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もし関羽以外の者が荊州を守っていたら?

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 09:44:56 ID:sifnyPMa0

 劉備がもし関羽以外の者に荊州を任せていれば、荊州を失わずに済んだだろうか?
 それともやはり呉に荊州を奪われてしまう結果は変わらなかっただろうか?

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 09:46:16 ID:xRy6bexu0
そもそも劉備陣営に、関羽以外に、
荊州を任せられるほどの人物がいたかどうかだな。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 10:55:32 ID:Q6oeraLcO
孔明しかいないが

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:30:46 ID:vh7XIAOc0
>>2
張飛がいる。
信用度も関羽と同等だし(後に外戚になるから建前上は関羽以上か)軍を率いた実績も後世から見たら関羽以上。
あと何気に土地を治める才覚も悪くは無かったみたいだね。
士大夫に対しては腰が低かったので結構上手くいったかもしれんw
結局、劉備は張飛はずっと手元に置くという選択をしたわけだけど・・・

>>3
諸葛亮が実績で頭角を現すのは入蜀以降で、はっきり言って30才そこらのぺーぺーに人が付いて行くは思えん。魏延もしかり。
入蜀時に任せられるのは関張の2択で、その後漢中王僭称時の人事で変えられるとしても4択。

@関羽・・・信用、実績、名声文句なしで留任
A張飛・・・同上だが手元に残したい
B馬超・・・名声は匹敵するが信用度は疑問だし、涼州専用の駒
C魏延・・・大抜擢で漢中

漢中は独自に侵攻することないので、ほぼ防衛時の専門だけど、
荊州は独自で侵攻することもあれば防衛もあるだろうし、一番重要なのは呉との力関係。これらを満たす人が要る。
結局消去法的に関羽しかいなかったと思うよ。
あえて言えば、代役となりうるのは張飛だけ(その場合、関羽はずっと劉備の手元)。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:35:32 ID:vbVBDhAeO
諸葛亮が守ればええんや。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:38:58 ID:Nca4cnyZ0
信用度だとしたら麋兄弟が関張に次ぐくらいなんかね?

麋竺に権限与えて荊州閥の将軍に輔佐させるとか。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:47:49 ID:6Dvzb71r0
じゃあ、劉備が荊州に残る。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:51:12 ID:ScFi1TyL0
無理だけどそれがいちばん

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:51:31 ID:xbWIGx4V0
刑州で関羽の補佐に諸葛亮がついてればたぶん大丈夫だった
尊大な関羽も諸葛亮の言うことなら聞くし、諸葛亮も、関羽の機嫌の取り方みたいなのをよくわかっていた

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:05:38 ID:5m12Gejk0
張飛だと、士大夫に格下に思われんか?
いや、関羽の様に見下すより、その方が上手くいく?

麋兄弟の弟の裏切りは、関羽と折り合いが悪かったからだよな。
悪い選択ではないかもしれない。

補佐は馬良になるだろうが、蜀はやはり駒が足りん。
…龐統の死とか痛いな…

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:28:23 ID:vqvr8nCK0
名実共に関羽以外に適任が思いつかない
麋芳士仁は陣中に留め置いて、廖化や馬良を江陵の守備に置く事は出来なかったのだろうか?


12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:36:39 ID:YI8XawTI0
関羽でなければ、(+諸葛亮も難しそう・・)

劉封+張飛(ついでに黄忠もつけてやるか)
関羽は上庸から漢中・荊州の支援。
劉備の養子・劉封なら名前負けもする可能性が少ない。
劉封も関羽・張飛に認められようと奮起するだろう。

後継者問題で禍根を残すかもしれないがこれがベストじゃない?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:40:26 ID:QZI8kqiB0
>>4
馬超は無理でしょ、荊州人士が納得しない。能力や信用度でいったら黄権も
候補だけど、こちらは関羽に変えるには名前に重みが足りないか。

>>11
失態があったので入れ替えて留守にしたという話がありますけどね。罰として
留守にするという人事は様々な意味で問題があるとおもうが。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:45:02 ID:SRRU28XjO
魏延に任せろ

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 13:55:29 ID:49fsneDn0
関羽は、部下とか自分より立場が下な連中には優しく接し、可愛がったけれど、
目上とか同じ立場の連中にはえばりまくって「俺は劉備以外には頭下げねーぜ!」
気質だったから、援軍もらった時に「余計なことすんじゃねーよ糞が!」
みたいなこと言っちゃったりして孤立したんだそうな

関羽じゃなけりゃ荊州は守れてたかもな


16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 14:07:08 ID:n5QE51ckO
関羽に荊州統治は適任だと思うけど、きちんと補佐できる人材をつけるべきだった。
人材難でもないのになんで王甫とか周倉とかしかつけてやらなかったのか…
やっぱり関羽のプライドがあったのかな。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 14:27:36 ID:5m12Gejk0
・・・周倉は、釣りだよな?

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 14:27:40 ID:d8eFe5UjO
別に関羽が悪かったのではなく、劉備側の外交ミスだと思うが。
信義を守って呉との交誼を固めていれば奪われなかっただろう。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 15:30:57 ID:49fsneDn0
>>17
釣りだろう。若しくはツッコミ待ち。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 17:46:03 ID:WW010MLp0
なんかこの板もすっかり三国志関連のスレだらけになったな…

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 17:46:17 ID:vh7XIAOc0
>>18
外交ミスを詳しく
知る限りミスといえば劉備のではなく、関羽が孫権との姻戚話を蹴ったことくらいしか知らん。

・・・

荊州の領土半分明け渡した時点で呉は「盟友」ではなく「仮想敵」。
呉からしたら江陵は絶対に譲れない土地ということくらいは関羽も認識してたはず。
信義とか交誼とか、そういうレベルの話は通じないでしょ。
現に劉備自身が乗っ取りを成功させて、その時代に甘い事は通用しないと知らしめてる訳だし。

つまり劉備・関羽からすると呂蒙(陸遜)に如何にして侵攻させないかの抑止力が第一であり、
次に侵攻してきた時にどう対応するかが問題であって、「関係をしっかり持てば呉は攻めてこない」という前提が間違ってると思う。
少なくとも江陵が呉の地になるまではね。


22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 19:57:15 ID:7gR6jwbVO
鳳統が孔明を妬んで、勝手に死んだのが悪い!
これによって、孔明が関羽から劉備の元へ移動した。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:03:42 ID:vh7XIAOc0
>>10
関羽の留守を預かった人達は呂蒙に対して戦意を見せなかったようだし、関羽は総スカン喰らってたと思われ。
公安江陵だけでも関羽が退却するまで踏ん張る事が出来たら、零陵武陵は取られるけど蜀への連絡路は絶たれないから別の話になったと思う。
まぁ、南郡だけだと荊州という飛び地で対呉対魏に対して勢力を維持できないだろうから、荊州方面からの魏侵攻路は無くなるだろうけどね・・・

張飛なら留守が無抵抗で降伏という、総スカンを喰らうとは思わない。



・・・結局のところ関羽個人の問題より、呂蒙という相手が悪すぎたのが一番の敗因だね。
呂蒙は215年といい217年といい、電撃作戦が上手すぎる。
騙し打ちとはいえ、相手に対応を許さずキレイに目的を果たしてるのは完璧・・・

個人的には誰が守っていたかという戦術レベルより、どうやれば呉に攻めさせない気を持たせられたかという戦略レベルの対応が必要だったと思う。
外交とは「○○はしてくれると思う(願望)」じゃなくて「○○はこうせざるを得ない」だから、呉が背後を突かないだけのメリットを与える必要がある。
劉備としては荊州は魏への牽制路/侵攻路だから渡せない、孫権としては荊州は(赤壁の報酬だから)本来呉が持ちえた土地だから欲しい。
劉備が出来ることは・・・
@襄陽ハン城を取ったら返します手形(この場合関羽は襄陽〜上庸〜漢中〜成都となりますます孤立する)
A関羽に北上を厳禁してその間に対呉への工作。逆に言うと呉が攻めて来ないという確信(工作)ができるまで北上させない。

前者の場合は魏に近すぎることから全力で叩かれるだろうし、援軍はほぼ期待できない。
後者の場合は呂蒙の病気がそれに当たるので、「病気なったから守備兵を前線に送った」が「病気になったのでほぼ全力で北上した」
になるだけで史実と同じ道になりそう・・・

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 01:41:33 ID:N5gag23sO
関羽以外なら趙雲

25 :18:2007/09/09(日) 01:46:30 ID:xEOFZvSaO
>>21
遅レスごめん。仕事してたもんで。
呉を仮想敵国とすれば、蜀は二正面作戦を余儀なくされる。
当然、魏に対する関羽の正面兵力に余力がなくなり、
それならいっそ荊州を放棄したほうがマシな情勢になりかねない。

どうあっても呉とは友好関係でいるべきで、外交努力により
魏との共闘態勢を作りあげるべきとなる。

いっそ劉備みずからが荊州に戻り駐屯すべきだったかもね。

外交ミスは語弊があった。
正確には「外交努力が足りなかった」と言うべきでした。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 02:50:00 ID:8o4eE20c0
総スカンってのは飛躍があるんじゃないのか、どうなのか。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 05:14:40 ID:Ldfpqplu0
>>24
あの時期で、趙雲にはそこまでの格はなかったんじゃないかな?

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 09:36:51 ID:EMxh7k7j0
関羽に守りきれないのに他の武将に守りきれるわけが無い

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 09:55:30 ID:gAuYsaK+0
関羽守ってねえし

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 10:48:46 ID:I1RBgJ2B0
趙雲は人の下で働く人間
関羽の補佐としてなら有りかも?

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 11:52:02 ID:2643M5DT0
趙雲がいなかったら誰が劉備を守るんだ

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 11:59:50 ID:kkTSybme0
関羽+諸葛亮

でおkだろ。劉備の判断は正しかったさ
やはりシゲンの戦死が痛すぎる

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:01:16 ID:I1RBgJ2B0
>>31
陳到とかどうですか?><

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:18:39 ID:9vaUTw080
>>25
劉備みずからが荊州に戻り駐屯、に同意。
長安奪取を目指さずに、襄陽からの北上に集中しても良かった気がする。
もちろん呉とは友好関係を崩さないことが絶対条件だけど。

手駒も漢中&襄陽からの二面作戦を実行するには軍師役になれる人間に
欠いていたし、無理があったんじゃないかなぁ

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:58:34 ID:253zcSwM0
とりあえずここら辺で
諸葛亮がいたら・・・って書いてる奴は孔明がいたら何が違ったか具体的に説明してほしい
劉備がいたら・・・って書いてる奴はその間にどうやって獲ったばかりの蜀経営をするか説明(ry

それと呉と友好をって奴は、
217年に形式上だけど孫権が曹操の軍門に下って、合肥-濡須ラインがほぼ暗黙の国境として定着し、ついでに魯粛が死んで孫権が拡張するなら劉備の荊州しかない・・・
つまり国策として劉備に当たることがほぼ決定してる事をどうするのか書け。

戦略上、孫権を思いとどまらせる案はあるのか
戦術上、呂蒙を撃退する術はあるのか


○○なら〜と羅列するだけなら議論が進まん

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 13:12:00 ID:I1RBgJ2B0
カンヌたんが娘を嫁にだしてたらよかった

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 13:26:33 ID:9vaUTw080
>>35
その呉の侵略を止めるには、孔明の口先三寸で〜って言うのはさすがに無理だろうから、
支配していた荊州を呉に返還する代わりに、不可侵条約を新たに締結する。
そして蜀経営は麋竺や馬良たちに任せて、漢中から長安侵攻に集中する。

もし可能であれば、長安侵攻に応じて荊州から呉軍が北上する約定を取れればベスト。
だけど呉と魏の関係が良好ならそれは難しいだろうと思う。

必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw
成都に関羽と馬超、馬良らを置いて、劉備と諸葛亮、趙雲らは荊州を治めつつ呉の態度軟化を図る。
でもこれだと呉との関係を良化するのに相当時間掛かるだろうし、結果的にジリ貧になりそう。

この他に良い方法を思い付けないから、もし良かったら>>35の意見も是非聞きたい。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 14:07:28 ID:253zcSwM0
>支配していた荊州を呉に返還する代わりに、不可侵条約を新たに締結する。

荊州を丸々返したら孫権も劉備と事を構える理由はない。間違いなく魏+呉vs蜀から魏vs呉+蜀になる。
しかし、荊州は劉王奇から譲り受け、劉備自身は漢中王になるまでは左将軍荊州刺史だったという大儀名分が
やすやすと譲りわたすほど軽くないだろうし、仮に(ありえないだろうけど)「呉と争わないなら安い」としても、荊州士人がそれを許さないと思うよ。
この時点で劉備陣容の構成は関張みたいな最古参組・麋兄弟などの徐州組・馬兄弟や孔明の荊州組・黄権や法正の益州組で、
序列では徐州以前の古参が随分と高いけど、大多数を占めたのが荊州と益州。その両者のバランスをひっくり返すようなことは出来なかったはず。

さらにこれらの問題をどうにかして、決断しだいでは返還できたとしても、劉備が襄陽(中原)への入り口を諦めるはずがない。
呉にその侵攻路を譲る(呉がそっちから攻めてくれる)など、そんな甘い考えは一瞬でも持たなかったと思われ。
現に孫権は荊州南部を掌握後も、魏への侵攻は主に揚州から行ってるしね。
この時点で蜀の国策としての魏への侵攻は 漢中-長安 漢中-涼州-長安 江陵-襄陽-南陽 この三本立てが根幹をなしていたはず。
多分孫権などほとんどアテにしてない(←いいすぎだけど、呉の性格上余計なリスクは犯さない国だと理解してたはず)。

長くなったので区切るけど、「蜀とったから返せ」との要求の答えは「涼州取ったら返します^^;」だったはず・・・
少なくとも、漢中-長安の一本だと無理と認識してたのは間違いない。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 14:16:05 ID:9vaUTw080
>>38
じゃあ、>>38だったらどう対処するのが最善だと思うか、それも聞かせて。
俺には>>38の反論に対する別の策が考え付かないからさ。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 14:47:23 ID:253zcSwM0
続き

>必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw

死守というか、>>38で書いたように何故劉備にとって荊州が譲れないかといえば、長安と襄陽を同時に脅かすことが出来るということ。
だから、荊州を放棄するからには別の侵攻路が貰えるか、もしくは長安が確実に落とせ、尚且つ長期保有できるという裏付けが必要になる。
どっちもあり得ない話(敢えて言えば・・・涼州を丸ごと手に入れれば近いのかな)なので、その時点では文字通り死守するほかない。

っと、ここで私案だけど、
まず関羽の出兵を遅らせるべきだった、というのが一つ。
というのも漢中からの同時出兵でもなく、呉との関係がいいわけでもなく、呂蒙が病気になる前で、情勢的に最悪のタイミングだったと思う。
呂蒙が急襲したというのはあくまで関羽の留守中に、しかも呂蒙が病気と信じて守備兵を減らした後ということだから、関羽がいれば正面からくる可能性は限りなく低い。
仮に正面から来ても、恐らく3万と言われてる劉備の荊州方面の総兵力があれば援軍が来るまで持ちこたえるだろうし、上手く行けば領土を失わないどころか、
漢中方面で曹操に動きがなければ215年に失った長沙と桂陽を取り戻せるかもしれない。
まぁこれは後知恵以外の何でもないけど、220年には呂蒙は死ぬ訳だしね。

関羽が独断で攻めたはずが無いので、恐らく本拠地-漢中-上陽-襄陽-江陵-本拠地というリンクを作る劉備の腹だったんだろうけど、甘すぎたと思う。
二正面作戦を強いられてる方面で敵片方への配慮を疎かにし、その上ほぼ無援だったのだから、攻勢に出る場面では決してなかった。

というわけで、また長くなったけど、「襄陽攻めるな」「待て」ってのが取れる限り最善だったってのが持論です。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 15:08:33 ID:9vaUTw080
>>40
続きの途中に書き込んでしまってすまんかったです。
なるほど、関羽に侵攻指示を出すのをもう少し待っていれば、まだ状況は良かったかも知れないと。
この指示は恐らく諸葛亮によるものだろうから、これは諸葛亮の大きなミスと言えるね。

そうなると、漢中を獲ったまでは良いにしても、漢中王宣言は失敗だったのでは。
あの宣言は魏への反乱の火種にはなっただろうけど、同時に呉に与えた衝撃や圧力も小さくなかったと思う。
もしあの宣言がなければ、呉の態度はもう少し軟化していたのでは?

と思うんだけど、これも甘い考えかな?あんまり自信ないw
それともう一つ。荊州を統治する大将として関羽を置くのは妥当だったのかな?
誰か他の人材を置いた方がいいとかあればそれも聞かせて欲しいです。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 15:13:50 ID:eXWlHs5F0
>>40
ふむ。
そうすると関羽は自分で反乱の兆しを撒いといて、
いざ反乱が起きたらそれらを援助せず見殺しにしろと?
たぶん、蜀は反魏から二度と信用されなくるね。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 15:40:28 ID:253zcSwM0
>>42
そう。全てが早過ぎた。
反乱を利用しに出兵して、その出兵を利用されて全てを失うくらいなら、まだ見殺しにしたほうがマシ。
大体、曹仁をはじめとする本来の守備隊に加えて于禁と徐晃、
果ては夏侯惇まで動いていた魏に勝機というか、落としどころはどうみても無い。
魏から見たら襄陽と樊城は荊州から呉なり蜀なりが中原に出てきたときの「蓋」なんだから譲るわけがない。
つまり単独で攻めたら魏の総兵力を相手しないといけないわけだし、結果として徐晃軍で打ち止めになってる。

ようは負けても元の鞘に戻るだけという認識だったのだろうけど前にも書いた通り、
呉は既に帰順して(おまけに親劉備と言われてる魯粛が死んでる)その矛先を劉備領荊州に向けてたのは217年の段階で明白だったはずだし、
「関羽が居ない」「守備兵も少ない」「関羽は撃退されて退却中」こんな好条件がそろってる中で攻めて来ないと考えるほうがおかしい。
仮に襄陽と樊城の奪取に成功しており、失ったのは南郡と零陵武陵・・・つまり領土だけで、残りの関羽軍は健在だったとしても
完全に補給も援軍も絶たれてる中で北から魏、南から呉という絶対的な挟撃を防ぐ手立てはないと思う。

関羽にとって魏への出兵は漢中の劉備出兵とセットであり、これによって関羽への圧力が減ることが唯一の襄陽奪取・維持の条件じゃないかな。
それが出来ないのに小事のため(決して小事ではないけど・・・例え、ね)に大事を失うのは余りにも痛い。

44 :劉備を荊州に駐屯論者:2007/09/09(日) 16:10:10 ID:xEOFZvSaO
私見では以下の布陣を。

荊州…劉備、関羽
成都…孔明
漢中…魏延
遊軍…張飛、馬超

劉備率いる主力が江陵に駐屯していれば呉も迂闊に手出しできない。
孔明らに内政を任せ、新規に徴発した兵を張飛らに訓練させておき
いったん緩急あれば関羽を北上させる戦略。

おそらく魏延がナイスなタイミングで長安を突いてくれる(ハズ)

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 16:13:01 ID:t7e47CWk0
>>43
損得で味方を見殺しにするやつは滅びると横光三国志に書いてあった

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 16:46:06 ID:253zcSwM0
>>41
漢中王はあまり呉の方針に影響は無いと思うよ。
何が呉を変えたのかというと

・合肥+守備軍が強すぎる(何度も痛い目にあってる)
・下?は地理上リスクが高すぎる

という風に、この方面は攻めるのには難しすぎるという結論に達した事。
逆に防衛には成功してるので両者で自然と国境線が出来上がってしまって、膠着してしまったこと。


それに加えて、赤壁後決して荊州南部をフリーで劉備に渡した訳じゃなかったこと。
特に江陵は全力で奪ってるのに、奪ったことによるメリットは劉備にしか行ってなく、
いくら大義名分が劉備にあるとはいえ荊州南部は(特に劉備が益州獲ったなら)呉の物であるという下地があったこと。
(現に劉備も「返します返します」と空手形だけど、何時かは呉へという負い目があったと思われw)
孫権から見たら、荊州北部方面の侵略から揚州を守るには夏口を、夏口と荊州南部を守るには江陵を、と江陵はどうみても最重要拠点とみなされてたはず。

長沙桂揚割譲後の呉の領土は、曹操から見ると劉備の江陵を落とせば揚州と荊州南部両方にナイフをつきつける格好になる。
劉備から見れば(その気はまるで無いだろうけど)いつでも取り返して孫権の荊州の足場を夏口だけにさせることが出来るように見えたと思う。
つまり、呉からすれば江陵が無いと赤壁からの努力はいつまでも不安定な訳で、
劉備が居座る限り衝突するのは必死だったということになる。

呉が軟化する可能性として考えられるのは、

・曹操が死ぬまで待って「魏が弱くなりました!攻めるチャンスです^^」と、矛先を魏に向けること
(現に孫権は死後襄陽を奪おうとしてる)
・涼州を本気で取りにかかって「あと少しで荊州返せますから待ってください!今度は本当に返します!」と話に信憑性を持たせ、
「あと少しで手に入るなら待とうかな」と、考えさせること

これくらいかな。

あと、関羽を配置したのは凄く妥当。
入蜀前だと、正式に漢から高位を授かってるのは劉備以外では
関羽の偏将軍と張飛の中郎将くらいで他は取るに足らない・・・
尚且つ対外的にもこの二名が飛びぬけて有名だった。
さらに軍権を握るに当たって実績と信用でこの二名に匹敵する者はいなかったこと。
これらを考えると、はっきり言って関羽か張飛しか選択肢がなかったはず。

漢中王になって勝手に人事できるようになったあとでも、劉備陣営で名実ともに関羽に伍するのは馬超と張飛しかいない。
結局、「関羽しかいなかった」が正解だと思う。


>誰をつけるか

普通の場合は越権や独断行為を監視する目付け役なんだろうけど、関羽の場合はそれが必要ない。
関羽に外交権などは当たり前に無かっただろうから、「付く人」というのはほぼ100%軍の役目・・・
法正のような策略家で尚且つ関羽も話を聞く人、樊城戦の見極めが出来た人かなぁ〜
正直、思いつきません・・・
拠点の太守の(劉備からみて)信用度は「絶対裏切らないレベル」の麋芳だし、裏切りに近い投降をするだろうという前提で代えると後知恵になってしまう。
・・・守勢に強く、機転が効く・・・張既のような人物を守備に置いて行けるような状況だったら良かったと思う。

(黄権or法正+孔明or馬良)/2=?



47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 17:04:46 ID:xEOFZvSaO
>>44ですが、>>46氏の考えにかなり賛同します。

で、補佐の人材ですが、いわゆる大物軍師である必要もないかと。
すでに国家の戦略は孔明がいますし、荊蜀で得た有能な幕僚もいます。
関羽に必要なのは局地戦での戦術を立案する参謀では?

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 17:43:25 ID:Nz93tv6aO
>>45
でも関羽はあっさりと言う程綺麗にやられちゃうしなぁ

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 21:03:47 ID:9vaUTw080
>>46
レスサンクスです。
せめてもう少しだけ待っていたら曹操も呂蒙もいなくなっていたのに・・法正も死んじゃうけど。
でも曹操の場合、関羽が生きたままなら数年長生きしてそうだけどw

関羽の傍に置く人物は、やはり馬良ぐらいなものな気が俺もしますね。
侵攻を数年遅らせた場合、蜀内も内政的な意味でもっと安定していたことだろうし、
そしたら諸葛亮の負担がもっと減っていたかもしれないし。

やはりあの状況下で関羽を動かしたのは、天命が無かったというか何か諸葛亮の焦りが感じられますね。
ただ、数年遅らせても曹操が死亡しなかった場合、その数年間に待ちきれずに呉が侵攻してくる可能性が
高いだろうから、それも運頼みでしかないところが辛いところ。

こうやって考察して行く内に俺の中で結構まとまったのですっきりしましたw
とても有意義だったと思います、ありがとう。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 21:34:20 ID:eXWlHs5F0
>ただ、数年遅らせても曹操が死亡しなかった場合、その数年間に待ちきれずに呉が侵攻してくる可能性が
>高いだろうから、それも運頼みでしかないところが辛いところ。

数年どころか曹仁は関羽討伐の準備をしてたんだが。
魏は漢中の敗戦で反乱が連続で出て襄陽の守りが薄くなっただけだし。
多分、攻めなければ江陵は曹仁に落とされた可能性のほうが高い。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 21:48:54 ID:9vaUTw080
>>50
曹仁らを相手に守り通すのは難しいということね。

とすればどうすれば一番ベストなのか、>>50の対案を聞きたいところだけど

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 22:08:18 ID:eXWlHs5F0
なにをもってベストなのか分からんが、
たった5年足らずで益州と荊州を両方維持しようするのが無理がある。
孫権ですら江陵の維持は難しいと見て、劉備に貸しと言う形にしてるし。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 22:22:05 ID:9vaUTw080
>>52
>>1を見る限り、荊州の維持もしくはそれと同等の価値を持った戦略=ベストだと思う。

益州と荊州を両方するのに無理があるなら、荊州から撤退すれば良かったってことなのか、
それとも他に何か手段があったのか、考えられる戦略を教えて欲しいな。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 22:30:45 ID:eXWlHs5F0
と言うか、曹操はどうすればベストか、孫権はどうすればベストかを
考えれば劉備の行動もある程度の方向がわかると思うが。
少なからず今まで無茶の結果が呉に荊州を奪われる事になったが
これは劉備にとって最悪ではないからな。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 01:32:44 ID:UpNW8RF50
>>50
>数年どころか曹仁は関羽討伐の準備をしてたんだが。

鎮南将軍として赴任して宛の乱を治めたのは周知だけど攻勢を準備してたのは初耳。。
というか、拝命してから4年は立ってるはずだけど、その間に曹仁のメジャーな攻勢または攻勢の計画ってあったの?
江陵は周喩の攻勢に耐え切れず放棄し、南郡の大部分を諦めた土地だと思うんだが・・・

>>52
維持しなければ益州に閉じ込められて中原への覇を唱えることは無理、
つまり荊州放棄は地方政権として甘んじることを半ば公表するようなものだよ。
それは劉備の国家としての成立ち全てに矛盾が起きるのでありえない。
それに孫権がとったばかりの江陵を放棄した210年と、荊州経営から9年がたった関羽の219年は比較できないんじゃない?
孫権は荊州に足がかり=コネが殆ど無い上に直接曹操の脅威に面し、
その上江夏と違って江陵を守ることイコール劉備の領土を守ることだから旨味がほとんどなかった。
つまり放棄して劉備に「貸す」ほうが美味しかったわけで、技術的な問題じゃないきがする。
関羽が難しかったのは益州から遠く離れてほぼ独立経営状態で魏と呉相手にし、その上で片方に攻勢を掛けるという本来あってはならない状況だったから。
逆に一時的にせよ守るだけなら、固めて援軍を待てばいいのだから、魏か呉の侵攻=喪失にはならない。


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 01:38:15 ID:UpNW8RF50
自己レス>>55
>拝命してから4年は立ってるはずだけど

何を狂ったのか、4年はありえないね・・・
218年に反乱があって、219年初頭に鎮圧だから、どう考えても1年未満。
スマセン。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 02:54:19 ID:s3QrNuw20
>>35
ついでに、孫権の妹を劉備のもとに呼び寄せる条件をつければ
よかったと思う。

孫権の妹の里帰りの後、孫権の息子と関羽の娘の婚姻話が出たんだよね?
時系列が間違ってればすまん

58 :ポントラーフ ◆rF3U/UzFSU :2007/09/10(月) 07:15:11 ID:GNFvYxbv0
じゃあ僕がケーシュー守ってやんよ

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 10:50:29 ID:4hKF2ZA70
いやいや俺が

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 14:17:17 ID:LNVWJkdf0
仮に荊州を任された者が劉備に叛旗を翻して自立独立した場合、
三大勢力に囲まれた中で、巧みに勢力を維持なんてできるだろうか?

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 15:14:19 ID:gEBdm4h70
荊州全体の戸籍数は益州の三倍。地理的には益州領有するよりも人材面
経済面で勝るな。さらに南を支配できれば交易も見込める。
そして漢中を通らず蜀を滅亡させることすらできる。

だが襄陽は非常に後の時代の戦いを見ると北方面から守りにくい。
地形的な守備力という点では最弱だろう。全方面に面しているし。
荊州という土地は独立する土地じゃなく南朝政権に吸収される運命の
土地なんだよ。益州は土地の閉鎖性で独立が可能だが内部の人の上に
のっかる形に常になるな。
荊州は経済面と人材面では将来も充実してる地域だが独立は無理じゃないの

そして関羽の代わりは劉備本人とその幕僚がするべきだったのかもしれない
な。
漢中が安定してなくて益州も不安だろうが守るだけなら荊州よりは易しい。
ただ関羽は益州の複雑な利害関係を政治統治する能力は0だし李厳やなんか
に任せて益州人にパワーがシフトするのも困る。
諸葛亮と張飛魏延馬超あたりかな。 

貧乏と過疎というボトルネックを解決するためには荊州は必須だから
歴戦の劉備本人がいれば関羽よりはマシじゃないかな。

どの道、北伐というのは南と北の肥沃さが逆転しない限り不可能という
ことが実証されてるわけだから結果的には守勢をメインにすべきだったな。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 15:16:34 ID:XaB7P0pD0
>>61
確か人口の3分の一以上が南陽郡に集中してるんじゃなかったっけ?

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 15:24:28 ID:ORiZ5L900
劉備は蜀割拠が目的ではなく、漢の領土全部を手中にする
足がかりとして蜀に拠ってるんだろ。
だったら無理でも出て行かないとダメなんじゃないか?

