02 ID:YQyzfRRG
- 佐竹も関東にいる限りは危険視されてどうせ大減封や遠国飛ばしは間違いないんだから
野心をもって戦ってから減封&遠国飛ばしされれば良かったものを
戦わずして飛ばされた情けなさだから歴史的にはマイナーキャラクターになっちまった。
俺は佐竹好きなんで残念で仕方がない。
PHPの佐竹義宣なんて「退却中の内府に佐竹得意の追い討ちをかけてやる!」なんてカッコいい事を書いてあったから思わず買っちまったしw
関ヶ原から少し経った辺りで、「島津も交渉長引いてるがやはり交渉は粘りだな」
と常陸一国安堵になりそうだと楽観してる義宣がなかなかお坊ちゃんで微笑ましいが。
- 88 :人間七七四年:2008/06/26(木) 18:58:30 ID:kum8VI4i
- >>83
漫画…ってのは『雪の峠』のこと?
梶原政景なら実在した人物だよ。
- 89 :人間七七四年:2008/06/28(土) 00:49:13 ID:mPx/cdTj
- 巨人の星の人ですね。わかります。
- 90 :人間七七四年:2008/06/30(月) 01:39:56 ID:YSxdx837
- >>79
マルチ!
西軍に通じた?
西軍に通じたと見なされた…か、上杉に通じた…の方が、まあ妥当だろう。
事実上は中立で、心は上杉にあり…家名存続の為、徳川に使者を送った。
その後東義久に軍勢を持たせ秀忠のもとへ送った事実を考慮すれば、積極的で無いにしろ徳川方(東軍)とも言えるだろう。
- 91 :人間七七四年:2008/06/30(月) 01:49:04 ID:4bs2tGh6
- >>89
きゃつはチョン。>>88の言う梶原とは別人じゃ!
家康自身はいつから「吾妻鏡」読み始めたのだろうか?
秀吉に「関東はぬしにやる」とか言われてからだろうか?
小田原北条氏とは懇意にしていた家康としては、京都の魅力もさることながら、関東への憧憬もあったのでは?
秀吉が京を取るなら、こっちは関東でかまわぬ、むしろ頼朝・後北条氏がそうであったように、自分は関東で覇を唱える所存だったのでは。
で、吾妻鏡で佐竹氏の記述があったのを見かける。
源平期には、平家方として頼朝陣営の脅威であった佐竹氏。
佐竹の存在ゆえ、頼朝は京へ上洛するのを躊躇ったとまで書かれている。
家康が関東を一手に握るには、佐竹の存在は目の上のこぶ。
- 92 :人間七七四年:2008/07/08(火) 21:03:13 ID:DLIGlDtO
- >87
結果論だよな
あからさまに敵対して負けたら滅亡って普通は考えるじゃん?
家康と上杉にハシゴ外されたからお手上げだろ
- 93 :人間七七四年:2008/07/13(日) 14:38:33 ID:0sgNW4Qu
- 仮に飛ばされなかったとしたら・・・。
家光の時代には源氏正当性論争が起き、後年の由比正雪が正統源氏として佐竹を反徳川の看板にしていたのでは?と妄想。
- 94 :人間七七四年:2008/07/13(日) 17:52:46 ID:npzfTWrl
- >>93
佐竹にとってのハッピーエンドがまったく思いつかないのはなぜだ?
- 95 :人間七七四年:2008/07/13(日) 18:38:43 ID:tN0b/nUr
- 佐竹がハッピーエンドを迎えるには関東に政権がない事が条件だな
清盛、尊氏、秀吉ら西国政権の時は隆盛した
頼朝、家康ら東国政権の時は駆逐された
なにも難しい事はない
それだけの話しだ
- 96 :人間七七四年:2008/07/16(水) 23:34:00 ID:WBu+79vV
- 義宣の肖像画を見て気になった事なんですが、どう見ても左足が無いように思える。
右の草摺と比べて、左の草摺は明らかに太腿を考慮しておらず、威した糸も鋭角に落ちている。
鎧櫃の上で足を折っているなら、当然草摺の隙間から見えるべき左の脛当が無い。
また、左の袴は鎧櫃の角で明確にたわんでおり、袴の中に何も無い事が見受けられる。
佐竹義宣が左足を欠損したという記録は無く、また伊達政宗の彫像などの例を考えると、
こういう見え方のする肖像画を欠損の事実無しに残す事も考え難い。
この肖像画って、本当に義宣を描いた物なんでしょうか?