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 16:56:04 ID:kvOFsREoO
>>61
どっちにしろ魏呉の主力軍と渡り合える将帥は劉備しかいませんしね。
東西南北の軍事の要衝である荊州であればこそ、
やはり劉備みずからが駐屯するべきだったでしょうね。

余談ながら、何年か失念しましたが劉備が益州入りした直後
呉軍が南荊州に侵攻した事件がありましたが
その時には劉備みずからが蜀から荊州に下り呉軍と対峙してます。
で、諸葛兄弟の会談により湘水を境とする合意がなされますが
これも実は孫権が劉備軍…の圧力を勘案した妥協だったのかも知れませんね。
ヤル気なら交渉には応じず江陵まで一気に攻めたでしょうし。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 17:20:45 ID:jiF35xR3O
関羽じゃなくて岳飛や楽毅が荊州治めてればよかった

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 18:22:15 ID:HW40GzrgO
李厳は荊州人だからむしろ荊州においとくべきだったんじゃないの

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 00:35:22 ID:WYJSIJUg0
荊・益を一つの勢力として抑えようという戦略がまず無理があったんじゃないかと。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 03:38:47 ID:tVQjZCyK0
>>67
kwsk

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 13:04:13 ID:zpSv6dCaO
カンヌ以外におらんでしょ
蜀取るまではどことも戦いたくないだろうし
周りへの影響力ではカンヌしかおらん

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 13:06:04 ID:NBXq4XZm0
荊州を死守することは不可能だったと思う
孫権との縁談が成功してれば可能性はあったかもしれないけど

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 20:41:52 ID:0kqCXw1Z0
>>60

その時代では無理。無理だから劉備に叛するなら曹操か孫権に流れる。
それは魏でも呉でも同じ。
超辺境な交州の士燮や遼東の公孫一族ですら半独立の服従がやっと。
仮に劉備から任されたのが関羽以外で、もう劉備ヤダってなったらどちらかの支配下になるよ。
劉備からみたら失うことも嫌だけど(失うだけなら劉備は0になるけど魏や呉が+にはならない)
敵対勢力の利にもなるから絶対に信用できる人が必要だったわけ。





俺は最近、荊州の喪失は劉備に親族・血族が居ないことが遠因なような気がしてきた。
唯一のそれにあたるのは養子でしかも将来実子の敵になりうる劉封だけ。
曹・夏一族は出来すぎだとしても、せめて孫一族程度の血縁がいたら劉備の負担はグンと減って、
持ち得る選択肢も増えたのではなかろうか。
やっぱり幽州の出自で益州が勢力というのは、背景は似たような(土着豪族、財無し名無し)孫一族が揚州に根付いて発展したのと比べて物凄いハンデなような気がする。

孫権は頻繁に情勢に合わせて拠点を変えてるし要所を一族の者に任せたり一軍を率いさせたり・・・つまり重要方面を完全に任せられる人物が居た・・・のに、
劉備は領土を得たばかりで尚且つ自分がフレキシブルに動けないというのはね・・・


72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 23:14:47 ID:q9Sdwdtw0
>>67
益州と荊州の境は、大巴山脈や巫山山脈の非常に険しい地勢。
長江沿いに移動するしかないけど、
あの時代によく軍隊の行き来ができたものだと思うよ。
蜀の領土として維持し続けたとしても、
荊州は常に半ば独立した格好の不安定勢力になり続けたと思う。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 20:06:21 ID:86Uwf0AM0
>>55
曹仁が襄陽に来たのは曹操から関羽を責めるために派遣されたと
何処かで読んだ

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 20:47:50 ID:FjdNn/zh0
>>73
多分それの根拠は武帝紀だな。
武帝紀の侯音の乱の記述の所に、「初、曹仁討関羽、屯樊城」とある。
この記述だと、既に曹仁と関羽の間で何らかの衝突があった事になる。
これが218年冬10月の事で、217年2月の所では夏侯惇らと共に居巣に駐屯した記述もあるから、
曹仁が樊城に入ったのは、この間の事だね。

考えるヒントになりそうなのが、218年正月の吉本の反乱じゃないかと思う。
武帝紀の注釈に引く三輔決録では、吉本らが劉備に援助を求めるつもりだった事と、
関羽の勢いが盛んだった事が書かれている。
曹仁を樊城に派遣したのは、この吉本の乱の前、217年内の事だと思う。

関羽の勢いが盛んだったから、荊州の防御に曹仁を回す。
その後、吉本が関羽に助力を頼みつつ乱を起こして、関羽が援助の為北上。
樊城にあった曹仁が関羽に当たってこれを撃退した、って流れなんじゃないかと。

だから、武帝紀では既に何らかの衝突があったように書かれてるんだと思う。
まぁ、その後に関羽を討伐する計画があったかは分からないけど。

75 ::2007/09/14(金) 12:04:36 ID:ohUaDBiSO
張飛、縻方、陳到、李厳、馬良、魏延を残して、関羽派は漢中だろうね。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 14:26:46 ID:NtJTqGAXO
結局、蜀と荊州とどちらを重視するかによる。
蜀重視なら関羽は荊州残留だし、関羽以外に任せられる人材はいない。
荊州重視なら劉備自ら荊州に戻るべきだし、
そうなると蜀地内の安定は孔明の双肩にかかる。
漢中制覇から関羽の北上までの一連の流れは間違いではないし
兵勢から考えても一気に攻勢に出てよい局面。
やはり外交の不徹底が最大の敗因だろうね。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 14:48:32 ID:vM6w49Gf0
>>76
まっ結局はまとめる人材が何人かいればよかったのだよ
後、関羽とその他を円滑にまとめる誰かがな

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 15:45:37 ID:3YkIMdBo0
シミュレーション小説っぽくなるが、ジョショがいてくれたらなぁ…

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 16:17:24 ID:NtJTqGAXO
文官が一人増えたところで大勢はかわらないよ。
ifを言うなら、魯粛や満寵のような大器が必要だった。
劉備軍閥は長期の流浪により、軍団としての結束は固かったが
規模がなかなか大きくならなかったために大器の人材が育たなかった。
最後まで、劉備一人が将軍だった。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 16:55:15 ID:n8oAARHHO
ジョルノ・ジョバーナやブチャラティがいれば万事丸く収まった。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 17:02:03 ID:ObLqmK4l0
徐庶なんていても何の役にもたたねーだろうなw 
徐庶は穎川の出だし魏のほうがいろんな意味で向いてたんだろうし。

要地を纏める人間てのは別に軍事の天才でも内治の天才でもある必要
はないそれ自体が能力。防衛施策を施し、安易に動かず水面下で有事に備える。
自分の寝る時間を削って人と対話をし人間関係を築く呉の呂岱みたいなのが
いればよかったね。

蜀て本拠四川政権じゃ荊州保有時は歴代有数なんだよなぁ。荊州あって
存在価値があるわけで。

攻勢に出たのは大いなる間違いだな。近代除いてこの戦力差、この
人口差で北上して成功した事がない。それだけ南から北は至難な事だ。
桓温は中原が無茶苦茶な時に隙をついて成功したがそれでも即時放棄を
余儀なくされた。東晋よりも領土の小さい蜀が安定してる大国を攻める
とかリスキーだ。やるなら魏が無茶苦茶な状態になるまで刑州を全力
で堅持してそれからだろう。 本拠も安定してねーし。

攻勢の戦略というのが劉備の致命的な失敗。 
髭も大人しく堅牢しとけやて言われてれば守りきったかもしれんし。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 18:42:15 ID:vM6w49Gf0
>>79
そうか?
まとめ役がいれば少なくとも即降伏はなかったろから
守れたんじゃないか?

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 00:32:25 ID:vQTEAqZQ0
>>79
張さんは育ったろ。呂布時に比べたら。
少なくとも、荊州脱出時点での仁王立ちとかなかったら
劉さんが死んでるか、少なくとも、軍事基盤を失ってる。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 14:48:18 ID:4l3LBCEe0
>>72
南朝の西府軍のような存在になったかもね。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 15:47:24 ID:vko+FU16O
>>83
張飛は育ったというか、将器が開花したというべきかな?

それまで小部隊を指揮する程度の役目しかなく、
国士の器でありながらも将器を発揮できなかっただけでは?

関羽も同様で、荊州を任されてようやく中原に威を轟かす活躍が出来たんだと思う。
逆に言えば二人が劉備ではなく曹操を主君としていれば
早くからもっと活躍できていたかも知れない。

庶民のまま終わったかも知れないけどw

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 21:35:29 ID:NYy9MaGKO
趙雲だったら守れた?サポートは法正とか

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:28:57 ID:GUGYONzW0
ここは良スレだなあ

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:31:18 ID:CjEBgadr0
>>85
関羽ってもし曹操に仕えていたら、どこまで出世したのかなあ?


89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:32:16 ID:gd+z2gqg0
>>88
かなり出世したと思うよ
曹操が気に入ってるのだから

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:33:53 ID:q/q6/7ot0
>>86
三戦板に似たような名前のスレがあるから過去ログ漁ってみるといいよ

初期は稀に見る良スレだった

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:40:16 ID:gd+z2gqg0
>>90
初期は良かった
まじめに議論してるひとが多かったから

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 00:22:29 ID:+lSD3xve0
劉封の立場が不安定だったのが惜しいなあ
なかなか武勇に優れていたそうだし優秀なお付きが居れば
一方面だけでなく荊州全体を守れるくらいになってたんじゃないかな

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 01:16:26 ID:MJ437q/mO
>>86
趙雲じゃ話にもならない。
広大な荊州を統治して、人民の信望を集め地方豪族を統括するには
主君劉備に並ぶ名声と器量が必要。
無名に等しく、一部隊長程度の将器の趙雲では無理すぎる。

>>88
出世したかどうかより、曹操の知遇を得られたかどうかが肝心かと。

>>92
むしろ養子ではなく臣下であれば有力な候補だったろうね。
将器としては魏延にも匹敵しただろうし、猜疑の目で見られない臣下であれば
抜擢もありえたかも。
なまじ養子であったために無用な疑いも受けたみたいだし
権力も与えられなかったように感じられる。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 10:41:22 ID:yFBMtM/G0
臣下だったら余計無理だと思うが、劉封はまだ若くて武名も足りない
親族扱いだからこそ一方面を任せられた訳で、一臣下の身分で荊州を任せられる訳が無い。
また器の面でも孟達との一件を見るに荊州を任せるに足る器とは言い難いし。

元々荊州自体が不安定過ぎる、人材・兵士共に益州へと流出してる上に大勢力に囲まれた地域で
さらに劉備との義侠的な繋がりと個人の武名しかバックボーンの無い関羽しか、
荊州を任せられるに足る名声が無いところが、劉備側の人材層の薄さを物語ってる。
あと劉備の人材配置は軋轢を無視してる傾向があるから、そこも憂慮すべき点だと思う。

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 11:18:03 ID:NBrSTMpA0
上庸は魏からも蜀からも特別に重要視された形跡がないからな。


◎長安     宛城へ
|        ↑ 
|漢中     ○ハン城
○-----△----◎襄陽
|        | 
|成都     ○江陵
◎-----------○公安
          |
          ○武陵
          |
          ○零陵


見難いけど△が上庸。
漢中より陸の孤島で、正に鶏肋という表現が相応しい。
劉備からみたら重要度は
@益州(本拠)
A荊州南部(中原侵攻への拠点)
B漢中(長安侵攻への拠点兼第一防衛ライン)

劉備が自然に@。
Aに趙雲(親衛隊長、一部隊長)とか劉封(実子が出来た前に取った養子)とかだと話にならない。
結局関羽しか居ない
ただでさえBで魏延という冒険をしてるんだからね。


96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 11:28:20 ID:MJ437q/mO
>>93です。

>>94>>95
まず、真摯なレスに感謝します。
上のほうにもあったけど良スレですね。
これからもヨロシクです。

で、私見の続きを。
劉封はかなりの大器だったと思います。
若くして劉備に見出だされただけでも非凡であっただろうし
後に孔明らに警戒されたように剛勇で気宇壮大であったろうと思います。
これは魏延に似てると思いませんか?
魏延が漢中の督に抜擢されたのと同様に
劉封も抜擢された可能性はあるかと思います。

ただその足枷が「養子」という微妙な肩書。
実子でもなく、半端に影響力のある立場だけに
強大な兵権は与えにくかったのではないでしょうか?

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 11:50:37 ID:yFBMtM/G0
>>96
非凡であっても入蜀の際には若干二十歳余でしかない若者が、
劉備の親族という立場なくしては一方面の司令官とかまずありえないし、
実際には孟達の送った手紙を見る限り、劉封は劉備の親族としてかなりの待遇を受けてる事は間違いない。
また劉封は気力・武勇に優れていたとあるが、武勇ならば三国でも傑出した存在である関羽を
差し置いて、劉封を荊州に配置する意義も無い。

それからハッキリ言ってしまうと劉封の戦績は乏しいんで実際に魏延に匹敵する将器かどうかは不明だし
気力・武勇に長けるというだけで匹敵するというのは暴論であり、
ぶっちゃけ魏延自体が荊州を統括するには格不足で、魏延と=になったところで荊州督は無理。
既に書いたけれども、個人的な軋轢から孟達を侵害して上庸を失うなど、大将の器としても疑問なんだけど。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 11:54:18 ID:sI4gv9n40
劉邦、魏延の悲劇は同陣営に孔明がいた事 これだけはガチ

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 12:15:59 ID:NBrSTMpA0
うーん・・・
まずね、漢中王宣言後の人事では
劉封は副軍将軍、所謂「雑号将軍」ね。
劉備の代表的な将軍は同じ時期に

関羽:前将軍(仮節鉞・督荊州)
黄忠:後将軍
馬超:左将軍(仮節)
張飛:右将軍(仮節)
魏延:鎮遠将軍(督漢中・太守)
趙雲:翊軍将軍(漢中前)虎威将軍(漢中後?)

この時の劉封は恐らく30才前(益州侵攻時に20+)だから、スピード出世ではあるけど
上記には遠く及ばない。
仮節ってのは軍事裁判権というか、軍規に背いた者を裁く権限のこと。
名目上は黄忠が2位だけど、仮節がないことから名義的なものだと判る。
逆にいうと将軍トップ3は関羽馬超張飛。

(記憶が正確でないので鵜呑みしないで→)特に関羽は「鉞」といって軍にとどまらず、
劉備が任命した官位を持ってる人も裁く権限が与えられていた。

こういう権限が与えられるのは、功があり信用され内外に名がある将軍だけ。
30弱で劉備の「身内」だけど微妙な立場の劉封にはとてもじゃないけど、与えられる役割ではない。
確かに養子という点で出世スピードは速いけどね・・・孟達が劉封の微妙な立場をよく理解してる文章があったので良く読むといいかも。

「猛勇」であるという記述は確かにあるけど、それだけで蜀の命運を握る荊州を任せるわけにはいかないのが当時の現実だと思うよ。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 12:17:15 ID:NBrSTMpA0
あ、書いてたら>>97とかぶったw
ごめんなさい

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 13:17:34 ID:yFBMtM/G0
>>98
そりゃ違うと思うね。
劉封の悲劇は、劉備が劉封に対して立場を配慮した人事をしなかった事であり、
もっと遡れば養子にとられたこと自体が悲劇の始まり。
孟達が指摘するとおり劉封の立場は微妙であり、劉禅からすれば脅威になりかねない存在
諸葛亮の提言は実に理に適っており、政権の安定性を考えるならば仕方の無い処置。
また劉封自身にも上庸においての罪もある。

魏延は諸葛亮の下でも栄達を続けており、諸葛亮に暴言を吐いても
同僚と問題を起こしても我慢強く使ってもらってる辺り
諸葛亮の指揮下に居た事は決して悲劇ではない。
魏延の悲劇は自分が全軍を担う将軍の器と勘違いしちゃった事だろう。
諸葛亮の撤退命令を無視して楊儀と政争を起こした事も魏延自身の判断に基づいた行動だし
誰かのせいと責任転嫁できる類のものじゃない。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 16:03:14 ID:MJ437q/mO
皆さんの意見は筋道が立っており概ね同意できました。
まあ、ロマンと妄想の一つとして「劉封大器説」を唱えたくなりまして…
歴史は勝者が記すものですから、
敗者である劉封があまり良く書かれなかったのではなかろうかと推理しまして。

確かに当時の劉備陣営としては関羽張飛ぐらいしか大将がいなくて
あの配置が最善であったろうというのは理解できます。

そうなるとやはり、勝敗は兵家の常ながら関羽の不覚が惜しまれますね。
南荊を失う事なく呉軍を撃退できていれば…と思います。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 16:23:19 ID:dHleCWf10
武勇に優れ〜、張良陳平の風があり〜、知略に優れ〜て評は一種
のきまり文句みたいなもんで正史には頻繁に使われる常套句。
剛勇的に書かれてる=名将なんて評価してたらどうなんだよw
三国志だけ読んでるなら誤解するのかもな。

劉封は普通に将軍としては使えるが一線級に及ばない並鄭度の
戦術レベル将軍ってとこだろう。

結局孤立した荊州てのはそれだけ難しいんだよ。
三国時代のおかげで発達した襄陽含む荊州が肥沃だから割拠しようぜ!
という意見が出てもあえてほかの地を拠点にする英雄もいるくらいな。 

蜀には、遣れる人間が親分と舎弟関羽しか居らず恐らく高能力将軍で
あろう魏延はまだ若干実績が足らず性格的に関羽と同じ問題を起こす
可能性もある。 張飛は漢中でヘマを減点されており親分が使う気
がなく、諸葛亮もこの地点でまだ官位も高くなく趙雲なんて全く
不向き。劉封は単独でやる器では到底ない。馬超は軍閥帰参という
意味で評価されてるが実際微妙な存在なので使えない。
よって使えるのは関羽と劉備しかいない。
 
劉備は歴戦の男だが符堅らと似た英雄。優れた大器だが統一者に
一歩及ばず肝心な所で失敗をし下手すりゃ戦死、捕虜というな。
劉備が守っても失墜戦死でも十分ありえる。 そういう微妙な
政権だけに人材も少ない。

ここは関羽がやはり守り、孫権に譲歩して割譲これが当面妥当
じゃねーか。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 16:49:39 ID:NBrSTMpA0
>>99
自己レスだけど
仮節と仮節鉞をちょと調べてみた。

仮節は、まぁ普通に自分が指揮する軍内の処罰権限。
張飛が下の者に厳しく当たり過ぎってことを劉備が諌めたセリフ、

卿刑殺?過差,又日鞭?健兒,而令在左右,此取禍之道也

これって仮節が無いと出来ないことね。
仮節を持ってない魏延は鞭打ちくらいは多分太守の権限で出来るだろうけど、
処刑などは出来ない。しようと思ったら劉備に問う必要がある。

んで、仮節鉞は
@独自の軍権
A軍に留まらず、官位持ちをも裁く権限

二つ説があるようだけど、前者ははなはな疑問。
そもそもこの時代に限らず、独自で軍を動かしていい権限とはほぼ独立を承認したも同然だし、
中国の伝統である文>武に物凄く反している。
こんな危険な官位が(劉備との特別な関係を持つ)関羽だけでなく漢や魏にもあって
しばし独立した軍権など必要がない者に与えられている事からも否定されると思う。

後者は三国の時代から100年ばかり経った時代になるけど

使持節
持節
仮節

使持節が二千石以下の官職を処罰できる官位だったらしく、
持節が軍に関わることなら二千石以下の者を処罰できる権限。
仮節鉞が使持節に相当するとなると、事実上外交権を除いた荊州の全権になってしまうのでこれは無いと思う。
いくらなんでも平時に置いて太守の処罰権などありえないから持節と考えるのが妥当かな。

さらに掘ってみると鉞っていうのは殷周の時代から処刑道具として皇帝の権力を現していたものだから、
具体的な軍事権限と見るより、それに纏わる人事(処罰)権の一種と見たほうがより納得できる。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 17:07:56 ID:NBrSTMpA0
>>103

張飛は漢中でヘマを減点されており親分が使う気
がなく

↑これについて詳しくお願いします
どういうヘマをして劉備からしかられたのか、教えてください。

漢中前哨戦で張コウを破った記述しか知りません・・・・

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 19:52:02 ID:NBrSTMpA0
>>99 >>104
さらに自己レス・・・何度も申し訳ない
関羽・張飛・馬超・黄忠の四将軍は三品官相当。
趙雲の虎威将軍は恐らく四品官相当の中二千石。
魏延の鎮遠将軍と劉封の副軍将軍は五品官相当の二千石じゃないかな。
ただし、魏延は督・太守も付いてるので名は二千石で実は中二千石という、
実権の話は置いといて名目上は趙雲より微妙に下の位置だったと思われる。


>>102
上から数えると、劉封は軍の第四クラス(魏延を2.5とすると第三)のラインにいたわけだけど、
これを高いとみるか妥当と見るか低いと見るかは貴方次第。
私は30弱で軍に付いてから十年未満の人間からすると異例の出世速度だと思う。
逆にいえばコレが限界。


ちなみに諸葛亮が益州平定後に軍師将軍(左将軍府事)で漢中平定後がよくわからないんだけど
劉巴が尚書
蒋?が尚書郎
法正が尚書令・護軍将軍
だから法正よりちょい下と見れば趙雲と同格くらいと思われ、
こうしてみれば劉封の官位は本来より不自然に高いが、
荊州を治めるには低いということがわかってもらえると思う。

まぁ一番不自然なのは黄忠なんだけどねww

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 20:03:33 ID:yL6pW3BD0
魏随一の猛将夏侯淵をあぼんさせたのはそれだけの仕事じゃないだろうか

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 20:31:52 ID:4P1RuB/V0
当時の蜀の将軍位を指して、何品だからどうのってのは意味無いと思うけど。
劉備時代の蜀に九品官人法を当てはめられるとは思えないし。

驃騎将軍や車騎将軍などを除けば、四方将軍が蜀では最も高位の将軍位で、
それに次ぐのが四鎮だろう。
趙雲の虎威将軍は、趙雲別伝に「軍中では趙雲をなして虎威将軍と号した」とあるだけだから、
実際に拝命しているかは分からない。
本文どおりに翊軍将軍としておく方がいいと思う。

鎮遠はよく分からないけど、劉備を漢中王に推挙する上表で、征西将軍黄忠に次ぎ、
揚武将軍法正﹑興業将軍李厳を凌ぐ位置として、頼恭が就いているところを見ると、
将軍位としてはそこそこだろう。
副軍将軍のついては劉封の記述しか出てこないんで分からないが、
上記の通り四方や鎮遠よりは下だし、翊軍も後に霍弋がこの将軍位を帯びたまま、
統南郡事であった事を考えると、単なる雑号よりは上かもしれない。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 20:38:32 ID:0qpY+d2oO
荊州の人民物質を全て蜀に移してたら…

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 21:43:49 ID:NBrSTMpA0
>>108
だから「相当」ってつけてるよ。序列をわかりやすくね。

虎威将軍の件だけど、どうしてもそう呼ばれただけとか称しただけとは思えないんだ。
実際に虎威将軍位はあって、魏と呉の話だけど中々の人物が拝してる役だし、
その人たちの官位歴を見ると四方将軍就任の前に大体位置してるから雑号の中では相当上だと思うよ。
(功を建てたばかり)趙雲だけ翊軍のままで、昇進から外れたと考えにくい。
だから別伝が何かしらの理由で本伝には書かれなかった事実を、捻った言い回しで付け加えたんじゃないかな?
つまり実は魏呉の虎威に相当する将軍に昇進したんですよ、と。

鎮遠は頼恭が元々ほぼ実権は無かっただろうが交州刺史だったことを考えると
それなりの雑号だと思う。特に征西の次、雑号の筆頭に来ている辺りね。
もし虎威が魏では四征の真下の雑号(一気に四方に昇進できる射程内の位っぽい)で、趙雲がそれに相当する将軍位だったとすると
>>106は一応格好つくかなw


111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 22:19:10 ID:4P1RuB/V0
>>110
別に「相当」ってのはいいけど、四方が三品相当で、
虎威が四品相当で、鎮遠と副軍が同格の五品相当だとかってのは、
何を根拠にしてるのさ?
明確な根拠も無いまま言ってるんだったら、余計混乱するだけで分かりやすくならないと思うよ。

虎威将軍に関しては、任命されたとは書いてない以上、
そういう昇進をした、と当たり前のように書くべきじゃないと思う。
翊軍だって、霍弋はそこから安南将軍に昇進しており、
安南将軍は馬忠の例を見れば、鎮南大将軍という、
驃騎将軍等に次ぐ将軍位への昇進も可能なものであって、
翊軍から征南にいったって不自然は無いと思うよ。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 23:22:57 ID:a8Ay37JH0
張飛は下弁での一戦の失態。劉備の運用法として結果を出せば昇格
失敗すれば降格ないし重責を他に任せるというパターン。
張は張コウを退けたがその後217年上の失敗をしたため本来彼の仕事を魏延が
遣ることになった。

黄忠は蜀では最高レベルの功績をもらっても全く不思議はないだろうな。
官職は単に計算化したような実績の積み重ねを表すものじゃないし、
対外面での誇示も当然あるだろうし。

九品中正てそんな単純に定義付けできんの?4品以上なんか明確に。
俺もあの本読んでないからわからんけど。
まぁ検索すれば、石含め誰かが書いた対応表みたいなのはでてくるけどさ。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 04:47:22 ID:1Hd+MDv1O
何にせよほう統が生きてれば趙雲と守ってるはず

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 05:49:49 ID:zvZonXLA0
>>112
下弁の失態って、馬超も同伴してたやつ?

>>113
趙雲はねえだろ、いくらなんでも。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 09:34:36 ID:hFtrZqgyO
たしかに、趙雲はないわな。
張飛と縻方なら納得するだろうよ。
荊州が維持できるかどうかは解らないがね。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 14:13:24 ID:TGouezC80
>>113
趙雲って劉備が皇帝になるまでずっと下っ端の将軍、
劉表の配下として実績があった黄忠は元より、
兵卒ぐらいから成り上がった魏延よりはるか下だから。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 15:29:26 ID:tOmSXNU/O
>>113
策謀に長けたホウ統と組ませるなら張飛だろうな。
趙雲だとホウ統にいいように使われるのがオチで
劉備側としてはホウ統の離反独立を警戒せにゃならん。
(ホウ統にその意思があるないにかかわらず)

そうなると張飛あたりと組ませて牽制する必要がある。
関羽だとホウ統と喧嘩になる可能性もあるし。

まあ「生きてたら」の話だけどね。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 15:38:06 ID:ZpZxIhfZ0
ここよんで分かったんだが趙雲ってけっこう位低かったんだね(´A`)
かるくショック

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 15:57:04 ID:fHVcANqqO
てか黄忠って特別すごい武将でもないだろ

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 16:04:07 ID:6DjCEley0


121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 16:34:52 ID:aF6IWUGl0
>>119
記述が少なすぎて、凄いのか凄くないのかすら解らん

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 17:36:46 ID:yiJdMSqq0
記録で残っていない部分で凄いものがあった可能性。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 22:48:26 ID:KNtUiLnhO
劉キさえ長生きしてたら万全だったのにな。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 03:02:38 ID:6rCjXYXTO
劉封以上にないわ。
仮に壮健だったとして、いや壮健ならば尚更。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 07:29:10 ID:EBW9STTI0
ここまで読んでみたがなかなか面白かった。
俺が皆の意見を読んだ限りではやっぱ関羽がベストっぽいな。
荊州維持については人事でどうにかできる問題ではない感じだね。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 08:58:58 ID:gppGDiBVO
俺は魏延に任せたいな。
張飛を押さえて要地漢中の太守を任されたことから、劉備からの信頼+本人の実力がわかるし。
本人も荊州出身だからやりやすいでしょ。
だから魏延と荊州派の人々で旧劉表軍みたいな感じで。

てか元々、関羽が関平とカップリングで攻めなきゃ良かったとも思う。


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 11:40:06 ID:h7SRG6bC0
>>125
ベストというか、現状ではそれより優れた選択肢がなかったというか。

荊州維持に関しては、あの時点で北上した時点で間違いだからな。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 23:47:25 ID:oG7cgQHd0
曹操陣営のジョジョを策か何かで無理やり引っ張って来て関羽の補佐。
ジョジョ本人は建前を気にしてるから、誘拐やら何やらで既成事実を作って、
世間的には「ま、しょうがないかその状況じゃ」って形にする。
黒い策なので法正あたりに実行させて

「そのような策は好まぬ」
「殿の大事の為には時として非情にもならねばなりません」
「むむむ」
「私も法正殿に賛成です」
「孔明もか・・・いたし方あるまい」
「あまり深く考えなさらぬことです」
 
風にすれば横山先生的にも問題なし


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 23:53:29 ID:oG7cgQHd0
陣営の中では劉封かな。
ネームバリュー(蜀での)で関張に匹敵しそう。君主の息子って事で。
馬超は北方の方が有用できるし、孔明法正は蜀科に必要だし、張飛あたり
上庸らへんにおいて、有事の際助けさせると。
張飛なんか危機になったらちゃんと飛んできそうだし。しかもあの頃の張飛は援軍に向いてそう

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 00:07:44 ID:1FsAY3XX0
さらにレスすると、劉備駐屯意見に関しては、素人考えから見て
前々から本拠地に分捕ってやろうと考えてたのが蜀であって、それが成就し
本拠地が蜀である訳で、漢中ケイ州は有事の最前線なんだろ?
曹操が合肥に駐屯したりする様なもんで危険極まりないと思うが・・・
考えとして劉備以下全員の頭にはなかったと思う。君主は首都にいるモンだろう。



131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 20:45:30 ID:1xKUhsDs0
厨臭さ全開のスレだな

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 13:59:41 ID:v8h9YvF50
関羽以外荊州を守る適任者がいなかった。廉頗や趙奢のような守備撃退
のプロ、三国時代の張遼や徐晃のような連中でもあの状況と国力で守備
と攻勢を両面で行うのは至難。

彼らに及ばない関羽にどうしてできただろう。

君主が首都にいるのは平穏な時くらいで、長期統一政権の皇帝ならまだ
しも非統一政権なんか緊急時には自ら前線へ出張る 親征は普通にやるし
やらざる得ない。危険だが士気上げには強力に有効。だが負けて捕虜に
なったりその後殺された皇帝もいる。

劉備がケイ州に駐屯しても彼の頭に攻勢の2文字がある以上敗北が約束
ずみ。 呉は揚州という過疎地帯をしょってる以上絶対にケイ州は奪回
する必要があるしその大義名分もある。

結論として関羽しかいないが仮に劉備が守っても同じ結果となる。
ケイ州を攻勢を掛けつつ守るというのは蜀の国力では所詮不可能であった。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 12:34:03 ID:Um4MC3IN0
BSジャパン 10月7日(日)10:00 [新]中国歴史ドラマ 関羽

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 22:12:38 ID:rX9pln+T0
レンパを抜ける武将は三国時代に存在しないだろう

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 22:16:56 ID:UvYc0SCb0
極端なこと言っちゃうと
関羽であっても北上させずひたすら江陵守備。劉備も北伐を諦めて危急時に
すぐに援軍に派遣できる体制を整えておく。これなら荊州も失わなかった
だろうと思う。

逆に北伐を考えるのなら孔明の陸中対ですでにあるように呉との同盟・友好
関係が絶対不可欠。それが成しえないのなら、関羽の変わりに趙雲だろうと
張飛だろうと魏延だろうと劉備本人だろうと北伐は無理。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 17:38:42 ID:hwLSGBbB0
廉頗は、後ろの王さえ馬鹿なら抜ける。史実でもそうだしな。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 17:40:40 ID:D3QmKwqU0
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138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 19:09:49 ID:2UZ+ysZb0
>>135
孟達あたりとの連携が今ひとつ無かったのも痛いな
もし彼らの弁明通り上庸が不安定だったのならば、
安定するまでは無理な遠征は絶対厳禁だったと思う。

139 :臣 姜維曰く:2007/09/30(日) 00:47:42 ID:px7pW+ba0
基本は
成都 劉備、劉巴、黄権
荊州 関雲、馬良、孔明
漢中 魏延、法正、黄忠  
遊軍 張飛、趙雲、馬超
趙雲、馬超、黄権は街亭を取り、魏延、黄忠、法正は長安攻略し
長安取った後、趙雲(守りのは得意)を太守し、補佐に法正、黄権。
張飛を漢中に(馬超を見張るため
魏延、雷銅、呉蘭は上庸に
劉備、黄忠は信陵に移す、成都太守は蒋碗に
関雲、孔明は曹仁攻略、と同時に劉備は江陵、黄忠は公安に。(呉を牽制
曹仁を倒した後、江夏攻略、江夏取れたら呉を恐れることはないと思う
士元兄、君の死は決して無駄じゃない



140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 00:55:08 ID:bYXsYH6Y0
関羽は攻めには強いが守りには弱かったんだろうな。
守備ではなく、攻勢に出られる場所に配置すればよかったと思う。

141 :臣 姜維曰く:2007/09/30(日) 00:59:30 ID:px7pW+ba0
>>140 孔明が後詰するから問題ないと思う

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 02:23:15 ID:mq36XgJH0
>>135
荊州を防備一辺倒にするって感じだね。
同時に上庸を安定させたり、蛮族を帰属させたりしたら北伐が出来るだけの国力が手に入る。
劉備以下の年齢がネックになるけど、それを除けばまずまず良い案だと思う。
ていうか、これ以外に荊州を保持できる現実的な案ってあるだろうか?

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 04:09:13 ID:onSQKTY70
関羽は攻めは、当時名将の位置に居た于禁を降伏させて、
ホウ徳をぶっ殺してますからね。


144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 10:35:53 ID:EHQLQOl2O
于禁の軍は洪水で孤立して、関羽に敗れたようだけど
関羽の軍はどうして洪水から逃れられたのだろうか
案外洪水は演義のように、関羽の計略だったんじゃね?

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 17:19:41 ID:x6aWhIxC0
カンウとチョウヒの両人が守っていたらだめだったの?
カンウとチョウヒがお互いを補完しあえばよい。
漢中平定後のカンウ荊州統治時代後半ってチョウヒはそんなになんか表立った仕事していたということもないし


146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 17:23:54 ID:x6aWhIxC0
カンウに荊州統治を指示したのはカンウの名声が天下に知れ渡っていたことが大きいだろ。
曹操に仕えていたこともあり、その時には実績も残している。曹操家臣団からも知られていて一目置かれる存在。


147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 19:22:18 ID:onSQKTY70
関張、両方手放したら漢中が危ないだろ、
魏延は成長、黄忠は老体、馬超は夷族に使用途中。

駒が足りんのだよ。駒が。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 19:23:27 ID:onSQKTY70
魏延は成長途中ね。オレも途中でカキコしてましたーっと。

149 :臣 姜維曰く:2007/10/01(月) 00:44:43 ID:uEMOetgP0
>>139 上策

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 01:58:52 ID:qPDMnhbKO
>>149
自画自賛してバカかオマエw

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 19:13:01 ID:9rK5Pu530
>>150
名前を消し忘れたんだな・・・
そっとしといてやれよw

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 20:58:18 ID:J1gH0Q150
>>149
これは恥ずかしいwwwww

153 :臣 姜維曰く:2007/10/02(火) 00:06:39 ID:Gi0AD0gz0
自画自賛ではない、これよりいい策あるなら是非

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 00:11:58 ID:aOpycWil0
自分で自分を褒めるから自画自賛って言うんだよw
意味分かってんのか?

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 00:38:45 ID:Ijuuexkc0
彼のn番目の人格が彼を褒めたのだから自画自賛ではない、と弁護

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 00:44:38 ID:P/S9wRmKO
>>153
これは>>149以上に恥ずかしいwwwwwwww

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 00:45:23 ID:ekn25hwc0
絵に描いた餅を策と呼ぶとは初耳

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 02:28:49 ID:ux88mfEH0
>>153
>>135の上段と>>142でいいんじゃないの?劉関張三兄弟以下の寿命が心配だけど。
君の言う上策、街亭を取るとか長安を攻略するとか簡単に言ってるが、そんなのどうやってやるのか聞きたい。
取るのは100歩譲って出来たとしても、そこの鎮撫はいったい誰がするの?
その間の魏呉の動きも気をつけないと駄目だよな。その手当ては?
少なくとも、これだけの疑問が出てくる。そんな作戦を上策とは言わないよ。

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 03:20:16 ID:dlsne24lO
ヒント ゲーム

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 09:32:26 ID:8jCv0d7s0
蜀の桟道見たら、蜀に割拠した勢力が、天下を狙えるとは思えなくなってしまうw

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 10:40:27 ID:Yw8u2ST20
魏内部で反乱を起こさせ、反乱と同時に関羽北上。于禁を降らせホウ悳を斬る
もちろん関羽側も呉の方針転換を知らずに北上したわけでもなし、警戒をしていたものの
要注意呂蒙に代わりいまだ名の知れ渡っていない陸遜、当然攻める兵は多い方が良いので守兵を削って投入
でもこれは戦略で呂蒙は南郡に侵入、戦わずして降伏。さらに連絡路を遮断
退路を絶たれた関羽は篭城、突破を試みるも捕まり斬首
ってのが概要だと思うんだけど、関羽よくやったじゃん
この戦いのせいで関羽が統率70台とか言われるの見ると腹立つ

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 16:28:59 ID:YlhUhBogO
>>161

つーか呂蒙が優れてただけ
荊州守ってたのが関羽じゃなくてもあの状態じゃ守り切れないだろ

魯粛が死に、呉の戦略が対劉備強硬路線になった時点で詰んでたと思いますが

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 19:14:52 ID:aOpycWil0
>>161
関羽は基本的に攻撃型の武将なんだよ。
攻めなら天賦とも言える才能を誇っていたのは
荊州北上時の破竹の快進撃でも分かるはず。
曹操がその武威に恐れて遷都まで考えたのだから
呉の横槍が入らなければ確実に荊州一帯は関羽軍が占領したはず。

ただ、戦はそれだけじゃない。
守備もまた重要事項。
事前の対応で呉との同盟強化(荊州南部を返還+関羽と孫権の子の婚姻)など
を計り後ろから攻められないようにすればよかったんじゃないかな?
そこまですれば、孫権側としても強行して同盟破棄をすれば節操なき国と
評判を落すことにもなる。
狼煙台を作り、危急の難に備えたのは見事だったが、そこは呂蒙の方が一枚上手だったというしかないな。
関羽には優秀な外交官が補佐に居ればよかったと思うよ。




164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 20:05:42 ID:8kN6odIe0
>>163
そこまで言うと、贔屓しすぎだわ。
呉と関係なく徐晃には負けているし、後詰で曹操本軍と夏侯惇26軍が来ているのに
正直、荊州を取れるとはおもえんが。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 21:03:34 ID:pqVe2Grg0
曹仁包囲、于禁撃破までよかったけど徐晃に敗れてるんだよね。
もし徐晃を撃破したらそのあとは夏侯惇軍、おそらくは張遼が出てくるから関羽オワタw
徐晃を撃破して曹仁も斬って襄陽とハン城に立て篭もっても夏侯惇は曹操本軍と合流して包囲して関羽オワタw

仮に呂蒙が攻めてこなくても関羽はどこで戦を収めるのか、それが独力でなし得ないから結局どこかで負ける。



166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 21:07:37 ID:XbKVS/3t0
そもそも演技では関羽の策略とされている于禁軍の水没が違うからな。
正直、ガチ対決だったらそこまで襄ハンを囲むところまでいけたかどうか?

関羽にとっては僥倖だった自然現象だが、結果論になってしまうが蜀に
とっては致命的だったな。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 23:55:40 ID:aOpycWil0
でも、そこまで勢力を結集させると今度は漢中方面がやばくない?
まあ、推測の域を出ないが呉との同盟を強化させていれば魏は関羽を撃つために
総力を結集し討ち果たすか、荊州を放棄して全体の守備に徹するかに迫られような気もする。
あの時点では劉備軍にも勝ち戦の勢いがあったからね、軽くは見れないと思う。
おまけに魏国内にも反逆を促してるから全軍総力で関羽には当たれないでしょ。
徐晃のみならず、夏候惇や張遼までが来るとなると魏の一線級勢揃いで関羽に当る構えだったってのも
よほどの緊急事態だったんだね。

>>166
正史ではたまたま洪水が起きたらしいけど、関羽は事前に水陸両軍で攻めていたから
恐らくアドバンテージは関羽側にあったと思うよ。



168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 00:14:33 ID:TLJ0WYri0
>>167
魏は荊州北部を失うことが出来ないから総力戦だったのよ
関羽は南郡北部と南陽の南部制圧で戦が終わる局地戦とでも分析したのか・・・
漢中に動きが無い関羽の単独行動であった以上、魏の総力を相手するのは必然だと思わないか?
夏候惇を動かしたのは明らかに呉侵攻の危険性が少ない、
あるいは重要度が寿春合肥方面より荊州のほうが高いと判断したわけで

3つある魏への侵攻路のうち1つが非常事態で1つが危険度低下で1つが小康状態。
となれば当然の成り行きでこういう形になる。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 00:27:16 ID:XKT6OgDE0
関羽も荊州北部を取れたら
次は魏の首都に狙いを定めたろうな。
そうなれば、漢中側と呼応して両面から圧力をかけられた。

で、もし関羽方面に敵を集中できたら
当然、小康状態と思われてるのをいいことに
漢中から一気に関中へ攻めあがってくると思うぞ。
やはりあの時点では呉を突き動かした司馬イの大ファインプレーが
魏を救ったのかも。

なにを言っても過ぎ去ったことで不毛だが
こういう妄想を掻き立てられるスレは楽しいなあw

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 00:59:36 ID:TLJ0WYri0
呉ウンヌン漢中ウンヌン以前に徐晃に敗れてるんだってば・・・

仮に呉が動かなくて、関羽が体勢を立て直して再度、徐晃曹仁に攻勢を仕掛けることができても
そのころには既に夏候惇軍が到着して駆逐されるでしょ。

将棋でいう詰みの状態なのが北上した関羽。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 04:00:22 ID:IUfeBvvM0
>>170
徐晃に敗れた後でさえも襄陽は包囲していたし
兵を引いたのは呉の荊州侵攻後だよ。
それに呉と盟約を結べたから楊州から兵力を引き剥がせた訳で、
曹操が荊州へと向ったのも孫権からの使者が来た後。
だから呉が協力を約束しないと夏候惇はまず動けないし
徐晃への兵力増強さえも出来ないかもしれない。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 04:18:24 ID:IUfeBvvM0
>>166 167
関羽伝じゃ偶々って書かれ方だけど、温恢伝じゃあ
「大雨の兆候があるのに曹仁は準備をしてない、利に乗じて関羽が攻めて来たらヤバイ」
って言ってるから決して偶々じゃないと思うよ。
そもそも自軍を船に乗せて大雨洪水の中を動き回り、そして于禁軍三万を収容出来るくらいの船を用意してるし
さらには于禁軍を収容するとは別に樊城に対して船を使った包囲網を敷いたりと
実にスムーズに動いてる訳で、偶然だとすれば準備出来すぎでまずありえない。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 06:06:58 ID:UJRXWR9E0
徐晃の兵力は北方のだから呉とはあんまり関係ないな。
包囲を続けられたのもに守備兵まで使っていたのがあるしな。
守備兵がなければ徐晃はもっと早い時期に関羽を駆除できてただろうし。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 08:38:22 ID:V253rqQM0
徐晃は早期に戦域に到着しながら当初はまったく手が出せなかった。
既に敵の兵站は守備兵まで使って一杯一杯だったにも関わらずだ。
時間を掛けると劉備本隊が回復してしまうリスクがあるので、かなりギリギリの線だった。
魏の国力からすれば首都圏(河南)の正面玄関(荊北)を守れるのは当然だろう。
問題は関羽の陽動で周縁部の関中〜西涼や淮南〜山東が切り取られかねなかったということ。

その危機の原因は曹仁、于禁、龐徳、徐晃らが頼りないから
曹操や夏侯惇、張遼といった大駒が関羽一人に引き付けられた結果だ。
徐晃が相手を駆逐した時点の兵力は曹操本隊のが大半だから、
「守備兵がいなければ〜」という仮定は全然頷けない。贔屓と過大評価が過ぎるだろう。
関羽の敗北は本拠をがら空きにしたことと、それによって呉の西進が生じたのが、ほぼ全て。
確実に勝てる戦機をものにした徐晃は間違いない良将といって構わないが、
それが魏にとってベストの結果だったとは思わん。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 10:09:05 ID:SRK81O1U0
結局このときの兵力ってそれぞれどのくらいだったの?

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 12:56:53 ID:SsBK/nxt0
黄忠おいとけばよかったんじゃね、あと魏延、軍師は馬良で
3人とも荊州派閥だし適任だと思うが・・・・


177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 13:29:56 ID:V253rqQM0
その三人を荊州に持ってくるより
呉に娘を贈呈した方がよっぽど効果あると思うよ。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 16:55:07 ID:iMtb20+N0
>軍師は馬良で

はいはいゲームゲーム
って言われたいの?

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:01:31 ID:XKT6OgDE0
>>175
演義設定なんでそこまで頼りには出来ないが
于禁、鳳徳軍は総勢7万6千くらい。
>>170
曹操に派遣された于禁、鳳徳軍は確か関羽軍より大軍だったはず。
「数があれば潰せる」なんて思うのは軽率でしょ。
仮に夏候惇軍が加わってもそれほど変わりはないと思う。
背後の本拠地を突かれたからこそ、挟撃の体勢を取れて
関羽軍の致命打となったわけだし。
討たれたならともかく徐晃に関羽が敗れたなんてのは
決定的な敗因ではなく単なる関羽個人の敗走。
大局には影響はないよ。


180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:19:22 ID:IUfeBvvM0
>>173
徐晃の兵力が北方のかどうかは不明だと思うけど。
それよりは曹操が漢中から帰還した後に徐商・呂建らを派遣し、
包囲網に結構近づいた後に殷署・朱蓋等を派遣してることから
北方よりは曹操が指揮する本軍から軍勢を抽出してるんじゃないかと。
徐晃の派遣が8月、10月に孫権からの使者が来て→自分も出発→到着前に徐晃が関羽撃破
っていう流れだし、孫権からの使者が来た後に殷署・朱蓋等とかは増強されたのかも。
そう考えると孫権の使者が来ない状況では遷都の可能性を考えて
十分な兵力を徐晃へと回せない可能性も高いと思う。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:34:34 ID:zHh+QOAs0
元々、孫権が動かないと見て関羽のほうが先に兵力の増強を図ってるわけなんだが。

しかし、夏候惇の二十六軍て凄いな。
于禁ですら7軍なんだから、魏の主力は呉に備えていたんだろうな。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:39:29 ID:XKT6OgDE0
でも、精兵は曹操が独り占めしていたという話もあるな。
徹底的に中央集権に務めた結果、曹操軍以外の兵の質は結構落ちたらしい。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:51:22 ID:zHh+QOAs0
精兵というより、青州兵の存在がでかいんだろな。
こいつらが参加してない戦いは勝率が今ひとつだし。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 20:20:01 ID:IUfeBvvM0
>>175
ハッキリと記述されてる数は
・于禁軍の援軍は7軍、降伏後の捕虜は約3万
・落城寸前の樊城に篭ってる曹仁軍は人馬数千
・徐晃(兵数不明、新兵多し)は徐商・呂建(共に兵数不明)に+して
 殷署・朱蓋ら合計十二の軍営を援軍に追加してもらった。
・対する関羽が動かせた、包囲を除く兵数は5000。

以下推測
関羽側は呉との戦の際、劉備の助力ありで3万の軍を動かせた。
そのときと比較して荊州領は減ってるし(後漢の人口調査を基にするなら戸数半減)
それから兵力を増強したとしても1万〜2万前後ってところか?

対して曹仁側は行征南将軍の曹仁の管轄が南陽と襄陽なんで、
これに後漢時代の戸数を適用すると領土的には関羽より上になる
けど侯音の叛乱があったのを考慮するのと=で見積もって良いのかもしれないが
恐らくこの時期にホウトクが援軍として来たであろう事も加えるとやっぱり兵数的には関羽<曹仁の可能性が高い。
ただし関羽が北上すると于禁が沈む前には襄陽は包囲されてるからそれまでに減り、
樊城で対陣してる時点では樊城内数千+城外のホウトク軍、と援軍の于禁軍約3万っていう布陣になるのかな。
全部を総計すると曹仁軍(ホウトク含む)+于禁軍で6〜7万、徐晃等を合わせると10万を超えてても不思議はない。

夏侯淵が破れ、曹操も漢中から撤退後という事を考えればかなり深刻な被害を受けてるね
特に于禁軍が全滅して3万が捕虜になってるのは『1割死ねば大敗北』理論で言えば目茶苦茶でかいね。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 20:45:59 ID:zHh+QOAs0
>>184
その計算のしかたはどうかな?
魏では反乱が起きていて、関羽の援助をしていた者が多数いて
それの討伐もしていたわけだし。
関羽軍+侯音・衛開+梁・陸渾で計算すると同数かもしくは
関羽のほうが兵力的に多いかも。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 21:11:21 ID:IUfeBvvM0
>>185
侯音・衛開の叛乱は手勢数千程度で梁・陸渾も県レベルの群盗。
曹操が遷都を実行すればさらに大規模な叛乱へと発展した可能性はあるが
あの時点では大した規模じゃない、注目されてせいぜい孫狼くらいでしょう。
また全体的にすぐに鎮圧されてるし関羽指揮下かどうかも微妙であり
全体で数万くらい差がある関羽の方が兵力で多くなる程の数は無い。
包囲されてる襄陽に篭った兵力とか、曹仁側も微妙そうな兵数は省いてますし。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 22:13:12 ID:Rt9aQpyU0
この話のたびに思うのだけど、この時期劉備本軍はなにをしていたの?

188 :臣 姜維曰く:2007/10/03(水) 22:46:56 ID:bpkV8Ht30
>>158  まず趙雲と黄権は街亭をせめると見せ掛け。魏延、呉蘭、法正らは
子午谷出て長安に奇襲をかけ、長安とって食料を確保。よって街亭は戦わず取れるでしょう
長安太守は趙雲し、補佐は黄権、法正。よって民衆も安心出来るだろう
魏は孔明(守る、関雲(攻める が見張るから問題はないと思う
呉は劉備、黄忠、馬良らが信陵から見張る、様子をみて出撃するか馬良を呉に派遣するか
以上、僕なりの見解でした、如何でしょうか 宜しくお願いします

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 23:06:00 ID:NvvMC0Nm0
>>188
上策だとかどうとかって話の前に、具体性に欠けるから議論のしようがない。
場所と人物の名前だけ書いたって意味は無い。

時期、各軍が率いる兵力、用いる道路、消費する物資の量の概算と輸送手段の決定、
敵の兵力や援軍等の到着時期などのできる限り具体的な予測、
全部を考えるべきとは言わないが、戦略上の要素をある程度具体的に示さないと議論できない。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 23:47:44 ID:XKT6OgDE0
>>185
さすがにそれはないだろう。
反乱といっても、兵と呼べるほど上等なものとは
限らない。
ただ、内部からの揺さぶりというのは非常に効果的だったと思うよ。
蜀が常に寡兵で戦うのも人口の少なさから必然のようなものだしね。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 00:52:37 ID:hVG/UiLZ0
>>188
貴方の脳内には人名(武力??-知力??-政治??)の細やかなデータが入ってるのだろうが、
それはこの種の考察では無意味だから破棄した方がいい。
あれは雰囲気は結構掴めるけどそのまま鵜呑みにすると馬鹿にされるからな。
もちろん力関係の比較は不可欠だが、ある一定の実績を持ってるならば、その将才には大差がない。
常識的にどんな名将でも二倍以上の戦力差を常に覆し続けるのは不可能。
逆を言うならば使えない迷将でも相手の二倍以上の大軍と兵糧を一緒に置いとけば、どんな名将相手にでも時間稼ぎくらいはしてくれる。
だから219年の問題は幕僚の配置をどうこうするだけで勝てる訳じゃない。
それに付随する軍隊やその戦力を維持する為の兵站の方がはるかに大事。

兵站を考えるなら『後漢書郡国志』や『晋書地理志』が『水経注』、
戦略を考えるなら『戦争論』や『戦争概論』が参考になる。
非常識な過大評価、過小評価というのは狭い範囲しか知らないことが原因で起こるので、
他の文明圏、時代の戦史も見た方がいい。
買うカネも見る暇も無いならニセクロ氏や大澤良貴氏、三戦板の後期スレのJominian氏の雰囲気くらいは理解しなければならない。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 04:12:13 ID:K1a3Rmx7O
>>189>>191
攻めると見せ掛け、見張るから問題はないと思う。
なんて絵空事言ってる人にはこの手の議論は高度すぎではないかな?
しかもクラウゼヴィッツ・ジョミニ・リデルハート辺り
を理解しろなんて無茶だよw
孫子・呉子辺りでも理解できるかどうかも怪しい。
>>188
191氏が親切に提案してくれてるのでここを一応は読んでみて。
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/index2.htm

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 10:05:51 ID:nRwigat20
蜀漢の長安攻めは当時最高レベルの知能の持主が断念した事なのに
現存する史料の限定的な情報だけ使って今の視点から「○×すれば成功した」
と論じる事ができるんかといつも思う。IF想像の楽しみに水差すようだが

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 16:40:46 ID:IEwuMsCdO
スレの主旨としては関羽以外の人物で荊州を統治させた場合の予想だからね。
まずは適任者を選定する議論に戻ろうじゃないか。

候補者リスト
1、劉備
2、張飛
3、李厳
4、魏延

この4者ぐらいかな?名前が挙がったのは。
自分は劉備の直率以外にないと考えます。
魏延では実績が足りないし李厳では信頼しきれない。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 17:21:10 ID:3/0huncv0
つーか白眉に趙雲と李厳付ければ守りきれた。あくまでも攻めないと言う条件で。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 17:52:00 ID:rIZkkJELO
>>195
お前の中でその三人の上下関係はどうなってるわけ?

光栄三国志準拠で話したいなら歴ゲーか三戦板いけよ

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 19:17:07 ID:6WaMwCT00
>>194
それ、実質、1と2しか選択肢無くねーか?

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 19:29:35 ID:hVG/UiLZ0
つーか劉備や諸葛亮主導で対呉外交を確実にすれば、別に関羽でも問題無し。
誰がやろうが、荊北に出ようが、南郡に篭ろうが、
外交上、二対一になってしまえば蜀の荊州失陥は確実。
呉と魏がどれだけその縄張りを切り取れるのか、という違いしかない。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 20:23:32 ID:Uz0R3r9E0
関羽が荊州で蜀の出先機関としてではなく全権委任(多分)されてたのはなぜかから
掘り起こすべき問題じゃないかな

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 21:42:06 ID:/ssdmR3T0
当時の蜀漢の国力では孟珙ぐらいの名将じゃないと荊州を保つことなんて不可能でしょ

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 21:46:19 ID:YQobp5bR0
全権ではない。

太守はじめとする内務の任命権もなければ外交権もない。
関羽は荊州の軍事統括であり責任者。

孫権との姻戚関係だって、(虎の子がどうのとか抜きにして)関羽からしたら越権行為にも取られかねないから蹴ったのはあたりまえ。
そういう話は劉備抜きには出来ないことだったことなんでしょ。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 21:50:27 ID:IEwuMsCdO
>>199
それは劉備軍閥の重鎮としては関張の二人の存在が絶大であり
劉備自身は益州統治に専念できるように委託したんじゃないだろうか?
劉備にとって関張はまさに飛車角であり、いずれは三方面からの進撃も予期して
まずは関羽に荊州を任せてみたかったんじゃないだろうか?
領土が拡大すれば必然的に方面軍の総督を養成しなければならないし
その筆頭には文句なしだろう。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 00:05:13 ID:IZHjpFmp0
>>201
それはその通りなんだが、同時にいつも出される反論が
「提案を蹴るにもやり方があるだろ」
というもの。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 03:13:42 ID:Pvb6hQ2j0
関羽は動かすのは難しいだろうからちょっとスタッフで何とかならんかなと思った。
蜀の荊州閥で筆頭って言うとやっぱり諸葛亮??
ショウエンとか面白いかなと思うけどまだ若手だったろうし、
そう考えると馬良というのは蜀にとっては切れる最高のカードであり、
人事としては悪くはないように思う。

結局、?統を失ったのはやっぱり痛かったなということになってしまう。
もっと言うなら劉埼が早死にしたのも痛かった。
せめて彼の子供でもいれば状況はかなり違ってたんじゃないだろうか。
俺が知らないだけで居たのかもしれないけど。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 10:37:59 ID:d8yg/7UC0
やはりこの話は

・対呉政策

結果的に二正面作戦になってしまったが、これを修正するにはどうするか、戦略的な施策

・北上作戦

魏内部の乱に呼応するために北上したのだが、これが是か非か・・・
是なら是の関羽が実際に取った行動よりベターな案を、
非ならどのような代案があったのか、戦術的な問題

・防御作戦

関羽(もしくは他の誰か)が北上するとして、どのような守備配置・迎撃案が考えられるのか、
これに付属する人事問題はどのように処すべきなのか戦術的でもあり戦略的な問題点



この三点から思考して議論しないといけないことは、いままでの流れから確実だと思う

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 10:58:07 ID:d8yg/7UC0
このスレタイの趣旨である関羽のポジションに誰が就くのかという議論はおおよそ絞られている

・現実的であり可能性が高い
関羽
張飛

・可能だが問題点が多い
劉備
魏延
黄忠

・ほぼ不可能
馬超
趙雲李厳など


次にこのスレの話題の副趣旨であり語られている・・・
誰が太守などの地方行政長官であるべきか
誰が関羽軍に属する軍事関係者(部将・参謀・兵站等の後方支援←これは太守の関わりも多い)であるべきか、という話題

・士仁/麋芳問題
・馬良/黄権/法正等の「参謀」問題(馬良は知られている限り外交官であって軍務には疑問が大きい)現実には趙累が所謂「軍師」

なおこのスレでは突発的に「法正」「諸葛亮」など大御所の名前が出るが、
一体どういう役でどのような任務を担うのかがまったく触れられないのは厨レスとして無視される傾向が高い。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 11:28:38 ID:d8yg/7UC0
219年の荊州のまとめ

・同年予ねてから返却(譲渡)要請していた荊州に呉が侵攻
・同年劉備は長沙・桂揚・零陵を電光石火で奪われる
・後に零陵は返還されて劉備の荊州領地は南郡の南部と合わせて三郡になる
・215年時点で関羽の総兵力は3万である

・216年呉は合肥方面からの侵攻を諦める?

・217年呉は魏に対して表向きは臣従する
(ここで呉の対外政策に大転換があったのは確実)
・同年に親劉備と言われる魯粛が死ぬ
(親劉備と言われる魯粛が存命中ですら劉備攻撃を開始してることは特筆すべき)

・218年前後に侯音や吉本が魏領南郡北部で乱を起こす
・同年関羽がこれに呼応?