- 97 :人間七七四年:2008/07/17(木) 01:06:49 ID:A0RljBHt
- 顔も見えないし誰とでも言えそうな肖像画だ
- 98 :人間七七四年:2008/07/17(木) 14:10:01 ID:3ANe3cT4
- 学者には、全武将の肖像画を、一度は洗いなおす事を考えて欲しいわ。マジで。
- 99 :人間七七四年:2008/07/17(木) 21:35:46 ID:3O3oHsdZ
- 確かによくみてみると片足だな
義宣と判断できる要素もよくわからない
兜が義宣の物と伝わるものに似てるような気はするけど
そういや太田市梅津会館でやってる今週土曜の佐竹義宣講座
第三回はちょうど
「佐竹義宣肖像画の謎」
だな
誰かネラーの参加者いないかな
- 100 :人間七七四年:2008/07/18(金) 02:20:36 ID:DCjj+2Vf
- 疑問があるなら何故自分できちんと調べようとしないのか。
最も知られている天徳寺蔵佐竹義宣像は佐竹義宣本人。
少なくとも佐竹家の人間であることは間違いない。そうじゃないという理由は何も無い。
義宣は梅毒に感染していたので、顔には相応に崩れていたと思われる。
よって顔をあえて肖像画には出さなかった可能性もある。
肖像画では左足は台の上に胡座をかくような形で乗せられており、
足の先が正面の草摺からちょこっと飛び出しているが、
大きさ的に微妙なのは、梅毒によって左足が収縮などしていたのかもしれない。
身につけている具足も間違いなく義宣のもので、
その二枚胴は現在八幡秋田神社が所有している。
義宣蔵には他にちゃんと顔の出ているやつもあって、
そこで着ている人皮仏胴の具足も義宣所蔵のもの。
ちなみに兜のフサフサは毛虫を表していて、ケムシ→ゲムジ→ゲンジ→源氏のシャレ。
- 101 :人間七七四年:2008/07/18(金) 08:23:31 ID:OTdWP8fS
- 伊達成実も毛虫前立だな
百足と同じで縁起物だったのだろう
水戸の県立歴史館にも義宣の毛虫前立兜のレプリカあったな
毛虫というか動物の尻尾みたいだけど
ふさふさしてて触ると気持ち良さそう
- 102 :人間七七四年:2008/07/18(金) 08:33:07 ID:7HIyeqfE
- 熊の毛なんだよ
- 103 :人間七七四年:2008/07/18(金) 10:14:34 ID:/c06/8yS
- 資料をあたるのにも知識が必要だべ。
梅毒が体の崩れるレベルまで進行しているとするなら、晩年に描かれた物という事になるな。
どう考えても不名誉な姿だから、後の代への戒めとしたのかねぇ。
- 104 :人間七七四年:2008/07/18(金) 20:20:39 ID:OTdWP8fS
- 肖像画は別に変じゃないと思うけど…
肘の下辺りに膝が来てると見れば足も普通だし
甲冑姿で鎧櫃に腰掛けて戦国時代の勇姿を画いてるわけじゃん
勘繰り過ぎだよw
- 105 :人間七七四年:2008/07/19(土) 01:56:26 ID:f4V7XwXV
- >>104
人間の体は、股を開いた時に爪先が表を向かないような構造にはなって無い。
- 106 :人間七七四年:2008/07/19(土) 09:06:51 ID:cSQXqiw5
- >>105
爪先なんて見えてないじゃん
絵のバランスが悪いからわかりにくいけど三枚の草摺りは正面に付いている
右側に見えているのが本来左足の前にある草摺り
その横から膝が出てるのが見えるよね
左足首は股間の前に付いてる草摺りから右足の下に入っている
- 107 :人間七七四年:2008/07/19(土) 18:53:46 ID:f4V7XwXV
- >>106
爪先がケツの下にあるなら、
鎧櫃のカドに引っかかっている袴が何処の物なのか分からんと言ってる。
脛当があるなら、ああいうたわんだ形にはならないだろ?