・219年関羽が北上開始
・呂蒙が病気と称して陸遜が後任につく?
・関羽が守備任務の兵までも攻勢に動員する
・関羽は襄陽と樊城を囲み、于禁を捕らえて?悳を切るが徐晃に敗れる
・呂蒙が帰ってきて侵攻開始、公安江陵などはほぼ無抵抗で降伏
・関羽麦城から突破を試みるが敗れて切られる
・荊州は完全に劉備の手から離れる

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 11:41:09 ID:wmyZ2T2W0
220年
曹丕が襄樊から宛へ曹仁を撤退させる
孫権が襄樊を占拠
陸遜が魏?のケ輔、郭睦を撃破
秋、魏の梅敷、住民三千戸が呉に帰服
襄陽を守っていた呉の陳邵が曹仁に駆逐

221年
四月、曹仁が襄樊を巡る戦功で大将軍に任命される。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 11:44:33 ID:d8yg/7UC0
>>95の改編

◎長安     宛城へ
|        ↑ 
|漢中     ○ハン城
○-----○----◎襄陽
|   上庸  | 
|成都      ○江陵------○江夏
◎--||--○----◎公安-----○陸口
    永安   | 洞庭湖 /
       ○--○益陽---○長沙
      武陵 |    / |
          |   /  |
          ○零陵   ○桂揚(陸の孤島)
          (陸の孤島)

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 12:21:18 ID:d8yg/7UC0
http://www.arachina.com/attrations/sanguo/images/dt/1.gif

地図を探してみたけど高低の地形が表されているのは少ない・・・
それがないと「長安を攻めれば」と安易にレスつけたりする人が一向に減らないし、
益州と荊州の連絡の難しさや、河の交通がよく理解されないと思う。
これみて州の広さや陸の孤島という意味がよくわからないなら実際の世界地図と合わせてくれい


211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 14:18:06 ID:eqktvenh0
>>205-210
まとめ乙。

対呉は江陵を渡すか敵対かって状況じゃないの?
呂蒙・陸遜を抑えられる何かがあればまた別だけど。
呂蒙は置いといて、陸遜対策に山越でも扇動して足止めしてみる?
北上時点で扇動できても、制圧された直後だから大して効果は望めないし、それ以前に蜀に扇動できるかって問題もあるけどね。

北上は非だと思う。
確かに絶好の機会ではあるけど、呉の突発的侵略からの荊州情勢を軽視し過ぎだし後背を信頼し過ぎ。
3郡なら3郡で良いから、残った領地を確実に統治する事が最優先だね。
侯音・吉本は関羽が使者を送るなりして、軽率な行動に出ない様に宥める。吉本とは連絡取れないか?

防御については、まず呉との国境線を明確にする事。
上の地図を見る限り、湘水以西が蜀らしいので、そこを重点的に守る。
最悪でも、3郡は確実に保持できるだけの兵士と兵站を準備する。
更に、山越と連絡が取れる様なら出来るだけ好条件を出して手懐ける。
同時に荊州の人士を馬良辺りに推挙させる。馬良の直属扱いにでもしておけば関羽も何も言えないだろ。
関羽がどうしても嫌がったら、劉備と孔明辺りが正式な命令を出す。
駒はこれで揃うと思うので、その中で軍事・政治どちらにも長けた奴を適当に重要拠点に置けば良い。
後は、魏・呉両国が隙を見せる時期を待って山越と侯音達に反乱をさせつつ、北上。
220年辺りが妥当かな。

以上、魏・呉両国の事をあまり考えずに荊州と関羽が勝てる方策を挙げてみた。
おかしい部分がかなりあると思うので、どんどん指摘して下さい。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 14:27:24 ID:wmyZ2T2W0
-

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 15:36:48 ID:etophlfzO
ふと思ったのですが、呉と不可侵を確約するために
人質を交換するのはいかがでしょう?

確か孫権の嫡子は孫登ですよね?
それを太子の礼で隅して人質として預かるのですよ。
もちろん人質である事をお互いに納得のうえで。





ええ、劉備側からは劉禅を出しますがw

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 17:32:30 ID:eqktvenh0
悪いけど、意味が分からない。
人質交換をして何がどう変わるの?
いつ頃それをやるの?
それをして得るものと失うものは何?
蜀呉両方が納得できる理由は何?

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 18:01:02 ID:kjmmcLVpO
担保のつもりじゃないの?
でも意味ないと思う。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 18:31:53 ID:j6AE/Uyp0
>>213
政略結婚ってそう言うことだと思うんだ。
で、関羽が断ったんだ。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 19:27:20 ID:L2AUIQ8U0
>>216
孫策、曹操間では似たようなことやってるね。
互いに相手の親族の娘を自分の親族の男に嫁がせてる。
関羽の時に同じことは出来たんじゃないかとは思う。
効果のほどは不明だけど、両国のトップ陣の不信感を
拭うことができれば案外荊州侵攻の抑止力になったかも知れない。



218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 21:16:55 ID:etophlfzO
春秋時代、戦国時代には王太子を人質として差し出すのは頻繁に行われていたようです。
同様に、不可侵の証左として呉蜀で王子を交換するという事です。
強大な魏に対抗するには呉蜀の同盟が必要ですし、
連携が密になれば自衛のため呉が荊州を領有する理屈も薄まります。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 21:35:17 ID:kjmmcLVpO
>>218
春秋戦国のそれって、相手側が強大な勢力に対して行ったんじゃないの?
仮に呉蜀が不可侵の証左の為に王子を交換してたとしても、
もし呉が蜀の王子を手土産に魏に講和とかを求めたりしたら、
目も当てられない結果になりませんかね?


220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 21:48:46 ID:etophlfzO
>>218
それを行えば孫権は人主としての信望を失います。
同盟を破棄して関羽を攻め殺すのは戦国の習いですが、
劉禅を魏に差し出すのは卑劣極まりない行為であり
孫登が報復として殺されるのは明らかです。
信義を失い、父親としての仁義をおとしめる様な策を
呉の家臣が建策する事はないでしょう。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 22:42:19 ID:eqktvenh0
確かにそれで荊州での戦争は一時的には収まるだろうが、蜀も呉もそれで本当に矛を収めるとは思えない。
呉には孫登がいなくても確か213年に孫慮が生まれているし、孫権も彼に期待を寄せていた。
仮に孫権や孫一族が孫登を惜しんだとしても、孫登<荊州の情勢になったらためらいなく攻めるだろう。
蜀も、劉永が210年に、劉理が212年に生まれている。
こちらも、状況によって呉に攻め込む事はありうるだろう。
そもそも、親のために子供が死ぬ事は儒学で言う「孝」の体現だしね。
それを否定する家臣はいないと思うな。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 22:44:59 ID:CsXRryI+0
春秋戦国の時代とは違い、三国時代には儒教の精神が生活の末端まで行き渡っている。
その儒教では子供は親の小道具にしか過ぎないよ。
終戦直後に日本を訪れた中国人が、食糧不足で親が痩せ衰えてるのに子供は健康そうだったのに驚いている。
儒教的観念では子供は親の犠牲となる事が当然なのだが、日本では逆に親が子供の犠牲になっていたから。

自分の子供を差し出すのなら恭順の意を示す事になり意味が出てくるが、
他人の子供なんてカスみたいなもんだし、差し出して和睦なんて無理な話。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 00:18:43 ID:y2hVnS5/0
話がややズレているようだけど、頭に入れておきたいのは

孫権が関羽の娘を求めたのは劉備に話を通して無い時点で離間を狙ったものだろうということ。

仮に関羽が差し出せば
「なんと関羽は劉備に無断で他国の指導者と姻戚関係になりおった!異心有りに違いない!」

劉備に話を通して差し出せば
「関公ともあろうお方が人質を差し出すとは・・・昔孫呉が曹操(曹彰)に娘を差し出したように力関係は孫>劉に違いない!」

劉備を通して断れば
「劉備は孫呉と友好関係を保つつもりはないのか!やはり荊州は永遠に返さぬつもりだな!」

結局現場独断で上げずに関羽という立場で断るのが一番いいんだよね。
いずれにしてもこの話は友好を繕っているが、かなり一方的であり裏があると考えるべき。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 01:13:02 ID:6QJiENcS0
>>223
かつての孫と劉の結婚は、孫<劉だからなわけ?いやたしかに漢朝における
官位身分としてなら劉備の方が上だがね。勢力として見た場合。

>局現場独断で上げずに関羽という立場で断るのが
その結果「劉備(関羽)は孫権を侮辱した。友好関係を保つつもりはないのか!
やはり荊州は永遠に返さぬつもりだな!」となって以下略。
これが呉の策略だとしても、だったら策略にのってしまった側の失策が責め
られる部分もあるだろうし、そもそもスレタイに戻れば、呉はもう何が何でも
荊州を獲るつもりなので関羽がどうしようが、関羽に代えて誰かを赴任させ
ようがどうにもならないということで。

あと戦国時代の人質が話題にでていたが、さすがに太子が人質になるのはマレ。
大抵は重要度の低い子供。しかも国の都合で見捨てられる率高し。始皇帝の
幼年期とか典型例。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 03:55:29 ID:c4VLF78r0
>>223
だから劉備に話を通した上で呉からも姫を出すように
要求すればよかったんじゃないの?
てか普通そうするでしょ。ぶっちゃけ呉も関羽から
こんなリアクションされるとは思ってなかったんじゃないかね。
呉が期待するとしたら
1.丁重に断られる  >対蜀融和派の発言力ダウン、強硬派アップ
2.関羽が受け入れる>離間策成功? 融和派発言力アップ?
3.劉備経由で受入 >融和派発言力アップ
4.劉備経由で断り >融和派発言力ダウン 強硬派アップ
ってところだろうけど、結果は
5.関羽にコケにされる
だぜ?孫権の面子丸つぶれじゃん。
これって関羽が呉との同盟を意に介していないってことだし
呉は蜀が呉との同盟を意に介していないと受け取りかねないので
同盟関係の維持という観点からは最悪の行為と思うけどな。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 05:41:24 ID:fiZxDCCR0
_

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 06:02:29 ID:H4WLIJ410
最高の一手を考えた。

暗殺で皇帝になった者も多いので、暗殺を提案してみる。統一皇帝では無いが…

劉備が、曹操の王即位の後に、献帝暗殺&漢皇帝を僭称実行すれば、
魏は史実より凶悪な反乱に悩まされるのは確実。そこで、関中、荊州、合肥、三面を攻める。

劉備が、献帝を暗殺する。曹操は傀儡を立てるだろうが、
劉備認めず、漢皇帝を僭称する。
関羽を楚王、張飛は趙王に即位させ上庸に配置。
馬超を涼州王に即位させる(ここの地域だと王号は何王だっけ?)

呉には呉王の位か、出来れば斉王の位を与える。
領土的には呉&斉を約束させる。荊州も欲しがったら仕方がないが、魏、殲滅後に完全譲渡とする。

問題点

1.暗殺は不可能では無いが、無理が有りすぎる。
2.反乱の規模がどの程度になるか、予想出来ない。
3.反乱の程度により、呉は味方にならない。その逆、中間もあり得る。
4.暗殺する時期を見極めるのが難しい。
5.暗殺が露見した段階で、劉備軍閥消滅。
6.悪役が劉備になるw

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 09:40:51 ID:vEdcFnXeO
話にならんな…

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 09:44:29 ID:ZRieJa/2O
>>227
さすがに「最高の一手」は言い過ぎだろう。
まだ政略結婚、人質交換のほうが現実的だ。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 11:14:34 ID:sz/3BE3o0
やたら外交面の話が出るが寿春方面の侵攻を諦めた時点で呉と蜀の対立は拭えないものなわけだが

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 12:56:42 ID:H4WLIJ410
>>228
フ、このスレに乗っ取った代案も言わずの悪態。
話にならんのはあんただな。

>>229
まあ、極論過ぎるのは認めるしかないわなw

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 14:21:32 ID:fiZxDCCR0
いや実際話にならんだろw
暗殺して即位とかありえないし、仮に帝位についたところで呉が従う道理はない。
そもそも合肥すらを落とせないのに
「斉王にしちゃえよ♪それで俺たちと仲良くしてね」とか空手形を出すのもふざけた話。
第一、魏滅亡後に荊州を呉にくれてやるなんて条件ありえない。
どう考えても次は孫権を煮殺す番ですから。本当にありがとうございました(ry
ありえないことが多すぎて「極論」にさえなってない。
そんな「戯言」をうざがられるのは当然だよ。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 14:38:17 ID:lWOmt0210
全否定された>>231涙目wwwwwwwwwww

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 15:19:04 ID:H4WLIJ410
>>232
プw
暗殺の後の即位があり得ないだってw
お前はただのアホゥだw
秦の胡亥とか、前漢文帝どうすんだよw
胡亥は兄貴を殺してるし文帝は、呂氏の立てた、皇帝暗殺してるぜ?

>>233
おまえシンジャエウエウエウエwwwwwwwwwwwwwwwww

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 15:20:40 ID:fiZxDCCR0
1:呉軍が無難に淮南〜山東に進出し、呉の対魏路線が本格化。
  魏の猛烈な反攻が予期され、必然的に呉蜀の協調は強まる。
  魏にとって難治の地でプライオリティの低い関中〜西涼は蜀の手中に落ちる可能性大。
  復漢滅魏の機運は一層強まり魏の結束は弱まる。
  呉がそこから更に勢力を伸ばすか、守りきれるかどうかは全く不明。

2:呉軍が合肥あたりで魏軍と死闘。壊滅的な打撃を受け対外侵攻に消極的になる。
  蜀は上流から圧迫を加えて自国に組み込むなり、同盟国として保護。
  隆中対の構想上、呉の勢力と呉蜀の力関係はこのレベルくらいでなければならなかった。
  史実では蜀の首脳部は呉を甘く見すぎていたのでいいようにやられた。
  まあ相当上手くいって蜀が呉を吸収して南朝化する程度。
  この場合、南北ともに決め手に欠け千日手。先に政変で崩れた方が負け。

3:蜀が罠を張って西上してきた呉を返り討ち。
  夷陵クラスの殲滅戦で呉の反蜀派を完全去勢。
  どっちにしても魏が漁夫の利を得て、大局的な戦力差は史実とほとんど変わらない。最終的に共倒れ。

つまり隆中対の構想通りに進めるには呉蜀同盟の堅持が必須。
その為には呉が合肥、寿春を下して、淮南〜山東の権益を得なければ成らない。
が、孫権がそのエリアで采配を振るう以上それは絶望的に不可能。
だから呉の西上は史実通りどうやっても不可避となる。
もし関羽が北上を断念して専守防衛に徹しても、対魏戦の継続が困難になり、
三国鼎立が恒久的なものになった可能性もある。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 15:30:57 ID:ZRieJa/2O
ちょっとトンデモ案を出してみる。

張飛を遠征に派遣してみるとか。
ルートは江夏から長江北岸に沿って合肥方面まで。
呉には南岸からの兵站線の確保と支援をお願いしておく。
魏は全力で張飛を攻撃するだろうが、そうなれば関羽が北上できる隙が生じる。

皮算用すぎるかw

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 10:42:37 ID:lyKXHE+Q0
_

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 11:10:54 ID:BG4EOiQJ0
>>236
ルートは別にして、そんだけ余力があるなら長安なり上庸に兵を出せばいいじゃないか。

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 11:25:53 ID:RCpFxJHg0
ハンニバルのアルプス越えみたいに、
蜀軍が秦嶺越えして長安を急襲したら面白そう。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:48:02 ID:lyKXHE+Q0
184〜189
黄巾の乱で既に致命傷。
霊帝が崩御し相続争い勃発。漢オワタ

189〜199
董卓の専横と遷都による群雄割拠。関東と関西でそれぞれ主導権争いが勃発。
196年あたりに献帝が関東に来て関西勢力の没落が決定的に。
関東の混乱は黄河を挟んで袁曹二大勢力に収束。

199〜208
袁:200年に官渡の戦いで逆転負け。
  袁紹は202年に死んで長男と三男が争い共倒れ。いいとこなし。
曹:劉備を中原から完全に締め出す。官渡で袁紹にボコボコに追い込まれながら最後のカウンターで逆転KO。
  袁紹没後は都合よく跡目争いが袁氏勢力に起こって吸収合併。この時期はツキすぎだろw

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:48:45 ID:lyKXHE+Q0
208〜223
魏:赤壁で負け濡須で負け漢中で負け押されまくりでいいとこなし。
呉:215年、219年、222年と三度に渡って蜀をフルボッコ。呉蜀同盟の主導権を掌握。
蜀:呉の援助でようやく割拠。210年に荊州の権益を一時的に委託され、
  212〜214年に入蜀、それから219年まで漢中を巡って魏と争う。
  漢中王で関羽あぼん。蜀帝即位で張飛あぼん。征呉親征で劉備あぼん。蜀オワタ

223〜234
魏:文帝と明帝が無難に国力涵養に務める
呉:陸遜の大成と、呂岱の越南征服、孫権が即位。
蜀:孔明による反乱鎮圧と独裁体制の確立、五度の北伐

234〜253
魏:仲達の遼東征服と明帝の死、嘉平の変による司馬氏の台頭
呉:孫権の耄碌と二宮の変で呉オワタ
蜀:孔明死後の蒋費の治

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:50:04 ID:lyKXHE+Q0
253〜263
魏:司馬兄弟と寿春軍閥の抗争
呉:諸葛恪、孫峻、孫綝、張布の専横でますます呉オワタ
蜀:姜維の北伐と蜀の自壊

263〜280
魏⇒晋:司馬炎が指導力を発揮して呉を征服
呉:孫皓が暴政を敷いて晋の統一を強力支援
末期。つーかもう三国時代じゃないw

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 17:20:24 ID:lyKXHE+Q0
隆中対の構想には「孫権との同盟」が「荊益二州領有」と同じくらいに必要不可欠。
それを両立させるには独力で曹操の南征を撥ね返さなければならない。
しかし、曹操の非常識な用兵で江陵入り⇒荊南割拠に失敗した時点でもうアウト。
史実ではどっちの条件も中途半端なので、関羽の立ち回りがどうこう以前に最初から勝算が成り立たない。

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 13:50:25 ID:Io33eZ3aO
>>243
つまり、劉表の死後ただちに襄陽を占拠すべしとの孔明の献策を
採用しなかった時点でアウトって事でしょうか?

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 14:56:07 ID:uNXcRCoj0
劉備はその時点で、南陽と南郡のそれぞれ一部を武力奪取できる兵力を保持していたようだな。
江夏は劉備シンパといわれる劉キだから、それなりの目算はあったようだ。

んでも劉備は勝てないと見込んだし、実際に逃げ出して成功してるのでなんともいえん・・・

そのIFを発展させると

襄樊を中心とした一帯を制圧して曹操軍と対峙する
同時に江夏の劉キを劉表後任の荊州牧として祭り上げて自勢力に引き込む
そして孫権に援軍を要請する(史実と違うのは戦闘の主体は劉備軍)

南郡の下半分と荊南四郡は史実通り曹操に切り崩されて掌握はほぼ無理だろう
もしかして孫権が欲を出すかもしれない
いずれにしても
 曹操を撃退して
 孫権との折り合いを上手くして
 混乱の荊州南部を掌握する
という滅茶苦茶ハードルが高い境遇になってしまうからな・・・
となると、結局劉備のその時点でのクーデターは成功しないから逃げようという判断はベターだった、と。

なにせ逃げ込んだら
 孫権が戦って撃退してくれた
 孫権も最大の危機なので唯一の協力者である劉備とは運命共同体になるしかなかった
 劉備は混乱の四郡を掌握するだけでよかった
↑たいしたもんだよ。ここが劉備の凄いところというか曹操が唯一自分と互角の人であると認めた所以と思う。
この時点で10年後の問題を考えられる奴なんて神しかいないよw

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 16:32:39 ID:WOpKGipr0
そのかわり、荊州に呉を関わらせることになってしまったわけだがな。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 17:30:26 ID:Io33eZ3aO
んー、そもそも仮に襄陽を奪取したとして、曹軍と渡り合えたかどうかは疑問ですね。
当時の劉備の手勢が一万ぐらいとして、それで旧劉表の所領を制圧するのは困難でしょう。
また旧劉表軍を吸収して軍勢を拡大したとしても
それらを心服させる時間もありませんから組織として脆弱なものとなります。

やはり逃げるに如かずだったのでは?

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 18:32:33 ID:HZbmnCIR0
>>246
関わるも何も、最初から荊州は孫権の目標の第二歩目(一歩目は黄祖討伐)。
仮に劉備が襄陽獲ったとして、襄陽で曹操を抑えている間に江陵含む荊州南部を占領するんじゃないかな。

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 18:58:50 ID:8+p4mrFA0
劉jも最初は戦おうとした。
劉備が劉gとの仲を取り持てば一時的に一致団結するんじゃないのか?
まあ戦後は兄弟仲良くあぼんするだろうけど。
山越の討伐が一段落してない時期の呉軍に荊州の経営まで出来るとは思えん。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 19:28:38 ID:uNXcRCoj0
劉備の手勢が1万というのは無いんじゃないかな。
赤壁前後の孫呉が総数5〜7万で自由に動かせたのが3万
揚州より人口が多い荊州が降伏したときに
曹操に組み込まれたのが同じく5〜7万くらい(掌握してない南部や劉gの兵を除く)といわれてる。

奇襲で統率されてない烏合の衆を相手するとはいえ、これらを相手するだけの兵は持ってたと思うよ。
「持ってた」というと語弊があるな・・・自分につくであろう将兵を計算したと思う。

劉備は実績として益州乗っ取りをもっと少ない兵力でやってる(時間はかけてるけど)んで、
襄陽乗っ取った後の身の振り方は別にして、武力で制圧できるか否かといえば物理的に出来たんだろう。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 20:06:36 ID:Io33eZ3aO
>>250
そこが劉備の偉いところでしょうね。
旧劉表領を奪取することは可能だが、その後の防衛と経営の困難さを
冷静に計算していたんでしょうね。
それなら逃げて態勢を立て直したほうが早い、と。

当初は江陵を目指したみたいですし、
まずはそこまで逃げて南下するか迎撃するか、当地の情勢を見極めたかったのでしょう。

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 22:06:17 ID:WOpKGipr0
推測というか、多少想像交じりで考えてみると

諸葛亮の陸中対では、まず劉備は劉表の信頼をたてに政権内で勢力を拡げて、
政権ののっとりという形で劉備が荊州を支配することを狙っていたのだと思う。
その上で曹操の脅威を理由に孫呉と同盟を結び、さらに時期をみて益州まで
押えて天下三分、と。

ところが劉表の死と曹操の南下によって不可能になった。>251の言うとおり、強硬
すれば可能性はあっただろうが後のことを考えると対曹操で自殺行為。
そしてその結果、曹操を退かせるのに孫呉の力が直接的に必要になってしまった。
具体的には赤壁で直接対峙したのは周瑜。その後江陵を曹操から獲ったのも周瑜。
この二点は孫呉に荊州に軍事でなく介入させる口実を与えてしまった(演技では
これを打ち消すためにいろいろとやっている)。結果、劉備は荊南に割拠する事は
できたが、荊州領有の問題は最後まで両者間でくすぶり続け、陸中対で提示された
もう一つの条件「孫呉との同盟・友好」関係の構築を不可能にさせてしまった。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 01:24:38 ID:Vm8CmC7S0
srb

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 01:32:45 ID:Vm8CmC7S0
srb

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 22:33:58 ID:e35x9mKPO
趙雲に任せてれば良かったのに

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 08:14:16 ID:XTefT1tW0
age

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 17:43:35 ID:lGsQGp/Z0
>>255
趙雲は当時はそれほどの地位にはまだないから、
みんなが従わないんじゃないか。

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 10:14:05 ID:uR3zsT4e0
age

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 10:23:50 ID:6MQ7Bz5tO
劉備、関羽、張飛、法正が荊州。
馬超、魏延が漢中。
孔明が成都。

これしかないんじゃない?

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 12:22:31 ID:WTUR1ui1O
>>252
曹操が攻めてくる前を前提にすれば、諸葛亮の思惑はきっとそんな感じだろうね
でもこれはこれで魯粛が示した呉の基本方針とは根本(呉は長江流域=荊州への進出が最優先)が相容れないから、呉との修好は史実より難しいかもな

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 13:44:45 ID:hHvdfDI80
王平がじっとろう城してれば何年か持ってたろうよ。
その間に何かしらの手を打っておけば変わってたはず。
>>257のようになるんだけど結局何も仕掛けないでろう城してれば良かったんだよ。

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 15:36:42 ID:/fxgZjHA0
その何かしらの手が見つからないから負けるんだよ

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 16:03:48 ID:jVSnWHy40
劉備陣営はやっぱり持ち駒が少ないよね。
仕方ないことだろうけど。

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 18:00:46 ID:6DpK7apj0
劉備は何で、司馬徽を部下に入れなかったのかな?
彼を入れれば、荊州派が補強されただろうに。
まあ、法正より早く逝くっちまうけどさ。

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 18:20:37 ID:r93vUGTOO
>>264
なまじ学識のある無気力な老人など害悪にしかならん

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 19:51:47 ID:6DpK7apj0
>>265
司馬徽がただの無気力な老人?
演義じゃないんだからさぁ、資料出してよ。
明確じゃなくてもいいから。

何かで読んだが、(幽明録だったかな?)にあるが、
劉表が、主足りるとは思えない存在だったから、
太公望風に過ごしたとかあるが?
曹操には仕えようとしたしね。

ただの無気力老人なら、荊州のお偉方は会いに行かないし、
曹操も重く用いるような期待はしないよ。
仕え始めたら、ぽっくり逝ったのが史実なんだし。

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 03:56:30 ID:AUMKBiUd0
劉備も主足りるとは思えなかったんだろ

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 13:02:38 ID:T0Vrf90C0
>>266
司馬徽は無理だろ、現実味が無い
石韜とかを向かい入れる方が、まだ現実味がないかね?

>>267
劉表の政争に巻き込まれたく無いから、世捨て人やってたのに
劉表が生きている間に、劉備に仕えられる訳無いだろ
劉表死んだら即座に、曹操の荊州攻略戦だ
何所で、劉備に仕えるんだよ
バカかお前

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 13:51:07 ID:O9yK+7O90
_

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 13:55:51 ID:AUMKBiUd0
>>268
蜀以降の事しか詳しく知らんねん(´・ω・`)

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 14:38:23 ID:GFE6iP+Y0
罵倒・煽りは抜きで行こうや

関羽以外の誰に荊州を任せるのが良かったか想像する前提の話として
関羽が荊州でどんな権限があったかをまず明らかにせんとイカンと思うのよ

関羽が荊州で歴任したのは襄陽太守・董督荊州事・假節鉞
最期の何ヶ月か前にやっと假節鉞として軍事権を委任される訳だが
これだけで荊州を治められたとはちょっと考え難い
史料を逸脱した想像は避けるべきだが、孔明以下の諸将が蜀攻めに呼ばれた段階で
関羽に荊州での相当広い行政権が委任されたと考えた方がいいんじゃないか
呉との外交権込みという事もあったかも知れない

そういう権限に見合う人材として関羽以外に誰が考えられたかという問題だと思う
あるかどうかも分からん権限の存在を前提にした問題提起で甚だ収まりが悪いが
もともとIF想像の世界だからご勘弁を

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 15:17:11 ID:tgucPykAO
>>271
自分は以前から「適任は劉備」だと主張してきた者です。
とはいえ、占領直後の漢中、益州から劉備がとんぼ返りするのも
実際問題としては難しい気もしています。
そうなるとやはり関羽しかいないのかも知れませんね。
>>271氏の推測どおり、関羽が荊州における
ほぼ独裁可能な権限を与えられているとすれば、
その地位は余人には就かせられるものではなく
必然的に劉備、関羽、張飛のいずれかになります。
その中で張飛を関羽に代わらせる事は関羽に恥辱となりますし
関羽を敬愛する張飛も受けないでしょう。

やはり関羽しかいない、それが結論となりますね。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 17:23:57 ID:R1bHH1qZO
張飛は下ヒ城(だったか?)を奪われるという前科もあったしね。
内部の郡とかならともかく荊州という最重要地域を、
関羽をさしおいてまかせることはできんよ。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 19:40:05 ID:W4IxA3kD0
>>272
張飛はどうみても関羽と同格なんだけど・・・正確に言うと「関羽≧張飛>その他」
それは置いといて、一般論だけど

ありとあらゆる組織において「人事権」というものが統率者に必要なものである。
人事権とは組織の方向性や特徴を決定するものではなく、方向性や特徴に従って決定されるもので、
統率者が人事権を振るい、配置をおこなうことによって組織の目標を得ようとする。
逆にいうと目標を達成しようとすると完全な人事権力の確立が必要不可欠だといえる。
(それと双を成す「監査権力」はここでは割愛)
共産党で書記長が、自民党で総裁が、一番の権力を持つ所以はこの人事権にある。

曹操が一番凄かったのは、漢朝の人事権(役位)が死にかけだけれど未だに大きな力があると見抜き、
それを時代の変遷に合わせて非常に上手く有効活用した点にある。

関羽を「独裁可能」というならば、人事権=組織上の独立権、が必要だけども、関羽にこれが一度たりともあったことはない。
そんな組織上の例外(前例)、欠点ともいうべき事実があると・・・一度でも作ってしまうと国家としてなりたつはずがない。

>>271にもあるけどよく考えて欲しい。

現在でいうと本社の役員会議又はワンマン社長の意思で決定された人事を、
支社長が「自分の領域」だからと代えられる権限などない。
勝手にしたら支社長がクビ。
もしくは同業他社との接触(提携・合弁・談合など)を自分の裁量で決定して本社に事後報告して承認を願うことなどありえない。
勝手にしたら支社長がクビ。

支社長が許されているのは、その業務において一々本社に報告や裁可する必要がないように予め与えられた
「一定の権限」の範囲においてのみ。
そして関羽に関する記述を読むと、なにかしら特別な権限があるかというと・・・そういう記述はどこにもない(節鉞以外)。
あたりまえだけどね。



275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 21:07:24 ID:jtMWA84o0
劉備の場合、名目上でもいいから代理司令官を任じられる一族がいなかった
(幽州からついていかなかった)のがいたいよな。

成人した息子がいればよかったのだろうけど、これは放浪のツケか。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 09:22:11 ID:ZOaxj0Hj0
張飛のケースをみれば、純粋な武人は士人に見くびられる。
荊州の土地柄で士人が集まっているからなお更だ。
やはりそれなりの教養があって、
そして漢より直に爵位を授かった関羽以外、適材はいない。



277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 10:52:50 ID:GfysAo7r0
age

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 11:46:14 ID:IxD28WO50
名士って後の時代に科挙によって半ば制度化されたのに比べると、
かなり曖昧で、よく分からん

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 14:56:02 ID:EPJx1UW70
張飛は時代が違えば、案外科挙を受けて進士になっていたかもな
たまに軍事に精通した文官なんてのが出て来るんだし

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 16:05:19 ID:aAVSKUGH0
だがその場合平話のバイオレンスジャック張飛に殺されかねないほどの有能だが典型的な悪代官になっていたかも

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 16:50:21 ID:HNn+qbIc0
劉備が徐州時代に対袁術戦で留守の最中に呂布が奪ったのだけど、
張飛の失態だと明確に書いてあるソースか、それと推測させるに十分な記述ってあるの?
知ってる限りでは留守中に曹豹と関係が拗れて

「曹豹が呂布の介入を求めた」 ← 問題は劉備に仰ぐのが適当であるはず
「呂布到着前に張飛は曹豹を斬った」 ← 張飛は迅速な対応をした
「許耽は呂布が到着するとこれを迎えた」 ← 曹豹⇔張飛だけの問題でなく劉備一派と徐州土着一派の問題であると伺える

むしろ呂布を迎え入れた劉備の失点としか言いようが無い気がするんだが・・・
限られた張飛の関連記述を読めば読むほど(有名な欠点はあれど)名将の部類としか言いようが無い。

上のほうに出てた「漢中の失態」にしても呉蘭の失態っぽいしな・・・
呉蘭・雷同+馬超・張飛は217年に行動を起こして翌218年3月に大敗したとあるから、劉備の本隊は漢中を掌握してもない。
この時期に下弁攻略に成功したとしても兵站からして維持は無理。
つまり一連の侵攻自体が夏侯淵軍から曹洪軍を引き離すための陽動としたほうが無難。
もし本気なら経験・実績・ネームバリューで圧倒する馬超張飛を先鋒(本軍)に当たらせて無名の呉蘭雷同を後詰(支援)にするべ・・・
漢中の張飛隊を総括すると
・陽動により曹洪隊の引き付けに成功した
・張飛は回り込み(張コウを撃破した得意の戦術w)しようとしたが見破られた
・結果下弁は落とせなかった
・それどころか呉蘭雷同は撤退中に「全滅」した
・張飛隊は漢中に戻った
・一連の戦で称えるべきなのが曹洪であって、責められるのが張飛というのには疑問符がつく



282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 21:30:40 ID:C5NoHU670
三國志を読むと、張飛の活躍は解りやすいのに、関羽は魏の名将だった于禁を降伏させた
位しか詳しい解りやすい記述ってないよね。

関羽の何所が凄かったのか良く解らん。夏侯惇と同じ感じがする。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 22:46:27 ID:Y/Jk51QN0
それは夏侯惇に対する侮辱だ!
と、夏侯惇厨の人がきましたよ。

>>(有名な欠点はあれど)
コレ自体がそもそも推測される十分な記述じゃないのかな
名将足りえる軍事的才能はあっても、大きな欠落という気がする。

原因は分からないけど英雄記だと張飛が曹豹を「殺そうとした」「殺した」。
これで軍中に疑心暗鬼が走り、許耽が呂布を迎え入れた。
迅速な対応というよりも短慮だと推測される。


284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 22:52:53 ID:HNn+qbIc0
いあ、曹豹が殺される前に餓狼として名高い?呂布に介入を求めたのは事実。
留守を守っている軍事責任者が張飛で、何らかの問題で喧嘩になったとしても、
仲裁を仰ぐのは劉備であって呂布ではないでしょう。
ライムテーブルでは張飛はあくまで曹豹が呂布を呼んだから斬ってることになってる。

「許耽が呂布を迎え入れた」

というのはもっと具体的な行動で「内から門を空けて呂布軍を城下に誘導した」とある。
間違いなく劉備不在を利用したクーデターと見ていいし、陳登親子が黙認してる辺りに張飛だけの問題とは言えないと思うんだが。




285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 22:53:42 ID:HNn+qbIc0
>>284
×ライムテーブル
○タイムテーブル

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 22:56:18 ID:ajhQRtGF0
>>281
先主伝注では張飛が曹豹を殺そうとした為に曹豹は陣営を固め、
その上で呂布と共同して張飛を打ち破っている。
どっちにしろ徐州豪族と劉備一家の折り合いは普段から悪かったが、
そこに決定打を与えたのが張飛という事になる。
曹豹は徐州軍の主戦力である丹陽兵の親分であり、下?の相でもあった人物。
また劉備配下でも留守中の下?の守将を任されている(先主伝本文)。
恐らくは士大夫ではない事を理由に張飛(官職不明・多分低いか無職)が軽んじていて、
遂にはお互い手勢を率い争うまでになったんじゃないんかね。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 01:25:32 ID:tPQ3zNdq0
徐州に縁も縁も無く、実際には曹操の侵攻を追い払った訳でもなく、
徐州を継ぐ正当性も無い劉備がいきなり徐州の支配者になった
っていう事自体がそもそも滅茶苦茶な話であり、
余所者の劉備含めその一党がいきなり支配者階級になるんだから
地元の豪族や名士と上手くいかないのは当然な気がする。
特に武人肌の張飛が裁けるような情勢でも問題でもないと思うな、
そんな張飛が留守の責任者ってのが元々無理な差配じゃねーの。
ただ他に裁けそうな人物もいそうにないけど・・・

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 04:18:30 ID:UZSzZ3sD0
つまり荊州の留守番を任せるには張飛は不適格って事かね。


289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 06:02:34 ID:sLGFIXSn0
>>288
それちょっと違う。
蜀漢=荊州派の軍閥。歴代の宰相を見てみれば解る。

関羽は荊州士大夫を莫迦にしていたから、後方支援は上手くいかなかった。
張飛に、荊州士大夫の大物を付ければ、関羽より上手くいくんでない?

一番良いのは、劉gが長生きする事なんだろうけれどねw

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 10:15:00 ID:Jf3CqrKC0
荊州士大夫の大物と言えば諸葛亮だな。
他のは皆、諸葛亮のコネ(司馬徽)から芋づる式に引っ張って来れた連中だし。

あと、益州の場合、地元の有力豪族はあらかた劉焉に排除されていて、
劉備や諸葛亮の時代の益州派というはこの劉焉や劉璋が連れて来た連中。
徐州は未だ地元の有力豪族(陳親子や曹豹など)が多くいたし、単純な比較はできないよね。
それでも諸葛亮の占領下では度々反乱が起きてたようだけど。

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 15:42:04 ID:pjaJOQgY0
劉備がもし張飛以外の者に徐州を任せていれば、徐州を失わずに済んだだろうか?
それともやはり誰かに徐州を奪われてしまう結果は変わらなかっただろうか?


292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 17:19:08 ID:pjaJOQgY0
自レスになるが陳登とかどうだろう?

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 17:22:57 ID:pjaJOQgY0
孫策をも斥けてる戦上手だし。

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 17:59:58 ID:sLGFIXSn0
陳家じゃ駄目だ。呂布に付いちゃう位だしね。
何かやばくなったら、即、劉備を裏切るよ。

徐州出身じゃないけれど、あの頃付いた部下で良質なのは、
孫乾とか糜兄弟位じゃね?

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 19:19:32 ID:e4DuD0ks0
孫乾が良質かどうかは難しい。
ただし袁紹や劉表への使者に遣われてる所を見ると、劉備から信頼されていたと思う。
糜兄弟は揃って曹操にもかなり気に入られてたぐらいだし、能力は高かったろうね。
特に糜芳は呉に降った後も武勲立ててるし、部隊指揮官としての才能もあったようだ。

でも結局の所、格の上でも曹豹を差し置いて守将にするのは無理があったんじゃないかな。
元々下ヒを支配していた曹豹を左遷して別の誰かを据えるなんて、
それこそ大問題になるだろう。

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 20:44:58 ID:pjaJOQgY0
>孫乾
劉備のリクルート先を見つけるのに度々素晴らしい活躍をしている。
ただ外政上の最大の手柄である孫権との同盟を取り付けたのは
孔明でありケ芝であるので、そこらへんと比せば一発の大きさで若干劣る印象。
まあ使者としては相当優秀な方なのは確実だろう。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 01:54:43 ID:ZVVGpddB0
徐州失陥時、劉備は34才。
だから張飛は20代後半の小僧かもしれん。
義兄弟とはいえ、そんなのに留守を任せるなんて明らかにおかしい。

本拠地の守りで荀程と関張の対応の差がそのまま曹操と劉備二人の明暗を分けた感じだ。
関張の場合、得意の戦で負けた訳でもないのに、仲間同士の内訌で勝手に自滅してしまう。
どれだけ劉備が頑張って土地を切り取っても、留守番役がヘマをして本拠を失ってはどうしようもない。
それを踏まえると本当に必要なのは独力でどうにかしてしまうような凄いタイプではないのかもしれんな。

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 03:27:02 ID:ZVVGpddB0
あげ

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 13:34:02 ID:nbuLEetoO
荊州・益州の強奪行為や呉領を略奪するからいけないんだお。劉備に信義なんて言葉は存在しないお。

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 18:08:49 ID:m4XOcfYC0
曹豹と許耽は徐州派でも劉備派でも呂布派でもなく袁術派じゃないの?

袁術が呂布に参戦を願ったのは確かで
その瞬間になって都合よく張飛と曹豹が仲違いを起こして
曹豹が死んだか追われたか立て篭もったのかどうか知らないけど、後になって
混乱を収めるためにと称して呂布を迎え入れるなんて出来すぎているような

曹豹=丹陽出身
丹陽=袁術の勢力圏

そうだとすると袁術は劉備より一枚も二枚も上手で
呂布に劉備の背後を突くように釣り出して
同時に徐州の袁術シンパを使って張飛を追い出し
本拠地を失った劉備は大敗した

袁術の誤算だったことは劉備が死ぬわけでも遠くに逃げ落ちるのでもなく
何故か呂布に降伏して徐州が袁術の物にならなかったということかな

下ヒの相でローカルな大物であった曹豹のその後が一切書かれていないということは
呂布伝にあるように混乱の最中に張飛に殺されたか、あるいは呂布本人によって
用無しとみなされて殺されたんだと思う
尤も呂布と袁術が第一次の決裂を起こすのは後のほうだから張飛に殺されたとみるべきか?


301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 18:20:34 ID:m4XOcfYC0
>>300の続き

そうすると、徐州の張飛留守番事件は曹豹vs張飛
あるいは徐州派vs劉備派という単純な構図ではなくこうなるのじゃないかな?

前提:袁術vs劉備の戦争が勃発し袁術は劉備の居候である呂布を引き込む
第一段階:留守で袁術派(丹陽派)?の曹豹vs劉備派の張飛が勃発
第二段階:徐州派の陳登は傍観あるいは黙認
第三段階:曹豹が殺されるも同じく丹陽派の許耽が呂布(味方の味方?)を招き入れる
最終段階:張飛は敗れて徐州陥落、劉備も袁術戦を諦めて呂布に降伏

一応筋が通ってると思うけど、どう?
こうなると張飛の失態などどこにも無いような気がしなくも無い。

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 18:35:53 ID:m4XOcfYC0
確実に言えるのは下ヒの裏番長といっていい陳登=徐州派は
ヨソモノの主なんて、自分達の権益さえ認めてくれれば誰だってよく
陶謙→劉備→呂布→劉備・関羽→曹操
アッサリコロコロ変えているので信用できない

仮に徐州派から信任するとしたら麋兄弟以外ありえない
兄の麋竺は人を統率するのが苦手とハッキリ書いてあるから無理
結局劉備が留守番任せられるのは徐州派だけど自分に忠誠を誓ってそうな
戦の経験など無さそうで恐らく張飛より若いであろう麋兄弟の麋芳か張飛本人になる

何れにせよ徐州喪失の原因が徐州にもう一つある庇護勢力呂布の裏切りということと
それに応じる(あるいは応じさせた)内部の勢力があったということ
劉備派自体が徐州新参の馬の骨で必ずしも円滑な人間関係が成り立っていなかったこと
この状態での責が張飛一人にあるというのは無理だというのが私的な感想です



303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 19:18:42 ID:ZOyKcny00
d
勉強になるなぁ
しかし麋芳はつくづくかわいそうな男だな…

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 23:25:13 ID:jwm+C4JX0
>>300
面白くて新鮮で感心した。
結局地盤らしきものが出来る時間がなかったことが劉備にとって痛かった。
これは後の荊州ででも言えることだけど。
地縁血縁のない、ってのは想像以上にハンデになっているね。

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 23:35:20 ID:+Y75jkYW0
いや、そういった自派に属さない勢力を抑えておくのも、留守役に任される
役目じゃあないか?
張飛一人の責任じゃない、という点は同意ですが、張飛に失態はないという
のは無理があるかと。

あと質問ですが、劉備と袁術ってなんで敵対したんでしたっけ?もともと徐州
というか陶謙は公孫[王賛]派で、すなわち袁術閥の一員。劉備も反曹操(袁紹)
として陶謙の援軍として徐州に入って引き継いだのでは?

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 01:54:13 ID:uaHQJUnt0
公孫サンは「袁術派閥」ではなくて「公孫サン派閥」ね。

192年の界橋敗戦までは董卓に次ぐ第二勢力といっても過言ではない。
なにせ幽青徐州に股を掛けるんだから場合によっては筆頭勢力かもしれない・・・
だから公孫サンは公孫サンで独立勢力と見たほうがいい。

そんな公孫サンの子分の劉備が徐州で棚ボタ拾ったのが194年。
そう・・・親分の公孫サンも親分がやや落ちぶれて、親分の盟友の袁術も、
193年の匡亭で大敗北して落武者として揚州に逃げてきたばかり。

ようは劉備は陶謙から徐州を譲りうけた時点で独立しちゃってる訳w
>>305

徐州時代劉備の悪運一覧
・虐殺上等のキチガイじみた曹操相手に苦しむ陶謙の援軍に出向いたら、タイミングよく曹操が呂布の乱で引き返した
・直後になぜか陶謙が死んで、なぜか着たばかりの劉備が州を丸ごと貰えた
・親分関係は徐州どころではない落ち目だったので誰からも正当性を指摘されずにスルーされた
・曹操がまた徐州に食指を動かしたけど、呂布が未だに暴れまわっていたので無理だった
・ニッチもサッチも行かなくなった時に家財全てを投げ打って救ってくれた奇特な兄弟がいた
・呂布に降伏したら城を貰えた
・その城に袁術の魔の手が忍び寄ると珍妙な手段で呂布が助けてくれた

徐州時代劉備の悲運一覧
・徐州を手に入れたのはいいけど掌握できた人脈は僅かだった
・名目上は配下になった者は多かったけれど上記の理由からキッカケで脆くも瓦解した
・曹操に敗れた時限爆弾・呂布がなぜか劉備を頼ってきた
・ほうほうの呈で揚州に逃げこんだはずの落ちぶれた元大物が一瞬で息を吹き返した
・息を吹き返したどころか正統で強力な武力も備えてる刺史をあっという間に追い払っていた
・後方の安全を確保した袁術・・・何時の間にかその矛先が自分に向けられていた
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
・仕方なく交戦していたら何時の間にか帰る場所が呂布の物になっていた


つまり、袁術は一つの州、一つの拠点を持てばよしとする小物ではなくて、天下を夢見る英雄だったのが理由の一つ。
劉備などかつての盟友の子分にしか過ぎず、何の柵もないどころか、着任して間もなくということもあって

 袁 術 の 周 辺 で 間 違 い な く 最 弱 で 好 都 合 

弱ければ攻める、一番の敵対に値する理由だと思いますよw

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 02:02:22 ID:uaHQJUnt0
                            徐州に入る前に言っておくッ!
                    おれは今やつのスタンドをほんのちょっぴりだが体験した
                  い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|       『おれは袁術と戦っていたと思ったら
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ        何時の間にか呂布が徐州を乗っ取った
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |         のに俺は呂布の子分になっていた』
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        おれも何をされたのかわからなかった…
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \    皇帝僭称だとか主君殺しだとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ  もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 03:00:41 ID:LzOfwFosO
>>306
つまりリスね

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 04:12:32 ID:0G8sgb4t0
虐殺絡みでありえない話になるだろうが、
落ち延びてきたのが袁術には滅法強い曹操だったらどうなるだろうか?

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 12:55:57 ID:0G8sgb4t0
age

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 11:51:36 ID:WPN0F+1H0
>>309
普通に曹操軍が徐州豪族にフルボッコにされて追い出されるだけじゃね?
劉備も曹操軍を取り込もうとしたら一緒に追い出される危険性があるから迂闊に動けないだろ。
それ以前に、曹操が逃げるとしたら袁紹軍じゃないかな。
エン州を呂布に取られた時に、袁紹が家族をギョウに移せって言ったってのは程イク伝に載ってたよな?

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 15:28:32 ID:pf651W1X0
age

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 16:46:20 ID:PjAL/vfX0
age

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 18:54:53 ID:wGJXpCMB0
おまえらなんにもわかtっやいねえな

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 03:57:36 ID:2JyPEdRo0
age

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 14:39:10 ID:k4FmPLfm0
比べれば比べるほど徐州喪失と荊州喪失の成り行きは似ている。
勿論、背景や詳細は違うけどね。

類似点

・喪失した直接の理由は正面の敵との交戦ではなく、背後を衝かれたため
徐州:正面=袁術 背後=呂布
荊州:正面=曹仁・徐晃 背後=呂蒙・陸遜

・留守番の防衛機構は内応で機能しなかった
徐州:曹豹・許耽
荊州:麋芳・士仁

・背後を衝かれた事と、内応者が居たことで全勢力基盤が一瞬で失われた
徐州:劉備軍は崩壊、優秀な家臣達は霧散、裏切った呂布への屈辱的な降伏で一州の主から一都市の主
荊州:逃げ場を失った軍の崩壊、関羽は斬殺される

・劉備不在時に州を預かる将は天下無双の豪傑だったが、それ以上に問題児だった
同僚との間が不和だったのも共通点
徐州:張飛
荊州:関羽

・いずれの場合も所有権に正当性があり、同時に付け込まれる弱みがあった
徐州:劉備は陶謙から譲り受けたが、それ以前は無官無名に等しい雑魚
荊州:劉備は劉gから譲り受けたが、孫権に大きすぎる借りを作ってしまった

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:07:45 ID:2JyPEdRo0
ぬふう

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:08:55 ID:2JyPEdRo0
ぬふうう

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:10:40 ID:2JyPEdRo0
ぬふううう

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:13:49 ID:2JyPEdRo0
ぬふううううう

321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:14:47 ID:2JyPEdRo0
ぬふふふふふふ

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:17:43 ID:2JyPEdRo0
    //´   ///´  ィァ / | \| \/
\   lイ   / //   // _,.ィ ∧\| l ヽ
.  >//  ,′ l  /¨7 メ //  ヽミ| l  ト、
/ / l l  l   |/>=≠ミ / /^ヾ、!    '. \
〉 / .:| l  l   | >′● Y    ,ィ=、_, | l  l }   `ー
‐'{ /:.イ l  l   | '"ー-     ´ ● ヒ| l  l |
 l//| l  l   |          ‐-、イl  l /     …あらあら、ぬふぅぅぅ
/  | l  l   |       `     /l l l/
  /| l  l   |     `ー=-     / l l |
 // イ l  l   |      `     イ  l l |
.// | l  l   | ヽ、     ,.  1 l  l l |
'´ /| !  l   |   ` ーr' ´   | l  l l |
_/   !l  l   |    /=、.   | !  l l |

323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:20:17 ID:2JyPEdRo0
ぬふうううううう

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:21:06 ID:2JyPEdRo0
ぬふうううううううう

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:23:34 ID:2JyPEdRo0
ぬふふふふふふふふふ

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:24:58 ID:2JyPEdRo0
                 ,. -、
            _.,,/-....._ヽ
         ,.-=7..:.:.:.:,:lー、::ヽ...、
         〃 /:::/:/lj`_ `;:::l`、.、
         //  ク:l(::フ  l:.::j l::::l  l i
       ,' ;'  ゝl −`l =L):!  .! l   恥ずかしいぬふぅ、禁止っ
       i l     (\..|_」、-,'ニ、   l .!
      ,! l  _,/_ゝ. \/  .}   l l
.     l ,!   (/  _,>、 ´ヽ /    l l
       l l   ゝ-l} /l 丶ノ-' {.    l l
       l l   (´lj/|、ヽ|| _j   l l
      l l    `| | .|ゝ'´「´    l .!
.       ! l     j j. |  丶   ,! l

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 18:42:22 ID:Cyemg54p0
>>316
徐州では、呂布への降伏で城を一つもらって、一応の和解。

荊州でも、魏への対抗上、再び蜀と呉で同盟。

このあたりも似ているな。

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 21:06:47 ID:YLwnnPUH0
陶謙や劉gから譲り受けたって、全然正当性が無いんだけど。
中央から正式に任命されて初めて正当性が生まれるんだし。
細かい突っ込みだけどね。

そもそも劉備って徐州時代は平原国の相、荊州時代は予州の牧だよね?
しかも自称ではなく、正式な。

329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 21:09:12 ID:EVisTGsJ0
戦だと血もでるし痛いから麻雀で荊州が誰のものか決めるべ

330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:32:51 ID:1CzoYcc70
age

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:34:13 ID:1CzoYcc70
age

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:36:32 ID:1CzoYcc70
あげ

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:37:57 ID:1CzoYcc70
あげ

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:39:14 ID:1CzoYcc70
あげ

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 14:32:41 ID:hI4+lNXx0
>>290
劉焉・劉璋時代に土着の豪族の勢力は減少し、劉焉が連れて来た連中が勢力を
拡大したのは事実だろうけど、劉エンは豪族を10人あまり殺したらしいが
果たしてその程度で益州全体の豪族を解体できるだろうか?
もし本当に益州中の豪族を解体しようしたら、返り討ちにあう可能性も低くは
ないだろうし、ほぼ確実に益州は荒廃すると思う。益州は劉エン、劉ショウの
時代は他の地域と比較して豊かで平和だったみたいだけどね。

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 18:43:29 ID:RWglqk1e0
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1193473859/l50

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 02:39:01 ID:WVKDFTG50
あげ

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 20:49:54 ID:WVKDFTG50
あげ

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 06:39:59 ID:Ems9gFFPO
俺しかいない

荊州を落とし穴だらけの街にする

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 22:49:09 ID:PS0b8Rmk0
かんうさいきょう

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 04:23:17 ID:4cBRgtw40
かんうさいきょう

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 12:40:27 ID:eGGYyMWJ0
>>335

「豊か」であったのは間違いないと思うが
「平和」であったのかは疑問符がつくと思うよ

劉焉伝には馬相の乱が相当大きな反乱だったことを伺わせるし
劉璋時代になると馬相を鎮圧した大功臣の趙?も謀反を起こしたともある
この反乱は正に一大危機で版図の半分が寝返ったらしいね
避難民である「東州兵」を使いこなせずに略奪を黙認してるし
何より張魯という内患がずーっと放置されてるままだからなあ・・・


ちなみに豪族は解体されてないような?
相次ぐ反乱や命令を聞かなくなったと記述があるのが何よりの証拠かと

勿論劉備の正当性を造るために劉父子にネガティブ補正かけてるんだろうけど
それを差し引いても豪族が如何に半独立状態だったかわかる

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 08:35:11 ID:8vJBNs4J0
当時は中国中で大規模な反乱が多かったし、黄巾、董卓、袁術、曹操のせいで
荒廃した黄河と長江に挟まれた地域よりは平和だったんじゃないかな。

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 12:32:00 ID:tUuw8xW90
まぁ相対的には平和だったな
実際に三方から難民が押し寄せてるわけだし

しかし道をぶっこわして鎖国までした空間ですら
乱世とは無縁ではなかった

そういう比較論だと劉表時代の荊州中央部が一番平和


345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 21:40:59 ID:UVk3tA1z0
南蛮はいるし
地域豪族もうるさいし色々大変だべ

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/12(月) 23:17:12 ID:Hrprg2sL0
関羽の戦歴って以外と貧弱だよね。
大きな軍を任せられた晩年が荊州の守りだからしょうがないかもしれないけど
晩年に軍功を重ねた張飛とは対照的
通算戦歴でいうと馬超>張飛≧関羽≧黄忠ではなかろうか・・・


顔良を斬った後の関羽の戦績:

赤壁前の荊州逃亡時には徐晃に負け

江陵での曹仁追撃時には李通に阻まれて達せられず

呂蒙の荊州侵攻時には孫規に負けて桂揚を失い
甘寧に阻まれて長沙も救援できず
カク普は放置

荊州北上は曹仁呂常を囲み荊州牧などの将を降すも、対于禁は天災に助けられただけで、本命の徐晃には負ける

最後は呂蒙の大包囲に成すすべなく軍崩壊で終了


347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 13:10:45 ID:8zh+lIR90
この時期の曹仁の兵力が数千と少なすぎるのも関羽にとってはラッキーだった。
孫権の睨みとして寿春合肥に夏侯惇張遼の大軍がまだ残っており、漢中劉備の睨みとして長安に曹操本軍が駐屯。
長安から援軍の徐晃は宛で徴兵をして、さらなる増援を待ってるのでほとんど単身赴任w
そんな状態から最後は関羽の軍を漢水に叩き落として勝った徐晃。

関羽の突破力を誇張する人がおおいけれど、数千の曹仁を破れずに釘付けにされてたというのが実態だね。
劉備は長安の曹操を牽制してるつもりだったが、実は牽制されて動けなかったは劉備のほうだった。
そうなると援軍なしの関羽が次々と投入される曹操の援軍に負けるのは必然であって何時の問題。

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 20:25:08 ID:O9kHhnxd0
粘りの男曹仁が一度でも撤退を考えただけたいしたもんだろうに。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 22:26:09 ID:O9kHhnxd0
魏:曹仁、呂常、于禁、龐徳、徐晃、趙儼、徐商、呂建、殷署、朱蓋
呉:呂蒙、孫皎、蒋欽、朱然、陸遜、潘璋、馬忠
蜀:関羽、関平、趙累、士仁、麋芳

曹仁は七軍を都督していたので最初から寡兵だった訳ではないはず。
天災に助けられたといっても彼我の条件は同じで、自軍の覆滅を救った手柄を無視しては片手落ちだ。
また曹操の戦後評価にしても関羽を侮るようなことはなく、莒、即墨を包囲した楽毅に比して、
その上で徐晃を孫武、司馬穰苴、周亜夫になぞらえて称えている。
文帝の即位前後には陳邵にあっさり襄陽を奪われるなど相当この方面の戦力は弱体化している。
北伐の諸葛亮でも官渡の袁紹でもそうだが、安易な結果論で断定するのはいい加減流行らないからやめた方がいい。
勉強不足と理解不足をさらけ出すだけだ。

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 09:57:49 ID:qXXRmiRE0
袁紹スレでもこんな恥ずかしいやついたなあw
関羽以上に魏の中枢を震撼させた将軍なんていないだろうに。
泡沫勢力でしょぼい戦歴をあげ続けるのも至難。
魏が勝つのは当然としてどのように勝つかが問題。
その勝ち方としては戦利の大半を呉にもってかれたことからかなりろくでもない類。

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 12:26:21 ID:a3cNd2PN0
曹仁の兵力=数千
というのを鵜呑みにしてる時点で…

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 09:59:50 ID:9ngkD+9C0
>>349
魏は始めから関羽軍のみを相手にしてないがな。
魏での反乱、賊の蜂起、関羽軍とこれらを収めたから
徐晃を孫武らに称されたわけなんだが。
関羽は凄かったって固定観念はするのは
いい加減流行らないからやめた方がいい。
勉強不足と理解不足をさらけ出すだけだ。


353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 12:48:18 ID:V38INZ84O
最低でも賊の反乱は関羽と一体で考えるべきだと思うが


354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 13:36:26 ID:pEKODIGS0
>353
関羽は乱が鎮圧された後に腰を上げて各個撃破された形になってるから
関羽評価の−要因にはなるけど+にはならないだろ。

>350
魏の目的は守ること
呉の目的は南部荊州攻略
関羽の目的は北進

目的を達していないのは

魏 △ 損害が出たけど領土失わずに守った
呉 ◎ 漁夫の利ウハウハ損害なし
蜀 × 北進どころか荊州勢力が滅んだ

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 13:44:44 ID:Aq8+YwVg0
>>352
序段が説得力なさすぎ。あいたた。

>関羽は凄かったって固定観念はするのは
>いい加減流行らないからやめた方がいい。
>勉強不足と理解不足をさらけ出すだけだ。

といいたいだけの厨房だろw
侯音の乱を鎮圧したのは徐晃じゃない。プゲラ

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 14:52:17 ID:9ngkD+9C0
関羽が北上したから魏が危なくなったというより、魏がガタガタの隙に関羽が攻め込んだだけだし。
それでも、守る分の備えはあったはずなのに于禁のチョンボで反乱軍が増長したわけだ。


357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 15:57:02 ID:Aq8+YwVg0
>>356
>関羽が北上したから魏が危なくなったというより、魏がガタガタの隙に関羽が攻め込んだだけだし。
違う違う。
「魏がガタガタの隙に関羽が攻め込んで、関羽が北上したから魏が危なくなった」んだよ。

>それでも、守る分の備えはあったはずなのに于禁のチョンボで反乱軍が増長したわけだ。
無理な自論を通すために于禁までおとしめることはなかろう。
どんな名将でも天災で窮することはある。慕容紹宗とかな。

358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 17:27:36 ID:9ngkD+9C0
>>357
なにを言ってるんだ?
反乱、賊徒、関羽軍、劉封軍、そして黙して語らずの孫権軍を合わせて
魏の危機だったわけなんだが。
関羽はそれらを一つに纏めようとしてただけ。
それも叶わずにすべて各個撃破されてるけどな。
兵力として最大なのは関羽で賊にも呼びかけもしてるが、
呼びかけの賊まで、勘定にいれればそもそも関羽自身も反乱軍の要請で
動いてるわけだが。

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 17:33:44 ID:9ngkD+9C0
あともう一つ、于禁は水害の危険を知らされていた。
危険を知っていて対処しないは非難されるべき事じゃないのか?