- 108 :107:2008/07/19(土) 19:01:32 ID:f4V7XwXV
- 追記。私自身はあの絵が下手糞だったりバランスが悪いとは思わない。
- 109 :人間七七四年:2008/07/19(土) 19:06:52 ID:osXG3r8X
- 上手い下手というか、昔の肖像画なんてそんなもんじゃね?
絵画の技法とか分からんけど、当時の肖像がなんて現代から見ればどれもいわいる
写実的な「そっくり」さを追求するタイプじゃないもんばっかりなわけだし。
ぶっちゃけ足がどうこうとか絵を見て判断するより、来歴とかそっち調べた方がよくね?
- 110 :人間七七四年:2008/07/19(土) 19:12:10 ID:f4V7XwXV
- >>109
つまり>>100の手法がもっとも究明に近い、と。了解。
- 111 :人間七七四年:2008/07/21(月) 16:10:01 ID:s6k1AfU0
- 甲冑着てるんだから戦国時代〜大坂の陣の頃をモデルにしてるわけで
どっちにしろ梅毒が進行する前って事だ
あの甲冑をいつ頃愛用してたかが分かれば年代も分かって来るんじゃないか?
- 112 :人間七七四年:2008/07/23(水) 13:38:12 ID:Jk9gUTPp
- 義宣の毛虫前立兜と肖像画の兜はかなりデザインが違うと思うんだけど
- 113 :人間七七四年:2008/07/23(水) 20:55:50 ID:DCHnco7k
- 茨城時代の老臣を皆殺しにしたのはガチなのか。首都移転に反対しただけで。
- 114 :人間七七四年:2008/07/24(木) 09:48:40 ID:ahiEuqvG
- 土崎湊に築城建設に反対したっつーか、佐竹にとって家臣団統制は鬼門だったんだわ。
北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。
つまり二頭体制になってしまうわけだ。
例えば武田で、晴信が信虎を追放したり、信玄が義信を廃嫡したりしたのは、
この二頭体制の克服を目指したものなんだわ。
佐竹は武田ほど激情型ではなかったので、やんわりと家督交代が行われてきたが、
それでも最終的には義宣が義重の家臣をブチ殺すことで、
ある意味「義重の息の根」を止めたということ。
実は義宣vs義重の戦いだったということだぬ。
義重時代も義重の近臣筆頭の車斯忠と、死んだ義昭の近臣筆頭の和田昭為が争って、
結局義重は和田昭為を追放してる。
あとはやっぱり豊臣を見ていて、三成派と清正正則派で争ったのとかを見て、
二の舞にはならないように先手を打ったんだろうな。
- 115 :人間七七四年:2008/08/26(火) 04:34:26 ID:kCE+VJYu
- 大事にそだてた渋江を討ち取った木村重成の子を匿っているんだから
新入りの身からすれば良い上司だったんだろう>義宣
秋田で酒造やってた筈>木村重成子孫
- 116 :人間七七四年:2008/08/26(火) 15:30:49 ID:S6RnseWT
- >>114
> 土崎湊に築城建設に反対したっつーか、佐竹にとって家臣団統制は鬼門だったんだわ。
> 北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
> 佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
> 例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
> そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
> 自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。
島津義久・義弘・忠恒の「三殿体制」も有名だし、小倉時代の細川忠興・忠利の二頭政治も山本博文氏の本で知られるようになった。
島津家の例は極端だしあまり例がない話だが、この時期の隠居と当主と両方いる家には大なれ小なれ似たようなことがあったのではなかろ
うか。
- 117 :人間七七四年:2008/08/31(日) 19:31:15 ID:p6oClXL4
- 父親の義重は、先祖の新羅三郎義光が活躍した場所だからといって、秋田行きを喜んでいた。そして義光の住んでいた横手に本拠地を置こうとしたのに義宣が勝手に秋田市を作ってしまった。
- 118 :人間七七四年:2008/09/04(木) 00:06:55 ID:r5tyamP9
- >>117
勝手というより、「海運」の重要性を知りつつあったんじゃまいか?