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 17:51:40 ID:VR62KbYTO
つまり關羽軍と戦うより水害と戦え、と。

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 17:56:36 ID:dXR50I2f0
魏軍きっての奇襲カウンターの天才の于禁も水害には対処できなかった、と

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 20:29:54 ID:Aq8+YwVg0
あんたの主張をまとめるとこうか。

1:関羽凄くない
2:于禁凄くない
3:龐徳凄くないけどエラいぞ龐徳(なでなで
4:曹仁、呂常凄い関羽ざまぁw
5:徐晃凄い
6:呂蒙超凄い

…と。こんな感じですか?はははw
その凄くないやつに七軍、十二営を投入して半年もかける魏という国は凄いですね〜(藁

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 20:56:35 ID:9ngkD+9C0
関羽厨の被害妄想が一番凄いな。
話題に出てない人物まで出すんだから。

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 21:02:46 ID:yypCSg4r0
ID:9ngkD+9C0は関羽アンチか、蜀アンチだな。

劉封軍(孟達軍)て、不動の軍じゃねえぁか…
反乱怖くて動けねえよ。史実でも寝返り食らってるんだから。

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 21:22:55 ID:Aq8+YwVg0
>>363
俺はただの三国志ファンさ。
ただおまえのような曇った目でしか考えることが出来ず、
論調が過大過小すぎて公正とは程遠い輩ほど馬鹿じゃないというだけ。

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 00:54:36 ID:v6sN7KLX0
わざわざ相手貶す為だけにレスするなら一回回線切って頭冷やせ

367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 03:06:40 ID:a+Sv5/+40
つーかホウトウが死ななければよかった。


終了

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 03:08:58 ID:a+Sv5/+40
鳳雛がちゃんと孔明のいうこと守って嫉妬しないで生きていて、
バショクも命に背かなければ結構よかたんじゃない?

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 04:18:35 ID:DGti2Ouc0
終了じゃないのかw

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 04:23:23 ID:AeP0JOPv0
それで言いつけを守って負けたら孔明の指示のほうが適切でなかったという恐ろしい罠

371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 11:16:02 ID:ay4eFTFFO
つーかホウ統は流れ矢に当たっての戦死だろ?
孔明との確執なんて創作じゃん。

372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 14:12:52 ID:wR3Tl3+Y0
孫権は裏切って荊州を奪った上に関羽を殺したわけだが、そこまでする必要が
あったのだろうか?
関羽くらい逃がしてやればよかったのに…

373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 14:22:43 ID:QbFaA6U90
もし関羽が生きてたら歴史はどう変わったかな
イリョウは無さそうだ
なんとなく魏にはデメリットが大きい気がする

374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 17:06:10 ID:5HX0JXZB0
麦城で死んでなければ夷陵で死んでるだろ。
水軍の破棄が朱然の退路遮断と陸遜の火攻めに繋がったのを考えると
若干結果は変わるだろうけど、大勢を覆せるとは思えない。
機能してるときの孫権―陸遜ラインは鬼。

375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 18:27:53 ID:zSggEv1CO
>>374
関羽存命なら呉への侵攻は全く別のものになってるでしょ。

376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 12:09:15 ID:lxEaBwzz0
関羽が逃げ延びる可能性があるとしたら、江陵に戻らずに水軍で漢水を遡って漢中にいくくらいかね?
宣都郡まで陸遜が制圧してるから陸路では無理でしょ。

377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 23:43:26 ID:eVG04n2t0
そういえば孟達って宣都から上庸に侵攻してるんだよね。劉封は漢中から単身赴任。

関羽は益陽に三万で布陣した〜云々のくだりが本当なら関羽の北上部隊は

30,000−守備部隊−孟達部隊=?

これは許都を窺がうどころの兵力じゃない。宛まですらも怪しい。
やはり関羽北上の理由は土地を切り取れるだけ取るという見方が正しいと思うね。



378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/20(火) 00:04:43 ID:dap+ziPT0
あともう一つ気になることが・・・
関羽は文聘の江夏を無視してる。
んで樊包囲後に結構北まで陣を伸ばしてる。
地図を見て気がついたんだが、襄江の北岸とイク水の東岸にはまったく手をつけてないんだよね。
つまり、樊を「江を利用した防衛ラインの外」に置いたような形が出来上がってる。
これみると防衛的侵攻だったんじゃないかと思えるぞ。マジで。

仮にこの国境線が確定すると魏は樊をまず落とさないといけないことになり、
蜀からすると何処から魏が侵攻してくるのか非常にわかりやすい上に、宣都も上庸も完全に遮断されて安全になる。
しかも各長江支流が完全な防衛線となるし、蜀が攻勢を掛けるなら防衛線の外の樊は出城的性格を持つことになる。

こうなると関羽の独断説は100%無いものに見えるから不思議だ。

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 09:23:21 ID:TjBnizFY0
age

380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 10:40:31 ID:JmqwfWSgO
>>378
非常に蓋然性の高い推理だね。
劉備の内意を受けての北上だとしても無理がない。
勢いに乗っての版図の拡大だとすれば、失陥の責任は劉備にある。

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 14:21:38 ID:SvvVdtqc0
>>380
もっと大軍なら飯を食い尽くして前に進むしかない、と弁護することもできるが
>>377じゃそうもならないなあ

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 20:21:12 ID:YRFAUt5o0
あげ

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 13:34:55 ID:XB5dUyTu0
>>380
だとすると、時期が悪すぎるよなあ。

384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 13:38:48 ID:AWoUwa8Q0
もう中原を諦めてベトナムとかチベット目指せばよかったんじゃない?

建寧から南海へのルートもあったようだし、ひたすら周辺蛮国の漢化政策をおしすすめて人口を増やす。
五百〜千年後くらいに「賊が乗っ取った中原を正す」「賊によって乱れた漢の末裔の地を本家が救う」とかいって侵攻。

それがダメなら匈奴みたいに大移動してデンマーク〜アイスランド〜グリーンランド経由でアメリカに大帝国を造るの。
馬も鉄も文字も知らないところだから千年王国ができる。

関羽はその先鋒としてロッキーやアンデスを乗り越え、アリゾナ砂漠やアマゾンの密林も駆け抜けてマゼラン海峡で寿命が尽きんの。

385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 17:38:27 ID:Z0ROIJVZ0
それなんて銀英伝の自由惑星同盟

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/23(金) 08:54:46 ID:D03/9BtSO
もう一緒よ、陥落よ

387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/23(金) 11:00:46 ID:4l4u9VpL0
そらそうよ

388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 15:39:06 ID:9RKvcruS0
あげ

389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 18:10:27 ID:fa1iQvj80
ホウトウかジョショがいればリクソン、リョウモウとも戦えただろうに

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 19:11:45 ID:vfv1TmgU0
〜がいればは耳にタコじゃわ

391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 20:13:37 ID:8AkTSRB70
しょうがないよ。ゲームとかで、どこにどのキャラを配置するとか
そんな次元のレスなんだから。

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 12:35:09 ID:lA/LAaZd0
「それが荊州の仕様だ」

 これが、私が考えた戦略だ。
 荊州問題についていろいろ言う人もいるかもしれない。
 それは対応する関羽がこの戦略に合わせてもらうしかない。

 荊州の兵力はこれ以上増やしたくないし、人材もこれ以上投入したくなかった。
 士仁と麋芳も狙ったもの。それが仕様。
 これは僕が練った戦略で、そういう仕様にしている。
 明確な意志を持ってるのであって、間違ったわけではない。
 後漢末で一番美しい配置を作ったと思う。
 著名兵法家が提案した策に対して人材の配置がおかしいと難癖をつける人はいない。
 それと同じこと。

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 12:40:27 ID:zXz9nRyr0
>>392
久多良木乙

394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 17:52:03 ID:7HOt2JVM0
>>357
于禁はなんで対策とれなかったのかねえ。
ホウトクは水軍で関羽に抵抗しているんだよね。
まあ、あっさり関羽に撃退されているんだけどさ。
この軍は南下しているわけだから、川わたっているはずで、
むしろまだ川渡ってない関羽よりも水軍の手持ちはあったはず。
まあ刑州の水軍のほうは優れていたという話かもしれんけどね。
>>362
ていうか徐晃も単独じゃないからなあ。
最初は小勢だったけど、曹操が直属の軍の割いて援軍おくって、
苑周辺から軍を募って、つまり動かせる軍を全て送って、
やっと勝っている。
それも関羽の場合は、水害で食料の輸送もままならず。
後方支援をやっていた士仁とビ芳がサボっていた、水害で出来なかっただけかもしれないけどね。
さらに途中でこれが失陥してはさまれる格好になった。
だから引いただけとも読める。
徐晃がかったのは、せいぜい5000だけのような。

395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 19:29:43 ID:9PhTC1d60
>>394

>于禁はなんで対策とれなかったのかねえ。

襄陽の水軍は全部関羽が脱出時に夏口に持っていったはず(それから江陵に)。
事実上曹魏の荊州水軍はもぬけの殻で、あっても小船程度で組織的な戦闘は不可能だと思うよ。


>この軍は南下しているわけだから、川わたっているはずで

川ってどの川のこと?漢水なら渡ってないよ。
于禁が関羽を討つために曹仁に遣わしたって武帝紀の記述なんだろうけど、
于禁伝、先主伝、関羽伝、曹仁伝にはしっかり曹仁を助けるためと書いてある。
決定的なのは先主伝の記述で「樊城で捕虜にした」とある。
もし漢水を渡っているのならば「襄陽で〜」となるだろうし、呂常の記述がないとおかしい。

ちなみにこの洪水は大洪水だったと思われ。どこかに詳しい考察があったような気がする。
大体の各記述は「秋(7〜9月)に大雨」「8月に大雨」で整合してるから関羽が攻めた8月が凄かったんだろう。
範囲もハンパなかったらしい。この年は「閏10月」があったらしいので、
仮に8月に大洪水が始まったとして徐晃の大反撃が12月(つまり12月には水が引いていた)だから
8・9・10・閏10月・11月と少なめに見積もっても4ヶ月は水が引かなかったことになる・・・・とかなんとか。



396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 19:38:17 ID:9PhTC1d60
>ていうか徐晃も単独じゃないからなあ。

関羽も単独じゃないと思います。

>最初は小勢だったけど、曹操が直属の軍の割いて援軍おくって、
>苑周辺から軍を募って、つまり動かせる軍を全て送って、
>やっと勝っている。

あせりの最中に、徴兵したばかりの新兵(しかも最近反乱を起こした地の兵。史書にも豊かさゆえの重税で反曹感情があったとある地)
をいきなり投入せず、各個撃破を用心して兵が集うの待ったのは名将の判断と思いませんか?

>徐晃がかったのは、せいぜい5000だけのような。

漢水に叩き落して溺死者が溢れるくらいの大勝と読めます。
漢水北岸から退けたということは曹魏の第一目標を達成したということ。
上の方に関羽軍の兵数概算が出てたけど、仮に2万が5千を失ったら25%の死傷率。
戦闘組織としては壊滅ですがな。(そういったら于禁はどーなる!と言われれば・・・・)

397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 20:27:56 ID:+A8QGAlk0
魏書は勝った時も分けた時も大袈裟なので、負けた時はぼかすから
そのままでは信じられないが…

徐晃はあれほどの活躍は派遣当初は期待されてなかっただろうと思う。
曹操の本命は兵力、兵質から考えれば于禁だったはずだし。
自分が到着するまでの時間稼ぎをやってくれれば良しとしたように思う。

398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 01:10:48 ID:KKtt1FVy0
>>396
なんだか認識がおかしくないか?
徐晃は、自身の四冢攻撃へ対応すべく歩騎5千を率いてきた関羽を撃退し、
そのまま包囲陣地を攻撃してこれを突破して解囲に成功したんであって、
関羽率いる5千を殲滅したわけじゃないよ。
漢水に落ちて死んだものがいたからと言って、関羽の5千が殲滅されたとは限らない。
だから、「2万が5千を失ったら…」という書き方は変。

399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 05:21:07 ID:rsWtQRYd0
徐晃厨なんだろ。それかアンチ関羽厨
観察と思惟に私情がこもってるうちはまだまだよ。

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 18:21:09 ID:sxMN3YtO0
>>398

賊圍頭有屯←これは「頭の包囲陣地」と読むと思ってる。
ちくまの「囲頭(地名)」は珍訳。
「頭」という地名があるのなら整合性ができる。

晃揚声當攻圍頭屯←もう一度使ってるから「頭(地名)の包囲陣地」でほぼ間違いない。
これを元に徐晃伝をよく読むと、関羽の陣地はこうなっていたと思う

    頭(包囲の一角)
偃城<  >|樊城|--本陣--|漢水|
    四家(包囲の一角)

徐晃は奪った偃城から出撃して頭を攻撃すると見せかけて四家を攻撃、
四家が破られそうになったので関羽が歩騎5000で援軍に行くも、諸共破った。
関羽伝に言わせると「羽不能克 引軍退還」
つまり徐晃は敵を分散させて撃破してるわけ。
包囲の一部を破っただけなら溺死者とか出ないでしょ?
つまり「引軍退還」に何が起こったかといえば、正に「遂追陷與・圍破之」になるわけだ。

>>397
>魏書は勝った時も分けた時も大袈裟なので、負けた時はぼかすから
>そのままでは信じられないが…

どうみても庇われてるのが関羽。

>>399
>徐晃厨なんだろ。それかアンチ関羽厨

自分の主張をバックアップする何かを展開してくださいね

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 18:30:55 ID:QErsY24M0
話ぶった切って、
荊州失陥を関羽の部下統率・対呉交渉の失敗とするなら
それに歯止めを掛けうる人物として劉gを推しとく>>289で一度出たきりだけど

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 19:22:11 ID:M2rbZ6gT0
>>395
>襄陽の水軍は全部関羽が脱出時に夏口に持っていったはず(それから江陵に)。

何年前の話だよ。
ていうか、その後刑州の水軍を摂取しているはずで、
水軍を持ってないなんてありえない。
関羽軍よりも、大規模な水軍をもっててもおかしくないよ。

>もし漢水を渡っているのならば「襄陽で〜」となるだろうし、呂常の記述がないとおかしい。

地図を見る限り、渡ってないと、そこまでいけないよ。
ていうか襄庸の救援も当然任務に含まれるわけなんだから、
渡河の容易がないわけないだろ。

>ちなみにこの洪水は大洪水だったと思われ。どこかに詳しい考察があったような気がする。

ちなみに、この水害によって、食料輸送が滞った結果、
関羽が敗れたという説もあるね。自軍と同規模の捕虜を受け入れたのがまずかったんだが。
当初容易していたのの、倍の食料を必要とするわけだし。

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 19:35:37 ID:M2rbZ6gT0
>>356
>各個撃破を用心して兵が集うの待ったのは名将の判断と思いませんか?

つまり関羽よりも数をそろえるまでまって、
数の優位で勝っただけだろ。
関羽のほうは、半年近くも対陣してて、連戦中。
食料輸送もままならず、さらに刑州が陥落。
だから撤退したとも読める。

>上の方に関羽軍の兵数概算が出てたけど、仮に2万が5千を失ったら25%の死傷率。

いやだから、5000に勝っても、そのうちの損耗率なんて一割あるかないかなんだけど。
5000人首とったとか記述されてたら、その軍を全滅したと読めるけどさ。
そういうケースの場合は、きちんとそう記述されてる。

>漢水北岸から退けたということは曹魏の第一目標を達成したということ。

出陣した一部隊を叩いただけなんですが。
なんで全軍を追い払ったかのように解釈するのがなぞです。
>>400
あのさ、あなたは自分の都合のいいように史書を読みすぎだ。
漢文ってのは、かなり幅広く読めるから、そういうこともあるけど、
とくに上段のところは、あなたの独自の解釈がただしいというという前提が必要で、
それが証明されていない。
その過程の上に、過程を重ねても、斬新な新説(または珍説)というレベルでしかない。
あなたがそれを主張するのは自由だが、
それを他者に納得させるのは無理だよ。

404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 19:51:36 ID:sxMN3YtO0
>>402

>地図を見る限り、渡ってないと、そこまでいけないよ。

いや、樊城に行くにはシ育水を渡る必要はあるけど、シ又水(漢水)必要はない。
というか、シ又水を渡ると曹仁を無視してしまうし、それどころか補給を無視してしまう。
先主伝に樊で于禁を捕らえたとあるので、これを否定するならば別の証拠が必要。


>ていうか襄庸の救援も当然任務に含まれるわけなんだから、
>渡河の容易がないわけないだろ

樊城と襄陽は対岸の双子城。そのくらいの船が無いはずがないよw
水軍が無いといったのは、

・まず明確に関羽が樊襄脱出時に水軍を率いていた事
・夏口の水軍曹操の手には落ちて無い事
・江陵の水軍は曹操が赤壁撤退時に焼き払っている事

これらを省みるに、大規模な水軍は保持していなかったことが推察できる。
因みに9年経ってるけど、江陵を捨てた(軍港を捨てた=水上戦を諦めた=長江以南の荊南を一時的に諦めた)
のにワザワザ艦船を作ったとは思えない。


405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 19:57:45 ID:sxMN3YtO0
>>403

>出陣した一部隊を叩いただけなんですが。
>なんで全軍を追い払ったかのように解釈するのがなぞです。

ほほう?
関羽は明らかに北の方まで陣地を構築していたのは間違いないのですが、
それらを尽く撃ち破られてシ又水(漢水)北岸から撤退して追撃されているのですが、
どの辺が一部隊を追い払っただけなんでしょうか?
関羽を一部隊というならあなたが正しいですけど。



406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 20:02:40 ID:CuWKt6xeO
なんでわざわざ中国語簡体字で表記するの?

407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 20:03:13 ID:sxMN3YtO0
>>403続き
>漢文ってのは、かなり幅広く読めるから、そういうこともあるけど、
>とくに上段のところは、あなたの独自の解釈がただしいというという前提が必要で、
>それが証明されていない

うーん、なんとも言えないね。
仮にちくまの通りに「囲頭」という地名だとしても、ここに関羽の別働隊というか樊城包囲の一角が有ったのは間違いない。
徐晃がこっちに陽動したのも記述がある。

なので、
>あなたの独自の解釈がただしいというという前提が必要
ではない。

徐晃伝に書かれてるままを書いただけに過ぎないんですが。

408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 20:13:56 ID:M2rbZ6gT0
>>404
>いや、樊城に行くにはシ育水を渡る必要はあるけど、シ又水(漢水)必要はない。

進路から考えると、丹水を利用しないとは思えんのだが。

>これらを省みるに、大規模な水軍は保持していなかったことが推察できる。

だからそれがあなたの妄想なんだってば。
焼き払ったといっても、水軍を一隻残らず焼き払ったわけじゃないし、
10年近くもなにもしなかったなんて普通ありえんってば。
赤壁で負けたあとも、刑州南部は維持しようとしていたし。
軍船を全て始末するなんてありえん。
ていうか、十分な水軍がなけりゃ、上庸も、襄陽も守れんぞ。

>それらを尽く撃ち破られてシ又水(漢水)北岸から撤退して追撃されているのですが、

そんなことはどこにも触れられてません。
刑州が陥落したので、撤退しただけかもしれませんしねえ。
ていうか、確定していないことを、自説を根拠に言われても。。。

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 20:16:52 ID:M2rbZ6gT0
>どの辺が一部隊を追い払っただけなんでしょうか?

徐晃伝に記されていることは、5000の兵を破ったとするだけです。
それ以上は、全軍を打ち破ったのか。
さっさと撤退したのか、わかりませんよ。

>徐晃伝に書かれてるままを書いただけに過ぎないんですが。

そのままかいてないじゃないですかw
過程が増えすぎです。


410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 21:19:12 ID:rsWtQRYd0
5000が継戦能力を喪失したのは確実だろう。
>上の方に関羽軍の兵数概算が出てたけど、仮に2万が5千を失ったら25%の死傷率。
↑の「死傷率」という表現が問題。
これでは河で大半が溺死したと取られかねない。

411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 23:58:31 ID:sxMN3YtO0
>>408

>進路から考えると、丹水を利用しないとは思えんのだが。

于禁がどこから来たのかわかるの?
7月に于禁を派遣したとあるだけで、何処から来たとか具体的な規模とかまったく不明のような気がするんだけど。

丹水って書いてることからして長安からとのことだろうけど、当時にあの山岳地帯を軍で抜けるのは無理じゃない?
今でこそ商州盆地がそこそこ栄えてるけど・・・この時代はほとんど川の合流地点まで無人だべ・・・

>だからそれがあなたの妄想なんだってば。
>焼き払ったといっても、水軍を一隻残らず焼き払ったわけじゃないし、
>10年近くもなにもしなかったなんて普通ありえんってば。

私は無いと信じるに足る状況を「推定」したけど(無いものは証明できないからね)
あなたは水軍があったことを証明若しくは何かしらの手がかりから証明できますか?
なにしろ水軍の記述はまったくないと思いますので、一つお願いします。
「普通ありえんってば」←これこそが主観じゃないですかね?

>赤壁で負けたあとも、刑州南部は維持しようとしていたし

江陵=荊南ではないでしょう。

>ていうか、十分な水軍がなけりゃ、上庸も、襄陽も守れんぞ。

上庸?水路とはほとんど関係ないと思いますが・・・?
襄陽はそのとおり220年に放棄されましたがね。
曹魏が再び襄陽を手中に収めた時はあまりにもあっさりだったことから、孫呉も襄陽の維持は難しかったんでしょ。


>刑州が陥落したので、撤退しただけかもしれませんしねえ。

いや、関羽部隊5000を破った後に、追撃して勝ったと記述されてるんですが・・・
あなたは人に客観性を求める割に、自分は随分と主観的ですね。

412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 00:46:32 ID:25uyZxT70
孫呉の場合、劉備が東征に来るから戦線を整理しただけだろ。

5千を破ったあと、包囲陣に逃げ込む敵に続いて打ち破ったというのは両者ともに一致してるのに何で揉めるのか?
まあ包囲は継続不可能だな。追撃でどの程度死んだかは不明。
曹仁が早々に退却してれば徐晃の勝利は危うかっただろうが、関羽は兵力分散のミスを犯した。
雑軍の徐晃さえあしらえないのだから曹操本軍に勝てるわけがない。
さっさと引くべきだったな。

>水軍
自主的に焼いたのではなく呉軍に焼かれただけだろ。

あんたら両方とも主観的で感情的、挑発的だぜ。落ち着け。

413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 00:48:14 ID:At5OGYyp0
論争はどうでもいいが
シ又水(漢水)
という面白い表記が気になって仕方ない

414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 08:09:39 ID:yy2essQx0
>>412
劉備に負けた年老いた曹操じゃ、
多分徐晃以上の働きは、前線では出来ないんじゃないかな?
ご自慢の軍師達もポックリ&引退始めてるし。
司馬懿は許昌の反乱で動けない。

つーか、ここで、曹操が離れたら、
許昌以外でも、大きな反乱呼ぶ気がするんですが?

文皇帝は、早くオヤジ死なねえかな〜とか考えてたら笑う。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:03:13 ID:t0KFjvMM0
>>414
動員兵力的に格が違う。
于禁が敗れたからには、このとき四方将軍にもなれてない徐晃は
曹操自身または夏侯惇までの繋ぎ程度のつもりだったはずで、
対呉戦線から張遼他を根こそぎ向かわせてる最中だった。
結局徐晃で勝っちゃったけど。

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:21:59 ID:yy2essQx0
徐晃だけで勝った訳じゃないって、前の方のレスであるだろうがw
あんたはそればかりだな…
つーか反乱の話はスルー?くだらないねぇ。
ここはIFを語るスレってーの忘れてませんか?

だからぶっちゃけ面白くないねぇ。新しい話題だしてよ。
オレより頭良いみたいだし。

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:31:46 ID:yy2essQx0
>>415
もうトリップ付けろ。

418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:41:49 ID:t0KFjvMM0
俺このスレに書き込んだの>>401しかないよ。
先入観で目が眩みすぎだな。自分にレスする人間は全部敵なのか?
単に「対呉方面からの増援が到着する前に勝った」と書いただけなんだが。
yy2essQx0こそ落ち着いた方がいい

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:52:37 ID:yy2essQx0
>>418
ID変われば、誰がだれだか解らんよ。

反乱の話はスルーのくせに…まったく。

つーか、
>徐晃だけで勝った訳じゃないって、前の方のレスであるだろうが
>>415の反論はコレに適切じゃないんだけれど?

420 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 11:08:42 ID:t0KFjvMM0
アチャー…ダメダコリャ
うん、一応トリはつけておくよ。夕べ長文討論してた人が来て
反乱の件にレスしてくれるのを期待しよう

話は面白く読ませてもらったけど、兵数推定とかめんどくさくて俺はいいや

>つーか、
>>徐晃だけで勝った訳じゃないって、前の方のレスであるだろうが
>>>415の反論はコレに適切じゃないんだけれど?
言ってることがよく解らないな。「徐晃だけで勝ったわけじゃない」への反論として
>>415を書いたつもりではないんだけど。

421 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 11:19:18 ID:t0KFjvMM0
……。あー、反乱って関羽が呼応した宛の件とかじゃなくて、
曹操が動いたら魏の本土が危ないってことね?
うん、そう思うよ。曹操は動けないだろうね。
俺は>>414の、「もし曹操が来ても徐晃以上の意味はない」に反論しただけなんだ。

戦陣が長引いて魏の南方軍が集結して大規模な戦線を構築しなおすとしたら、
その総司令官になれるのは曹操か夏侯惇くらいしかいない。
司馬懿は若すぎる。徐晃張遼は武官にすぎない。
「耄碌してるから役に立たない」なんてのは有り得ないよ。格が二つは違うんだから。

422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:36:55 ID:yy2essQx0
>>421
なんで関羽を倒す案を出すんだよ。しかも魏ばっか。
逆だろ?スレ的に。

>その総司令官になれるのは曹操か夏侯惇くらいしかいない
夏侯惇は無いだろうね。高順に負けたり劉備に負けたり。
この人功績調べたら、でら少ないな…

呉を語る人いたら面白いのになー。
関羽は魏相手だけだったら、少なくとも死ななかったと思うんだよね。

423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:37:49 ID:A2OfRynL0
曹真と曹休がいるじゃん

424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:47:30 ID:A2OfRynL0
曹操の息子達もいるしな

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:49:37 ID:yy2essQx0
>>423
この時期は確か、曹真は偏将軍、曹休が領軍将軍。
活躍すれど、まだ下っ端だよね。
この時期には、とても大軍の司令官には為りえない。

魏書ってややっこしいよね。
戦果は5倍、被害は5分の1で書いてあるらしいから。

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:52:30 ID:yy2essQx0
>>424
息子達は、兄弟の権力争いで、それどころではないですなぁw

427 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 11:57:44 ID:t0KFjvMM0
>>422
あー…今更夏侯惇の功績云々言う人か…
ゲームじゃないんだから、夏侯惇兵力二万、張遼一万とかいう差じゃないんだよ。

反論できないとそもそも論を持ち出すのって言い逃れの常套だ
夕べの人たちとは関係ないみたいだし、辞めにする。

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:04:41 ID:VxaBvXCT0
>>427
そういうなよ。
具体的な話が出来ない人たちは空気スルーしてくれ。
討論を楽しみにROMってる人もいるんだ。

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:04:45 ID:A2OfRynL0
>>421
張遼の官位は結構高かったと思うし、司馬懿は官位はどの程度か知らんけど
実戦経験がほとんど無かったと思うし、曹操の部下というよりは曹丕の部下
という感じがするな。

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:10:56 ID:VxaBvXCT0
寿春からの夏侯惇はナント二十六軍(張遼もその中の将)。
単純にみて于禁七軍の4倍以上で、魏でもっとも信頼される将軍と魏で最強の将軍がいるんだから関羽に勝ち目はない。
夏侯惇は将の将なんだから戦績とかは関係ないdえしょ。
彼の特筆すべきは二十六軍という桁外れの軍を任されるだけの位と信頼があったということだけ。

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:14:45 ID:A2OfRynL0
城を数ヶ月包囲して落とせず、補給は滞り、敵の援軍に負けたら
普通撤退するでしょう。何千、何万人討ち取っただの、敵の武将を
討ち取っただの、大勝したみたいな具体的な記述が無い以上、ただ
勝っただけだろうね。張コウが長江中州の砦を占領した時は数千人が
溺死したという記述があるが、この時は溺死した人がいたとしか書いて
ないから、大した人数ではないだろう。

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:20:25 ID:yy2essQx0
>>427
呉に触れずに、呂蒙と陸遜の話題もださいなんて話にならないですか…
あのさ、呉の関わらない、関羽の刑州北上ってどんなIFだよw

あなたの方がゲームに侵されているね。
では、貴方の方が詳しい様なので、
夏侯惇の将才から語ってもらおうかなw

夏侯惇が大軍を率いて戦って勝ったって何所で、どれ?
あ、217年の呉との和睦は禁止ね。
大軍で、濡須口(居巣湖?)で、留守番してたら、
呉が使者送ってきただけだし。
曹操指示による、策略はあっただろうが。

反論出来ないのはあんただろ?
呉関係の話を絡めてから言い逃れしてねw

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:57:40 ID:yy2essQx0
>>430
大軍を率いれば将の将?馬鹿は言わない方が良い。
光武帝の雲台二十八将筆頭のケ禹だって、
大軍を率いても赤眉軍に破れているのだからね。

光武帝から見た武将としてのケ禹は、曹操から見た夏侯惇と同じ様なもの。
だから、大軍率いただけで戦果を出せていないのに、
将の将とか言い出すのはちょっと恥ずかしいですよ?

434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 13:29:11 ID:VxaBvXCT0
>>433

あんた何ムキになってんの?w
そもそもあんたが>>422で夏侯惇が司令官ってありえないとかいう意味不明なこと言い始めたのが始まりじゃん。
どーしてそっから夏侯惇の将才を書けとかになるの?
自分の書いたこともういちど見直そうねw

現 実 に 夏 侯 惇 は 総 司 令 官 格 で 向 か っ て る の に w 


435 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 13:42:02 ID:q5x+Uuox0
『曹魏軍中における曹操(or夏侯惇)と徐晃の地位の差』だけが
>>412
>雑軍の徐晃さえあしらえないのだから曹操本軍に勝てるわけがない。
から抽出された一連の話の論点だったはずなのに、
なんで呉の話を持ち出して話を複雑化しようとするのかわからない。

師団長が鬼のように強いので(確かに強いだろう。五将の戦闘の強さは
互角の地位でさえあったら夏侯惇・夏侯淵とは比べられなかっただろう)
一個方面軍や中央軍を動かす必要は無い。返って邪魔。とyy2essQx0は言ってるんだよ。
結果的に師団規模だけで勝っちゃうことは有り得るが、
戦略的にそんな見込みを立てるなんてことは有り得ない。

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 13:46:55 ID:yy2essQx0
>>434
>あんた何ムキになってんの?w
なら、将の将とかの言葉を使わない方が良かったかもね。
ムキになってるのはどっちかなw
スレタイすら理解出来ないのかなw
呉の話は何時出てくるのw
関羽に変わる人材の話は、何時出てくるのかしらw

ID:VxaBvXCT0さんは、
夏侯惇の将才を、将の将と言っている時点で論外でーす♪

>自分の書いたこともういちど見直そうね
>>422から見直した。
で、あんたら、呉の話題を話さない。魏の援護射撃ばっかり。蜀の話題も皆無。
スレ違いですよ?

関羽は何があっても負けますと述べるなら、
関羽に変わる人材を、蜀の人材から推挙するのが、本当の反論なんだけどね。

スレタイが、魏vs関羽とかならこの流も解るけれど、
ハッキリ言って、魏の話題だけの人は話にならない。

437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 13:59:00 ID:MUGxZgu80
どんなに良い内容でも、そんな挑発的な書き方じゃ議論にならんぞどちらも。

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:01:47 ID:VxaBvXCT0
ID:yy2essQx0は健忘症か?

自分で夏侯惇が総司令官なんてありえないニダ!
→二十六軍を束ねる総司令官として向かってますw

将才を書くニダ!将の将なんて書くニダ!
→張遼など将軍達の上の将軍として指揮していますw
→将才の如何に関わらず現実としてそういう形容ができますw

呉の話を書くニダ!おまえら俺の話をきけ!!全員スレタイと違うこと話てる!!!ふぁびょ〜ん!!!!
→今までの流れから呉の話をしたいなら自分から振りなさいよw


なんか、もう、孤立無援でよく頑張ったな・・・まるで関羽みたいだw

439 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 14:02:00 ID:q5x+Uuox0
曹操・夏侯惇の二人が摩陂で落ち合うという事態は、
関羽の曹仁攻撃が魏にとってどれほど重大な危機だったかを示すものだ。
その重大さを明らかにせず、「徐晃がいれば曹操はいらない」というような
態度を取るのは、関羽の行動を恐ろしく過小評価するもの。
まず価値認識を統一しなければ、別の問題を語れない。
(並列的に語るのは構わないが)

複合する無数の問題をごちゃ混ぜにして一度に論じようとするのは
論点が際限なくぼけて拡大していくだけで纏めることはできない。
議論の下の下だよ。

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:04:08 ID:yy2essQx0
>>435
于禁七軍は方面軍クラスだと思うのだが、実際はどうだったんですかね?

于禁七軍を天災とはいえ破っている関羽、
でも呉が介入しなくても、やっぱり撤退してただろうね。
でも、そうすると劉備が怖いよね。援軍に来るか、それとも長安を狙うか。

441 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 14:04:35 ID:q5x+Uuox0
てか、>>421訂正。曹操ちゃんと南下してるよなあ。

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:07:20 ID:yy2essQx0
>>438
うわ、人格攻撃できたかw

あはは、あんたの勝ちでいいよ。天国でも祈ってなw

443 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 14:12:10 ID:q5x+Uuox0
>>440
規模は夏侯惇と違うけど、于禁はこのとき左将軍、楽進は死亡してるけど右将軍。
外様の武官ではこの二人の地位は頭半分抜けている。
張遼・徐晃・張コウは曹丕が王位に付いた(于禁降伏後)ときに四方将軍になっている。
多分に曹操への帰順の時期の問題だろうけど、
于禁は曹操に最も信頼された将であるし、曹仁救援の本命だったと思うよ
それが壊滅しちゃったもんだから許都は泡食った

444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:13:23 ID:yy2essQx0
当時の三国の認識ってどんなかな


やべえ、このままでは許都がおつる!


ちゃーんす♪


無茶しやがって…

こんな感じかな?

445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:19:17 ID:7borvYBL0
レベルが違いすぐる

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:19:45 ID:yy2essQx0
>>443
つまり于禁で事足ると、魏諸侯(曹操本人?)は考えていたと…
曹操の嘆きも凄かったですねぇ。
30年于禁を見てきたが、龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった。
みたいな。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 15:18:54 ID:eTBJUKtU0
ID:yy2essQx0って物言いがいちいち高圧的だったり挑発気味なんだな

どちらもかもしれんけど、初めから相手の意見は認めない(論破してやるよ)って
空気を前面に出しすぎてて読んでても不快でかなわんわ

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 15:20:48 ID:At5OGYyp0
袁紹のところに現れた奴っぽいな

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 15:34:50 ID:yy2essQx0
>>447
すまねえ、◆vSl3XmROykさんには謝罪する。
私が悪いからね。
>>448
それオレじゃないぞ?

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 16:14:19 ID:yy2essQx0
>>428
スルー以前に、お前の後の暴言が一番酷いね。主観的に。
>>430
夏侯惇如きが、将の将?
意味解ってねえのなら、調べてから言葉を使えや。
夏侯惇は将の将の中で、必要な物はカリスマしか満たしてねえよ。 プゲラw

>>434
>現 実 に 夏 侯 惇 は 総 司 令 官 格 で 向 か っ て る の に w

そ れ が 功 績 な の で す か ? w
向 か う だ け で 功 績 な の ? w バ ー カ バ ー カ w

>>438
お前がファビョってどうするのさw
総司令官は曹操だろうが。魏はまだ漢帝国の中の国だぞ?
曹操はいわば忠義の無い韓信だ。

>張遼など将軍達の上の将軍として指揮しています
だから?その部下を使った戦いは?

>今までの流れから呉の話をしたいなら自分から振りなさいよ
スレタイ見ろ莫迦w

451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 16:15:36 ID:yy2essQx0
すまぬ…書いて消そうと思ったら間違えて、カキコしてしまった…
もうしわけない…

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 16:15:38 ID:At5OGYyp0
>>449
>>450
もはや笑うしかないな

453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 16:22:02 ID:yy2essQx0
>>452
反応早いですね、暇なの?高圧的な人。

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 19:05:22 ID:5Q+0um9i0
>>453
ROM専だが一言。
もうやめておいたほうが良くないか?

ああそれと。
スレと本来関係ない関羽の北上に対する曹操の戦略、読ませてもらって非常に面白い。
いかに関羽の武威に対処するかで、蒼白になった曹操というのが浮き彫りになって良い。
漢王朝の名の下に朝敵認定しても、実際の武威が衰えないから(すでに劉備の漢中王僭称で
反曹の人心をいくらか掴んでもいるし)、曹操としても非常に危機感をもったに違いない。

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 19:36:39 ID:d4vfAxZQ0
>>401

彼がこの時期まで生きていたら結構微妙な立場、
劉王章みたいな感じになってないだろうか??
早い段階で消されていた気がする。

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 20:41:27 ID:q5x+Uuox0
>>455
やっと乗ってくれる人がいたので俺食いついちゃうぜ

蜀陣営の生者死者離反者全部ひっくるめても
督荊州を任せられるのは関羽以外にはいない。
というのが俺の結論。
あとは関羽の性格から来る政治的センスの無さを
どうフォローするかになる。

知謀の問題ならホウ統になるんだろうけど、
やはり関羽に軽視される可能性はある。
荊州人士を取りまとめるには、劉表の子で
赤壁直後から荊州刺史に就いている劉gという
選択がベターに思う。

あとは劉備・劉g・関羽の人間関係次第で、
関羽と仲違いする可能性はやっぱりあるんだけど、
劉備と劉gの関係は悪くなかったと思う。
共に危機を乗り越えた仲だし、諸葛亮らと交流があった。
「俺は蜀に入るので荊州の纏めは頼んだ」みたいな
会話をしててもおかしくないし、劉備には必要だったと思う。
まあ劉gが欲を持って軍権を関羽に握られてることを
不満に思ったりしたら荊州総寝返りだけどさ

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 20:45:06 ID:25uyZxT70
>ID:yy2essQx0
>>414の段階ではそんな変なことは言ってないが、
過剰反応を示す必要のない突っ込みで動揺しすぎ。厨二病のような罵倒をしすぎ。
これでは補助しようにも支えようがない。
敵を攻撃するのは別にいいが、味方からも見限られるような言動はやめた方がいい。不毛

あと、夏侯惇単体が微妙でも先鋒に張遼がいれば同じことだろう。
劉備との戦いも完全な敗北という訳ではなく、
李典のような補佐があれば一流どころとそれなりに渡合える。
それでいて兵站と兵力で優越していれば勝利は確実だろう。
関羽軍団の攻勢限界は于禁を撃破したころには余裕はあったが、
徐晃の反撃体制が整う頃には勝ち戦の勢い自体が尽きている。
これでは徐晃、張遼が途中で病死したとしても、夏侯惇に手柄を献上したことだろう。
名将同士の戦いは戦術指揮よりも謀略で決まる。
戦略の段階で関羽は詰んでる。
それを何故劉備ら蜀漢首脳部は修正しなかったのだろうか?と思う。
関羽は外交感覚の欠如した愚将ではあるが、勢力均衡を崩すのに必要な強将であったのは確かだ。

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:00:27 ID:yy2essQx0
>>457

>>428>>430の発言が無ければ、ここまで暴走しませんでした。

>あと、夏侯惇単体が微妙でも先鋒に張遼がいれば同じことだろう。
来てないから、関羽とは戦えないでしょう?
劉封軍の助けが来たと言っているのと、同じレベルのIFではないですか?

459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:07:21 ID:25uyZxT70
>>458
自分の失敗を他人の責任にするのは最悪の敗北だ。
それを認識した方が今後の論客人生において有益。
勝ちを分けに、分けを負けにするような話し方は改めてから来い。
進む勇気以上に退く勇気が、今の貴方や当時の関羽には必要。

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:22:24 ID:yy2essQx0
>>459
>自分の失敗を他人の責任にするのは最悪の敗北だ
世の中そんなに甘くないだろう。
足を引っ張る他人は常に居る。
それを自己で分析し結果を出したのだから、
其処まで言われる筋合いは無い。

っと、関羽や私はそう見えるのだな?
以後気を付ける事を約束しておこう。

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:25:35 ID:q5x+Uuox0
>>457
一つには、そのとき既に劉備には曹孫劉三陣営全体の
国家戦略をデザインできる人材が残っていなかったこと。
孫権に後ろからがっつりいかれる可能性を少なく見ていたんだろう。
関羽が揉め事を起こしていることも伝わっていなかっただろうし。

曹操の中軍や対呉軍が迎撃に出たとしても、
関羽は襄陽近辺から撃退されるだけで、江陵まで戻れば問題ない(はずだった)。
曹操がそれ以上深入りすれば、蜀と呉から一気に侵攻する絶好の機会になる。
孫権は曹操(後漢)に藩国の礼を取って数年経つけど
蜀に対しては「ポーズっすよポーズ、サーセンwww」
みたいな言い訳してただろうし、もし襄陽近辺を取れてさえいれば
再び呉が寝返る可能性は十分あったと思う。
逆に言うと曹操は樊城が落ちてからでは全てが遅いので、
対呉戦力を引っこ抜いてでも護る必要があった。

462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:28:44 ID:zzCl13iq0
>>411
>丹水って書いてることからして長安からとのことだろうけど、当時にあの山岳地帯を軍で抜けるのは無理じゃない?

普通にエンのほうからじゃないのかな?
だから丹水とした。当時の街道まではわからんのでな。
川沿いにしといた。ここなら水運が使える。
長安ってことはよいよ上流からだなあ。さすがにそこからはな。
そこからエンをつたってくらいは考えられるが。

>私は無いと信じるに足る状況を「推定」したけど(無いものは証明できないからね)

いやそれで信じられるのはあなたくらいではないかと。
関羽が全部もっていったってのもあやしいし、
赤壁で全滅したってのもありえないし、
その後再建していないというのはありえないよ。
そして襄陽の救援をするなら、確実に水軍が必要なんだから、ないわけないだろ。
もしなかったとしたら、どうやってわたるよ、小船だけでわたる?
それこそ、関羽や呉に狙われるだろうが。遮断されたら食料の輸送もできなくなるし。

>江陵=荊南ではないでしょう。

南部四郡のことですよ、赤壁後も曹家の支配地域でしたから、
その後劉備に掠め取られましたが。

>上庸?水路とはほとんど関係ないと思いますが・・・?

いや普通に水運が利用できる。
蜀も思案のひとつとして考えていた。

>いや、関羽部隊5000を破った後に、追撃して勝ったと記述されてるんですが・・・

だから、その5000を追撃しただけでしょ。
陣地が全て突破されたわけでもないし
そこで関羽軍が崩壊したわけでもない。

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 22:00:33 ID:5Q+0um9i0
荊州南郡とは江陵のことですよ。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 22:51:14 ID:VxaBvXCT0
>>462
丹水は宛と全然関係なくね?
宛から樊襄のやや下流に合流する川は育水だよ。
ちなみにこの川を軍の移動に利用したって聞いたことないな。

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 01:04:24 ID:3SjvJhrc0
横スレするけど、関羽軍が徐晃に受けた損害の話ですが、
徐晃が関羽の包囲網を破った後も関羽は襄陽を包囲し続けていたので、
徐晃が関羽全軍に致命的な損害を与えたという事はないでしょうし、
関羽が引き入れる兵数を考慮すれば、例え5千+包囲網の一角が破られたというだけの
話であっても、その内の多数が討ち取られたとかという程の規模でさえもないと思う。
仮に関羽軍が2万5千とするならばその一割である2500人が死傷するだけで大敗という事になり
軍の維持が困難になるであろうし、特にその対象が関羽直下の兵であろう五千人が、
事にならば益々そうなる。

あと関羽が荊州から船を全部持っていったというのは普通に有り得ない。
そもそも劉備自体が劉表の客将に過ぎない身分なのに、その配下の関羽が
どうして荊州水軍に指示を出して艦隊を操る事が出来るのかと。
さらに言えば劉備軍は劉g+劉備+関羽で1万程度という兵力しかいなという点、
仮に関羽が艦隊を持ち出したというならば、普通はもっと兵力がいるでしょう。

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 01:49:21 ID:6vHts8HV0
>>465
うーん、ソースが石碑なんだけども襄陽の呂常が討って出て勝ったという話がある。
仮にこれがマユツバだとしても趙儼伝を読む限り、包囲を続けた可能性は低いと思う。

あと劉備軍は劉gの兵を合わせて2万以上居たと見るのが普通。
樊城に居たときに襄陽を武力奪取が可能だったくらいの兵は持ってたんだよ。
高々数千だったら襄陽を奪いましょうと進言する諸葛亮が道化になっちゃう。

あとこれはオマケだけど・・・
脱出の際関羽は確かに水軍で徐晃・満寵と交戦したと記述がある。
んで劉備を収容して夏口に行ったと。
関羽が襄陽の水軍をかっぱらった可能性は非常に高い。

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 03:09:13 ID:3SjvJhrc0
>>466
むしろ逆だと思うけど、
趙儼伝では「孫権が関羽の輜重を攻撃したために関羽は退いた」と書かれており、
それまで関羽軍はベン水を占拠し、襄陽包囲を取り続けていた。
あと包囲を続けるかどうかは状況の推移からして可能性は低くなるとは思うけど、
少なくとも徐晃との会戦だけでは関羽は軍を退かざるを得ない様な損害は受けてないって事になる。

そもそも樊城の時点では劉備は劉gと合流してさえいない。
そして劉g軍が一万だから、劉備単独である樊城の時点では1万前後程度でしょう、
それ以上の兵数は劉備の客将という身分を考えれば有り得ない、数千も普通にありうる。
また諸葛亮が襄陽を攻略する手段は具体的には語っておらず、
例えば内応工作によるものかもしれし、別に手段があったかもしれない
何故武力奪取であると断言できるのか?
むしろ曹操が背後に迫ってきてる段階では仮に2万以上居たところで襄陽を力攻めなんて自殺行為、
それを考えると単なる武力奪取とは考えにくいんだけど。

>脱出の際関羽は確かに水軍で徐晃・満寵と交戦したと記述がある。
これがなんで=関羽が襄陽の水軍をかっぱらった可能性は非常に高い。
になるのか理解できない、劉備だって自前で水軍くらい用意してただろう。
また劉備が収容されたのは追撃を受けて供回りだけを連れて逃げ回った時期だし、
つーか君の中段・下段はいくらなんでも論理の飛躍が激しすぎるよ。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 06:15:12 ID:3L44E3Nc0
んんん?
関羽の軍は関羽の物にならないのかな?
あの時点だと、独立性が高すぎる気がするんだが・・・
てか、g君は209年死亡ですよね?
関羽はg君の部下を10年近くも有るのに、GET出来なかったって事ですかい?

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 15:05:47 ID:2Kpx0nbV0
なんという良スレ、、、皆様の見識にただただ感服

勉強させていただきます

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 22:00:18 ID:tP9gonGW0
すれたいのテーマを今頃考える。
関羽以外かあ。

ベストのチョイスをするなら、黄権に法正つけるのがベストなんだが。
もう法正は寿命がなあ。どちらも土地から離れるから、
兵士との関係が微妙になるかも、
刑州生え抜きの人間がいい。少なくとも、益州の名門あたりはさけといたほうがいいから、
李厳あたりか。馬忠、カクしゅんもつけとこう。

もしくは張飛に北上してもらって。
関羽が呉ににらみを聞かす、というのはどうだろうか。
ま。逆でもいいけど。
魏延は関中から動かせないし、というか、その場合ほかの奴を関中におかんとな。
諸葛亮も蜀の骨組みをつくらにゃならんから、益州から動けない。
ホウトウが生きていればなあ。

馬超は北上するなら、清涼の方と渡りつけるのに便利だから、はずせないし。
黄忠はいまいち実績が不明なんだよな。
劉備には買われていたようだから、有能なんだろうが。


471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 23:14:40 ID:RzuxDLSs0
蜀書読むと、馬良と楊儀は、劉備の入蜀には従わずに荊州に
残ったんだね。なのに馬良は劉備が召して蜀で侍中にしちゃう
し、楊儀は関羽が劉備に推薦して蜀に送っちゃってる

せっかく外交と内政にそれぞれ使えそうだったのに。関羽が彼
らを煙たかったのか、2人が関羽を敬遠して蜀に人事異動され
るように仕向けたのかも、と勘ぐってしまう

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 23:52:03 ID:eiIqSR0f0
荊州に置いていたら外交に使えないじゃない。
外交権はあくまで君主にあるもので、馬良もトウ芝も成都から出発してる。
で、入蜀から漢中確保まで劉備は蜀の掌握と首府体制の構築を慌しく
仕上げなければならなかったわけで、人材は成都と巴蜀の郡県に
集中させなければならなかった。その筆頭が諸葛亮だけど。

んでもって、現在三国志蜀書によって名が知られている人物の多くは、
結局のところ荊州失陥に巻き込まれず生き残った人々であって、
当時の荊州が不当なほど人材に困っていたわけではないだろうと思う。
人材の問題といえば劉備陣営内のどこにも外交・国家戦略を構築する、
言わば心理戦の領域で董昭や呂蒙らに匹敵する人間がいなかったことが問題になる。
諸葛亮はおそらく性格的にそれが苦手な分野で、
知恵者とされる法正も存命中なのに失陥を予期していない。彼らが現場にいれば
また別だったかもしれないけどそれは上記の理由でダメ、となる。
難しいね。

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 01:21:25 ID:8Y/2ie1s0
やっぱり兵力不足に尽きるな。
3万だと一方面の攻勢も留守を考えると厳しい訳で、5万はいないとな・・・・
戦略的に寡勢で(局地的には多勢だったが)攻勢を掛けるのに孟達を上庸に向かわせたのは兵力の分散にもなってまずかった。

孟達とその兵を留守番にあて、代わりに兵をどこからか抽出して上庸に向かわせることは出来なかったのだろうか?
孟達の兵力が江陵にあったのなら無血開城とまではいかなかったかもしれない。

上庸は漢中と川で繋がっているが、例が無いところからして大規模な軍の交通手段として利用できた訳ではないのだろう。
矢張り巴西から白帝を通して房陵経由じゃないと無理か・・・?

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 05:24:13 ID:RzCMLa6L0
>>472
ま、益州が落ち着くまで、関羽は北上する必要はなかったんだよな。
せめて孫権との関係を正常化してから、すべきだった。
関羽としては、巴戦で共通の敵がおり、戦闘中にまで、
そこまで露骨にはしないだろうと思っていたんだろうが、
孫権はいろんな意味で、予測が外れていたと。

乗っ取り屋のプロの劉備とはいえ、
完全に掌握するまで、時間がかかるし、その間は、
人材を送れない。とくに文官達がみな懸かりっきり切りだったしな。

やるとしたら、巴蜀あたりから、張飛に刑州の押さえとして、
兵を一万か、二万でも連れてきてもらうしかないな。
そうすりゃ呂蒙も攻め込もうなんておもわんし、
せめても、張飛なら撃退するでしょ。
あとは食料の輸送のメドさえつけばなんとかなる、もしくは捕虜を殺ってしまうか。
>>473
蜀が進行ルートのひとつとして想定していたから、
大軍の移動手段としても可能と思われ(退却の困難さから没ったけど)

475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 13:44:40 ID:G9M1wy8g0
>(退却の困難さから没ったけど)
戦術立案者の蒋エンも計画中に死んじゃうしな

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 19:46:35 ID:9kVRL+mg0
>>472
>外交権はあくまで君主
そうだったね。ただ、演義と正史ごっちゃにしてると思うけど、関羽の娘と
孫権の息子との縁談の時とか、呉領の備蓄兵糧強制徴収した後とか、
馬良が関羽の傍らにいたら、もう少しましな対応ができなかったかな、と
ちょっと思ったもんで

>荊州失陥に巻き込まれず生き残った人々
そっか。生き残ったから陳寿に記録に残してもらえたわけで、実際は関
羽の側近にも馬良クラスはいたのかもね。いないと考えるほうが不自然か

>心理戦の領域
だよねー。やっぱホウ統先生が生きてたらなあ。汚れた仕事は鳳雛なら
適任だったと思う

477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 22:35:42 ID:o/L9DdrR0
まあ、関羽を抑えきれるなら馬良でもいいんだろうけど、諸葛亮より年下で
まだ33歳くらいだったかな?
荊州残留組では呉の太常にまで出世する潘濬という大物がいるんだよね
州の事務責任者?で、当時四十越えてるから若造でもない。
でも軍部のやることは抑えられなかったんだろうなあ

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 23:25:23 ID:RzCMLa6L0
リョ立ってのもいたなあ。
諸葛亮時代には失脚したけど。

ま、孔明ちゃんは人材活用があれなので仕方ない。

479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 16:32:43 ID:/MDJyUIE0
どう考えても劉備の親族以外に関羽以上の適任者はいません
よって俺は劉徳然を推すね

480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 19:11:39 ID:OYt8DQ+50
刑州生まれで軍部からも舐められないやり手か。
諸葛亮ならなんとかなるかなあ。
けど諸葛亮が指揮しだしたのは南攻からだしねえ。

関羽自体は別に問題ない、
呂蒙伝によると、関羽は内政も上手くやっていたようだし、
水軍の心得もあった。なぜか城攻めの心得もあったしな。
なんか謎の多い男だ。

リョ立あたりは、統治は分かってない。と批判していたが、
彼は超一流クラスだし、彼も刑州で補佐させればよい。
問題なのは、ほかの劉備の武将達や、刑州の名士層との関係、
あと呉との関係
刑州で名があり、呉にも知己がいたホウ統を失ったのが痛いな。

関羽に足りない面を補佐させる人材を工面するのがベストではなかろうか。
実際関羽以外の人間に刑州を任せても、呉も魏も侮ってむしろ攻めてくるだろう。
諸国に名が響いた名将はあとは張飛くらいだが、
彼は兵士に厳しすぎる。一州を任せるのはちょっと怖い。

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 21:02:09 ID:KrW7+1BQ0
どうも「刑州」と書かれると、邢州だと思ってしまう。荊州としてくれんかね。

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 23:31:11 ID:h5ehMPhr0
同意

483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 00:19:35 ID:rCdX9/+20
軍部に、というよりも関羽にというべきだと思う。張飛もそうだが、かなり人物に
対して好悪の感情がはっきりと表れる人だったようだし。

>>480
荊州の内政は、それこそ潘濬の手腕じゃないの?関羽の統率に関しては自己を恃み
過ぎて兵の損害が大きいという批判もあったし、単純に問題なしともいえないかと。

484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 02:07:56 ID:cxdOi3mG0
そもそも関羽の北上が関羽(及び軍部)の独断みたいな流れに違和感があるんだけど、
関羽の出兵に前後して劉備から軍事の専断権を与えられてるって事は
事後か事前かは分からんけど承諾を与えられての出兵と捉えれるし、
劉封が上庸まで進出してることや、劉備側に関羽の出兵に難色を示してる記述が無い事を
合わせて考えれば、関羽の出兵は全体の作戦と連動した出兵である可能性のほうが高いと思う。

また関羽に舐められない人材を〜って意見があるけど、関羽は誰かを蔑ろにして意見を無視したり
した事は無いし、荊州問題の真の問題は劉備と孫権の交渉の問題(ひいては劉備の態度)
なので関羽の側にそういう人材を置いても意味が無い。
あえて置くならば関羽と相性が良く、劉備に対して忠誠心が篤い人材が一番求められると思う。

>>483
政治に関して潘濬の手柄と断じるのはどうかと、あくまで事務仕事に従事してただけだし
全体の政治を司ってたのはやはり関羽ではないかと思うが。
またその関羽批判は廖立の蜀首脳部への中傷が混じってるし、鵜呑みするべきではないかと。

485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 19:31:55 ID:H/gH5rHP0
>そもそも関羽の北上が関羽(及び軍部)の独断みたいな流れに
北上自体は、成都の承認または追認を受けていたと思う。
根拠は無いけど時間経過的に。
そのうえで呂蒙にしてやられたのだろう。

で、督荊州で仮節だから、関羽が持っていたのは軍事の全権だけだろう。
荊州刺史は多分依然として劉備。その代行を任せられたのが潘濬
(だと思う。何分潘濬の正式な職名が解らないのでなんとも)。

486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 20:08:58 ID:uWjeGP+O0
>>484
つっても南部を奪い取ったのは、劉備なわけで、
孫権じゃないし、
それをよこせってのもかなり無茶な話だと思うけどなあ。
三国干渉みたいなもんだよ、これ。

あと出兵は、指示でも承認、でもなく追認ないし、黙認だと思われ。
独断専行でも功績あげれば、なかったことになるのは世の常。
関羽の独断専行だったけど、当初予想以上に上手くいったため、
不問に付したんでしょう。

なんらかの指示、または承認があれば、成都からなんらかの動きがあり、
それが残っているはずだが、それがない。
ただ撤退命令などもないから、黙認ではないかと。

487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 20:27:36 ID:H/gH5rHP0
ああ、黙認と言うべきかな。成都は確かに沈黙している(記録が無い)わけだし。

荊州領有問題。
該当箇所が見つからないので正確ことが解らないけど、
南郡(江陵)を奪い取ったのは周瑜であって、
それを劉備に貸与していた、というのは間違いない。
でも劉備は他はともかく南郡は譲れない。
それを睨んでの駆け引きだったと思った。確か。

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 20:29:58 ID:H/gH5rHP0
「南部」と「南郡」を混同はしてないからね、念のためw

489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 21:04:55 ID:kOhgUkAH0
もはや、湖南とかいったほうが意味通じそうだな。長沙とかのあたりのことは。

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 00:15:54 ID:oqej0Kky0
けど、コウカあたりは、孫権に譲ってなかったっけ?