常陸太田は内陸だけど、海からはそう遠くない。
横手は川沿いとはいえかなり奥地。
- 119 :人間七七四年:2008/09/04(木) 00:12:07 ID:bCLh6/w4
- 義重の時点で鉄砲を大量に輸入してたり、商業センスもないと確保できないだろう
もう引退してたから政治どうでもよくて無責任に好きなこと発言してただけじゃね?
別に本気で言った訳じゃなくて、息子の方も本気とは受け取ってないんじゃない?
- 120 :人間七七四年:2008/09/04(木) 01:03:32 ID:/fMpKgL9
- 改易となった本多正純を預かった義宣の心中や如何に。
関ヶ原の戦後処理のこととか、色々あったろうに。
- 121 :人間七七四年:2008/09/04(木) 09:43:30 ID:uzb3kVgL
- >>118「海運」の重要性を知りつつあったんじゃまいか?
うーむ、そうだろう。
常陸太田は内陸だけど、のちに本拠とした水戸城は、川や湖に囲まれていて、
本丸直下まで舟で行けた。江戸城や大阪城も同様なのだから、秋田の新城も
「海運」を重要しただろう。
ただし、水戸の水運は、那珂湊まで容易に行き来できるが、
鹿島灘方面の波が荒く、川舟に米俵を積んだまま海に出られなかった。
- 122 :人間七七四年:2008/09/04(木) 09:48:51 ID:uzb3kVgL
- だから、米俵を積んだ川舟は、那珂川を下ってくると、水戸に着くが、
江戸に運ぶとなると、鹿嶋や九十九里浜の波が高いため、
水戸から涸沼にいったん運ぶ。ここで陸揚げして馬で北浦まで運ぶ。
北浦からまた舟に乗せて、利根川に入り、さかのぼって江戸川に入り、
江戸に運んだ。こうすれば川舟のままで運べる。
- 123 :人間七七四年:2008/09/04(木) 11:48:14 ID:bCLh6/w4
- そこまでするなら陸運でおkだろ
東海道があるし
かの北畠親房も挫折した水戸の海よ
- 124 :人間七七四年:2008/09/05(金) 12:31:17 ID:GFGLI/tT
- >>123
江戸時代までは、大量輸送と言えば舟。遭難のリスクはあるが、同じ量を運ぶ場合のコストは低かった。
- 125 :人間七七四年:2008/09/05(金) 21:38:51 ID:Wq8sc6ru
- 仙台藩の米は、これはやや大型の舟を使ったので、
鹿島灘や九十九里浜を一気に超えて、房総半島の先端を通過したが、
東京湾(江戸湾?)に入るのは、風向きの都合でやや難しかったようで、
南風が吹くまで湾口の港で待ったらしい。
佐竹のいる秋田から、江戸へ舟を回航するのはほとんど無理か。
むしろ、大阪に物資を舟で輸送した方が容易だったろう。
常陸育ちには、海運はほとんど無理。
- 126 :人間七七四年:2008/09/06(土) 16:56:15 ID:GT9K5/vW
- >>122
おいおい
利根川の東遷は江戸時代だろ
江戸初期までの利根川は江戸(東京)湾に流れていたのだから、佐竹の常陸時代には無理
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