491 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 00:30:20 ID:PB5z6IiX0
荊州の帰属権問題は、

州人の支持 ◎劉備 ×孫権
軍事力 ×劉備 ○孫権
官位(荊州牧) ◎劉備 ×孫権
仁義(貸し借り) △劉備 ◎孫権

というように、どっちの側にも一応の正当性と負い目の両方があったのがこじれた理由
あれはどっちが正しいとか言っていても仕方が無い
あと、曹操がびびって荊州方面を捨ててたからタイマンになったというのもあるな

揚州から攻める→曹操に講和を強制する→曹操の目が荊州に向く→荊州のパワーバランスが崩れる→孫権が漁夫の利を得る
と、完璧な戦略を組んで成功させた孫権たちが偉い

492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 01:26:41 ID:nJzyvB1E0
>>490
江夏は、赤壁前に曹操が取った直後から一貫して文聘が固守。
江陵で曹仁と周瑜がやりあい
呂蒙が荊州南部を刈り取ったあと劉備と睨み合って講和し
関羽が樊城を脅かし
呂蒙が再び奇襲して今度は南郡を奪い関羽を生け捕りにし
劉備が報復に来寇して夷陵で陸遜と対陣し
曹丕の死後に孫権自身が5万を率いて包囲したあいだ、
ずっと固守。
長江・漢水の北岸を守り通した。
凄いぜ。

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 01:45:59 ID:nJzyvB1E0
あ、そっか、ごめん。
南岸にも孫権は江夏太守置いてたんだよね。
その近辺のことは解らないな。
荊州から曹操軍を駆逐した主戦力は孫権でいいはずだけど。
夷陵まで手を伸ばしてるし。

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 20:05:36 ID:oqej0Kky0
>荊州から曹操軍を駆逐した主戦力は孫権でいいはずだけど。

これは疑問が残る。
初期において主力と対峙していたのは間違いないが、
駆逐したってのは正しくなかろう。実際ほとんど駆逐されてないんだから。
曹操軍は以前健在。防衛線を下げたとするべきだろう、
また南部四郡は以前として、曹操軍の支配下。

ま、ここで消耗戦していたから、劉備が姑息に南部の四郡を占領してしまったわけなんだけど。
そっちには人脈もあったし、曹操が去った後は、荊州人士がこぞって劉備に帰属したとあるから、
それまで敵対関係にあった、孫権が簡単に占領できたか疑問。

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 20:20:25 ID:YxpaHIoL0
>>494
姑息なんじゃなくて、赤壁勝利後の荊州攻めの段階では劉備と孫権で役割分担したんじゃないかな
孫権(周瑜)の方が数に勝るんだから、江陵を攻めるのが周瑜、その他を攻めるのが劉備ってだけじゃないのかと

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 20:22:46 ID:DlGG6wnL0
蜀アンチ自重。暴れすぎだろ。

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 00:15:03 ID:bUkB7xpj0
>>494
南郡を守るつもりだったが守れなかった。
敵に防衛線を下げることを強いることを駆逐(追い払う)と言うんだと思うがw

で、読み直したら、武帝紀によると、劉備の江南平定は208年の出来事に含まれている。
信じるならば、
・曹仁、周瑜・劉備と江陵で対陣。
・劉備、劉gを荊州刺史とする。兵を派遣し長沙・零陵・武陵・桂陽を平定。
・曹仁江陵放棄、周瑜が南郡太守に
・劉g死去。劉備が群臣に推されて荊州牧。孫権を推挙して車騎将軍に。
・孫権、段々と劉備に警戒を抱く
・劉備、呉へ赴く。孫夫人を娶り、荊州の貸与(長沙・零陵・桂陽)をまとめる。

…と、言うことは、趙雲らの江南平定は孫劉同盟の中で決定された分担であって、
その上で本来の帰属ラインが引かれ、さらに貸与が行われたことになる。
南郡が本来どちらに帰属するのか明記された箇所はちょっと見つからなかった
(程普伝のニュアンスからすると呉か?)

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 06:09:43 ID:aZllTPqM0
江陵からの駆逐
荊州からの駆逐

この意味の違いは分かるよなw

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 07:11:31 ID:2KWhLzUA0
後代の州県制においては、荊州は江陵のことを指すのだが、この頃はどうなってんです?

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 09:00:13 ID:AcXWN+Fp0
後漢では宛のあたりが荊州の州治。
劉表の割拠によってジョウハンの辺りが州治になった。
江陵に移ったのは大分後だろう。
南北朝ではジョウハンは別の呼ばれ方で異民族の占領で失陥した州の名で呼ばれてたと思う。
そういうのを僑州と言う。多分ヨウ州あたりだったと思う。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 09:11:07 ID:AcXWN+Fp0
>>498
南北の国力差戦力差を考えれば魏が一度占領した州の南半を丸々失うのは相当深刻な事態だと思うが。
曹操軍が健在なら防衛線を下げる必要もないし、曹仁や文聘の活躍も不要のはず。
だから↓の部分は全部違うように思う。

>初期において主力と対峙していたのは間違いないが、
>駆逐したってのは正しくなかろう。実際ほとんど駆逐されてないんだから。
>曹操軍は以前健在。防衛線を下げたとするべきだろう、

実際は主力と言えるほどの兵力は本来後詰にすぎない曹仁の手元にはなかったはず。
まともに行けばあっさり駆逐されてる所を思いのほか善戦して周瑜を負傷させたが
それも孫権のミスで予備兵力を合肥と徐州に使って遊軍を作ったことによる面が大きい。
勢力の大小は明らかなのに、弱小の敵に過失がありながら結局引き下がることを「駆逐された」と呼んでも問題はない。

当時の陸戦最強の指揮官である曹操が何の手も打てなかったのは、
結局、赤壁で相当な兵力を喪失していたから、と考えるのが自然。
幕僚の大半が死ぬような致命的な敗戦の前に思い切り良く逃亡したが、
赤壁で大打撃を受けたのは明らか。蜀への玄関口を孫権、劉備らに譲ったことは後年さらなる脅威を招いた。
劉備の追撃時の計略の遅さを笑うエピソードにしても、
曹操の豪気な態度で事態が大したことがないように歪曲化されるが、実は相当ヤバイ。
このようなケースは呂布がエン州の大半を風のように攫った時もあったな。
「俺が奴の立場なら〜して〜して俺を殺してる。それをしない奴は俺に劣る間抜けだ。大したことねーぜw」みたいな。
勿論負け惜しみというやつだ。

502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 09:32:59 ID:O2NsPE040
おみゃらースレタイ無視は、もうやめろw
上の方のがまだマシだぞ?

つうか、荊州問題で、新しいスレ立てろやw

このスレタイでif語ると叩かれるって、馬鹿らしいよなぁw

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 10:47:03 ID:bUkB7xpj0
と言われても、劉備の手持ちで生死を問わずとも、
主将は関羽一択だもんなあ。
「関羽以外を選んでもっと悪いことになりました」みたいな
IF話はしたくないぞw
話題逸れるごとにスレ立ててもうざがられるだけだし。
でも後漢末・三国時代荊州争奪総合スレなら結構需要あるか?
時代を限定しないほうがいいかもしれない。

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 11:16:42 ID:AcXWN+Fp0
入蜀が関羽&孔明だったらどうよ。

505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 11:23:17 ID:gnT/PzKCO
>>504
大義名分がなくなる

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 13:58:00 ID:kuf/kOe60
>>503
>「関羽以外を選んでもっと悪いことになりました」みたいな
IF話はしたくないぞw

結論はそれしかないとおもうなあ

507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 14:07:29 ID:AcXWN+Fp0
ぼくのかんがえた荊州董督スレ

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 17:20:08 ID:2KWhLzUA0
>>500
ありがと。
こうなってくると、スレタイどおりの展開より、今の話の流れのほうが断然興味深い。
兵家必争の地を熱く語ってもらっても構わないひとりです。

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 19:25:16 ID:O2NsPE040
スレタイから離れれば、嫌な思いをする人間だって居るんだぜ?

だから、後漢末・三国時代荊州争奪総合スレでも立てろ。

大義名分は我(スレタイ)に有りってねw

510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 20:07:03 ID:qSSO+nxh0
まともな考察で盛り上がってれば多少逸脱してても
見てて面白いけどね

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 21:08:23 ID:Z8NMlH7D0
>>509
東晋の西府軍団まで入れてくれ

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 22:46:27 ID:l0eOrD5Z0
立てるなら、中国全史(この板で扱う範囲で)の荊州争奪スレがいいんじゃないかな
人口的に三国に話が集中するのは目に見えているけど、面白い逸話や
互いの時代で参考になる話はいろいろあるはずだ

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 22:46:58 ID:l0eOrD5Z0
あ、当然、楚も込みで

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 01:00:48 ID:inh/JiFi0
荊州の地政学的重要性については、ちくま三国志(文庫じゃなくて世界文学全集)の
巻末のコラムで佐伯富センセイが論じている
短い文章の中に漢から明清までの文献を博引旁証して読み応えがあった

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 04:11:18 ID:pmlOuA2I0
age

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 22:44:19 ID:M31CGmRr0
http://www.girlscity.jp/home/lkyy/upload/0673.jpg

517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/11(火) 18:29:10 ID:XHqN6HWI0
 

518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 13:42:32 ID:F8KPwaDDO
参謀がくそ

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 16:59:28 ID:3Yl3TXDy0
蜀     荊州
劉備   関羽
張飛   趙雲
馬超   黄忠
魏延   カクシュン   
呉懿   呉班
馬岱   費観
孔明   孫乾
李厳   伊籍
黄権   王平
馬良   関平
麋竺   リョウ化
簡雍   蒋エン

・趙雲を割くのは痛いが、長年関羽ともうまくやっていたんだ
ろうから、公安に駐屯してもらって呉に固く備えてもらう。
・他に、延命したとして、黄忠に故郷に錦を飾ってもらいつつ、
ご老体だから、武将の育成でも担当してもらう。
・同様にカクシュン・伊籍らジモティに守備や民政を統括させ、手堅
そうな呉班・費観・蒋エンなんかに補佐させる
・その一方で、関羽の気質をよく知る孫乾に関羽を直接補佐
させる。

こんな感じで蜀に3、荊州に1くらいの割合で、武将を荊州に
も回してあげたかった。


520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 17:27:32 ID:Muj5FmjdO
だからゲーム的発想はやめろと

521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 17:45:58 ID:Qn9SN9s10
趙雲は孔明にとって大のお気に入りだから絶対に手放さないよ

522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 19:15:49 ID:oi8LwcgBO
そんな記述見た事無い

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 21:52:38 ID:MspVHVyW0
孔明のお気には魏延さんですよ!

まあともかく。
主君と方面司令の戦力比3:1ってありえないんじゃないかなー

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 22:05:38 ID:8lW0TAZR0
>>519
わろた

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 00:15:00 ID:migpVfbW0
>>519
これは酷いwwwwwwwwwwwwwwwww
歴史ゲーム板に帰れ

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 21:01:41 ID:LBYNdMnnO
シャキィィィィイイン☆
三.∧_∧  ______
三( `・ω・) /巡回中/
三(_⊃┳O / ̄ ̄ ̄
三◎ゞ=◎

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 01:42:30 ID:y1MWpuyj0
放置気味なんで新しい議題を提案したい。

「もし関羽が徐晃から漢水北岸から撃退されたあとに、呉の侵攻が無かったらどうなっていたか」


・呂常の襄陽は関羽軍により包囲され続けているが、関羽軍再編成中により徐晃軍到着前の樊城ほど危機的な状況ではない
・関羽軍は徐晃との一戦で打撃を受けたが、物理的な軍機能はほぼ健在である
・関羽軍は漢水の制水権を依然握っている
・士仁と麋芳は江陵公安に居るままで、危機が無い状態でもないので自ら進んで呉に降伏しない

・呉は荊州侵攻の意図はあったが、呂蒙が史実より早く死去したために、計画→準備→実行の準備段階で頓挫した
・陸遜も対蜀侵攻派だが、当面の間は引継ぎ手続きで身動きがとれない(周瑜死後の呉のような形になる)


・曹操本軍は摩陂に駐屯したまま
・徐晃軍は樊城に入り、曹仁軍と合流した
・夏侯惇軍は寿春〜?〜許〜宛×〜摩陂という「既に関羽は撤退したよついでに魏王に会おうルート」を取らずに
 寿春〜汝南(江夏北部)〜新野〜樊城という「本来の最速ルート」を取った
・そのほか済南方面(←正確じゃないかも)から召集された軍も史実通り集結中であり、史実通り夏侯惇軍より先に到着する
・曹操の寿命は史実通り220年正月までであり、関羽撤退or死亡確定まで洛陽に戻れない
・曹仁徐晃軍は関羽が撤退しないために、趙儼が「追撃を引きとどめた」という史実通りの展開ではない


さあ、どうなる・・・?

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:01:16 ID:WQBOin640
>>527
呉の侵攻は徐晃戦前なので「関羽が撃退された後に呉の侵攻がなかったら」なんて仮定は変だろ

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:21:47 ID:y1MWpuyj0
>>528

俺も思ったけど、呉の侵攻という事は関羽が漢水北岸にいる間は影響してない。
せいぜい怪しげな「呉が江陵に侵攻したぞ!」という矢を打ち込めないだけ。
徐晃は呉が侵攻したから撃退できたという話は無いし、関羽も呉が侵攻したから北岸から撤退したという話もない
趙儼伝に明確に徐晃戦の後に関羽は撤退したとあるから、仮定に影響は無いと思う

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:25:07 ID:y1MWpuyj0
ああ、書いた後に気が付いた。

「もし関羽が徐晃から漢水北岸から撃退されたあとに、呉の侵攻が無かったらどうなっていたか」

という命題について語っているのね。

「呉の侵攻が無かったとしたら徐晃戦の後の関羽勢力と魏呉それぞれのIFはどうなっていたか」
と言いたかったんだから、突っ込まんでくれ。

531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:26:32 ID:ZLd7WZzQ0
孔明「法正がいればなぁぁ・・・」

532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:26:42 ID:abF/TqQZ0
>>527
曹操の中軍・夏侯惇の対呉軍が迫っている以上、早急に樊を落とせなければ関羽は退くしかない。
この時期に戦略的に蜀優位が生まれるとしたら、関羽が襄樊に立て篭もり、
曹夏侯の主力を引き付ける状況が完成しないといけない。
魏が夏侯惇まで動員しているのは、徐晃の救援が間に合わない可能性を考えたからだろう。
荊州長江流域から中原へ攻め上がる場合、漢水沿いに左右に山地が迫る江陵-襄樊ルートか、
江夏を抜いて山地の東を回り襄樊の裏に出るルートの二本しかなく、
逆に襄樊を抜ければ南陽郡の台地を経て中原の平野部に一気に雪崩れ込める。
襄樊は対荊州の最後の要衝であって、関羽単独に許都侵攻の力はないにしてもここを落とされる
心理的ダメージは大きい。これを抑えるために曹操は全力を傾注する必要があった。
関羽が襄樊に長期立て篭もることが出来れば、蜀本国からの増援、漢中から出て雍涼切り離し、
呉による合肥侵攻の三本が同時に展開する素地が生まれる。

というわけで、呉の侵攻がなれけば、荊州軍は多少消耗しただろうけど、元のまま。
曹操も逆侵攻するほどの用意はないだろう。
劉備は荊益の二郡を保ったまま次の機会を待つことになったと思う。


533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:48:35 ID:y1MWpuyj0
>>532

早速ノッてくれてサンクス。

まず襄樊に長期立て篭もるということだけど、樊城は本来の曹仁軍に加えて徐晃軍も入ってるので陥落させるのは限りなく難しい。
襄陽の包囲だけど、関羽は樊城を先に落とせば襄陽は自然と孤立して落ちると考えただろうから、殆ど手を付けてないっぽい。
つまり無傷の襄陽を一から攻撃して落とすのは難しいんじゃなかろうかと考える。

となると、関羽の取れる手段は曹仁徐晃を城から誘き寄せて野戦で撃ち破るか、
江陵に一度撤退して対呉の備えの兵&孟達の4000の兵を動員して再び挑むか、
劉備からの指令待ちで江陵に留まって
>曹操も逆侵攻するほどの用意はないだろう。
>劉備は荊益の二郡を保ったまま次の機会を待つことになったと思う。
この三択だと思う。

534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:50:32 ID:m4F0Gqs80
すぐに援軍が来れないし、すでに篭城戦でボロボロの城に長期間も立て篭もるなんて
不可能だろ。

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:03:38 ID:y1MWpuyj0
>>534
12月には夏侯惇や張遼が摩陂に到着してるから、関羽が再び樊城を攻めたとしても1ヶ月保てばいいだけだよ。
温恢伝にエン州刺史斐潜と、予州刺史呂貢の軍勢がが夏侯惇張遼より先に到着したとあるから、援軍自体はもっと早いかも。

さらに関羽の軍勢と、徐晃軍を併せた曹仁軍だと、曹仁軍のほうが規模が大きい可能性が高い。
んだから関羽が再び来たとしても、ボロボロになった城に立て篭もらずに打って出ると思うなぁ。

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:11:14 ID:abF/TqQZ0
>>534
うん、そこがネックだと俺も思う。
援軍自体は、上庸から数週間で到着すると思うけど。
だからせめて、漢中からの劉備本隊の北上がどれだけ早められるかが問題になるけれど、
最近どっかのスレで出てた「漢中は曹操が住民根こそぎ持ってったから兵站能力無いよ」説が
問題なんだよなあ

537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:16:28 ID:WQBOin640
>>529
影響しとるぞ
きっちり正史に「城が落ちて関羽軍の士気がメッチャ下がった」という趣旨のことが書いてある

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:18:30 ID:y1MWpuyj0
>>534

あああ、これは「関羽が樊城を奪って立て篭もったとして」の話なのかあああああああ
アンカーないから「関羽が再び攻めてきて徐晃と曹仁がまた樊城に立て篭もった」話かと思った('A`

>>536
【劉備】 漢中争奪戦 【曹操】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1168319445/
このスレだね

539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:21:17 ID:m4F0Gqs80
>>535
キチンと書かなかった俺が悪かったけど、関羽が城を取って立て篭もった場合だよ。
>>536
どちらにしても、川を渡らなければ兵が遅れないし逃げられないんだよな。
川を挟んでの退却戦なんて孫子じゃないが、死地での戦いで大損害がでるぞ。

540 :sage:2008/01/26(土) 21:28:25 ID:8QiwahHA0
閑羽以外が荊州守っていた場合。
荊州陥落しても、蜀呉の争いがひどくならなかっただけ。



541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 02:42:40 ID:Zoh5vu+j0
>>540
それはない

劉備にとって荊州は必要欠くべからざる土地

542 :成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2008/01/29(火) 08:17:52 ID:nrCvo12FO
>>121殿
ハハハハハハハヽ(≧▽≦)/ハラ痛い

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 18:25:40 ID:dxI3ej6wO
まぁ何というか、魯粛が死んだのが一番痛いんじゃないかな。
正直蜀は魯粛によって生かされていたと言っても過言ではないし、そもそも魯粛がいなければ蜀が成立する事すらなかったと思われ。

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 20:08:56 ID:sJ9QJV9I0
>>543
魯粛も江陵を中心とする荊州南部は奪い返す気満々
というかそもそも呉蜀の荊州を巡る争いの絵を描いたのは魯粛

545 :成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2008/01/30(水) 07:48:07 ID:UMFJpcUDO
>>384殿
ハァハァハァハァハァヽ(≧▽≦)/

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:11:15 ID:Qqjaea6cO
アドバンス

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:15:53 ID:tbrsfEh30
どの軍だろうと餃子攻撃とかあれば一撃だ

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:35:55 ID:5uN/QOp30
なるほど、それで大順軍を倒したわけですな

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:36:51 ID:nRNbTvRN0
全軍で総力を挙げて餃子を自作し荊州問題を解決

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 23:41:19 ID:8WfYvUDI0
>>544
魯粛の戦略が良く分からんのだよな。荊州南部を取る気なら、周瑜の天下二分にそのまま
乗れば良い気もするし。それとも、戦力的に無理だと判断したから、劉備の力を利用したんだ
ろうか。
 それでも交渉で荊州を取り返そうというのは、少し甘い気がするんだよなぁ。見通しが。

551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 00:05:55 ID:Wa4quOjE0
いずれ劉備を皇帝に戴き、
強力な部下軍団を再編成、
孫権殿を大将軍にいたす

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 02:03:54 ID:qRf2aHQZ0
>>550
周瑜の死亡と、劉備の不穏な動きを前にしては、一旦退く以外の手がなかったんだと思う
益州まで一気にいけそうな将軍である周瑜が死んでは、拡大路線も修正を余儀なくされる
また荊州牧が劉備のものとなった以上は、荊州は孫権軍にとってアウェー
元劉表配下が劉備になびいている中で占領を継続するのは困難
黄祖を倒した後の江夏みたいにただ撤退するんじゃなく、劉備に恩を売る形で撤退したのが魯粛の策略
荊州再占領は交渉を含めあらゆる方法を想定してただろうけど、やむをえない撤退であった以上、再占領の方法や時期を明確にしていなかったことを非難するのはお門違いだろう

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 11:37:36 ID:IwBaXdEX0
結局、赤壁以後の呉は戦略を周瑜一人に依存してたことが内外に知れ渡ったんだよね。

孫権が意図的にか、ただ軍事無能的にか、は議論がわかれるところだろうけど、
赤壁及び南郡攻略時に周瑜に兵を渡さずに、自分で合肥方面に出兵して足を引っ張っているにも関わらず周瑜はやっちゃった。

この時点で周瑜は真珠湾奇襲成功後の山本五十六のような絶対的な存在。
それどころか主君を超えてるかもしれない(本人にそのつもりがなくても)。

そして周瑜は劉備とイチャイチャするより(つまり魯粛の「呉は一角を保持して機を待つ機会主義」論より)、
もっと主導的になれると判断した。
それが劉備軟禁歓待の勧めだったり、劉備象徴権威の勧めだったり、関張は俺が使う論だったりした。

劉備軟禁は退けられたが、益州攻略は認められた・・・つまりイニシアチブは孫権も魯粛も周瑜にあると認めた。
が、ここで周瑜は死ぬ。

後任の魯粛は周瑜が死んだ以上、益州攻略どころか南郡の維持ですら厳しいという現実に直面する。
そして>>552になる。



554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 12:32:32 ID:tgKLYcGzO
南郡を泣く泣く手放さざるを得なかったが、呉は江夏は保持して荊州への侵入路を確保してたし、劉備に恩を売ることで名分や荊州人の感情などの面では得るものがあった筈
一部返還(再占領)もしたし、南郡を奪う戦略眼を持つ呂蒙も見出だした
魯粛の決断は勇気ある後退だったと思う
無理押しすれば劉備=荊州人との関係悪化は勿論、全面的な荊州争奪戦や曹操の介入だって招きかねなかっただろう

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 13:44:17 ID:ng6cDw7C0
江夏は文聘が占拠してるんだが、何時、魏に落ちたんだろ?

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 14:17:29 ID:IwBaXdEX0
いつって・・・江夏は漢水北岸の魏江夏郡と、漢水南岸/長江東岸の呉江夏郡に分かれてるから。

漢水北岸は曹操の荊州侵攻の際に帰属してる。
漢水南岸/長江東岸は地理上、赤壁で勝たないと魏に所属しようがないからそのまま侵攻を受けていない。



ちなみに、この劉gの江夏は赤壁の前年に周瑜が攻め落としてる。
んでも、どうやら黄祖を斬って物資を押収しただけで撤退したっぽいな。



話を戻すと、この漢水南岸/長江東岸の江夏はどうも赤壁後に劉備/劉gから呉に譲渡しているっぽい。
その見返りとして江南四郡の侵攻を黙認したのかもしれんね。

215年の蜀呉の荊南紛争の和議の結果、江夏郡・長沙郡・桂揚郡は呉、南郡・武陵郡・零陵郡は蜀となってるから、
この瞬間まで江夏を含めた領土問題は「あやふや」だったのかもしれない。

557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 14:55:46 ID:ng6cDw7C0
劉gの夏口城は漢水北岸にあると思うんだが?
黄祖を攻める時も川を渡ってからだし、筑摩の呉主伝の地図にもそう印がついてるんだが?

558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 15:04:05 ID:ng6cDw7C0
>>556
すまん。なんか勘違いしてた。
夏口は孫権に落ちてるわ。江夏と夏口がごっちゃになってた。

559 :550:2008/02/20(水) 22:40:16 ID:sdDMalqK0
>>552-554
 レスありがとう。

 荊州争奪戦から手を引いたからこそ、その間に交州を圧迫し、帰属させる余裕が出来たんかな。
これで形の上では、揚、交の二州を手にした孫権と、荊、益の二州を手にした劉備。もし魯粛が死な
なかったら、関羽の北上と同時に孫権も合肥を攻めていたんだろうか。

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 23:00:55 ID:qRf2aHQZ0
>>559
呂蒙が関羽倒す策を示して喜んだのが魯粛だからね
関羽が北上した時に魯粛が健在だったら、史実同様に荊州を攻めていたと思うよ
これは穿ちすぎかもしれないが、魯粛が劉備・関羽に対し協力的に見えたのは演技だったんじゃないかと思うんだよな
北上時の関羽に呉を侮る気持ちがあったとしたら、それは魯粛の低姿勢から生まれただろうから
しかしそれは全て「やむを得ず手放した南郡から劉備の軍を追い出し再占領する」ための魯粛の遠大な計略だったとしたら・・・

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 23:11:16 ID:mMFQkpse0
一つ前から疑問なんだけど、
『関羽が襄陽を取ることを孫権は喜ばない』だろう、というのは、
単に蜀の荊州支配が磐石になってしまうから、というだけなのかな?
不意を突いて攻撃するには理由が弱いような気がすると思うんだけどなー
その時臣従しているとはいえ、曹魏が潜在的な敵国なのは間違いないし、
劉蜀の狙いはただ中原に向けられているわけだから。
荊州の重要性と生産力、荊州領有の正統意識、魯粛の進言に従ったことを
この一点だけは孫権がずっと後悔していたこと、等を考え合わせても、
このタイミングで敵に回すのはどうしても愚策に思える。
実際劉備の大侵攻を招いたわけだから。
関羽が成功しようが失敗しようが、曹操と劉備の対立は鶏肋たる漢中攻防の
比ではないほど先鋭化するわけで、別にタイミングを合わせて合肥に侵攻しなくとも、
西にも北にも機会は幾らでも生まれたと思うんだ。
これが『関羽が失敗すれば荊州は曹操に取られるのでその前に』ならまだ判るんだけど。
孫権はともかく、主戦派の呂蒙はどう考えていたのかなあ。

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 01:07:22 ID:pivn5cKq0
>>561
攻撃した理由は南郡の重要性だけでもいいと思うけど他にあるとすれば
蜀の荊州支配が磐石になってしまう。
関羽が失敗すれば荊州は曹操に取られる可能性もなくはない。
魏に恩を売っておきたかった。
こんなところじゃない?

機会は幾らでも生まれたというのはどうかな?
少なくともほぼ無傷で荊南を手にする機会は二度とないと思う。

呂蒙はすぐに死んじゃったから何を考えてたかはよく分からないんだよね。
周泰伝にある蜀攻めが呂蒙の考えかもしれないが…

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 01:52:50 ID:dwmwsAoR0
>>561
すまんが
>劉蜀の狙いはただ中原に向けられているわけだから。
ってのはなにか根拠があるわけ?
関羽(劉備)の言動からして、
蜀も天下2分に含みをもたせた戦略をとっているように
思えるんだが。

564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 07:49:05 ID:hTcUfbId0
>>563
夷陵後の蜀呉講和。
荊州を失ってさえ、呉と対立を継続するのを回避した。これが本来の規定ラインだろう。
関羽は単に成都との連絡が疎になっている状況での暴走だろうね。

>>562
まあ、だいたいそうなんだけど
どうもあと一つパンチがないというか、しっくりこないんだよなあ
いや、理屈に合わない、というわけじゃないんだけけどさ。

565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 08:15:17 ID:jEeydkHD0
関羽独断説は、その時点で反逆者・国家に対する背信行為ということでありえないんだが。
劉備追認説も上と同じ理由でありえない。

節=軍事自由権という解釈は間違い。

国家の命令系統というものを知り、関羽が忠臣という定説を信じるならば、北上作戦は指令に基づいたものとしか解釈できんよ。

566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 08:41:42 ID:dwmwsAoR0
>>564
夷陵後は劉備が死んで蜀が荊州から駆逐されたあとじゃん。
TOPと情勢が変わった後の戦略をさして
その前の戦略は語れんだろ。

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 11:53:31 ID:rb2/1mxtO
劉備入ショク後に、荊州の長江北岸をさっさと返還して
南蛮平定>漢中戦の流れは、
このスレでは邪道ですか?

568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 12:18:13 ID:+Wm1ZwV8O
>>567
それは諸葛亮のプラン「益州と荊州から同時に攻め上がる」の放棄を意味する
天下を狙う以上は無理
あと呉は呉で「長江流域すべて」の領有を狙ってるから、荊州を返したら益州が狙われることになる
劉孫の対立は場所を変えるだけで継続するよ

569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 13:06:36 ID:rb2/1mxtO
>>568
なるほどね。
漢中からの北伐ルートのバリエーションが増えるからマイナス要素は少ないかと思ったのだが。
プランとしては、漢中制圧後、
張と馬が長安以西に侵攻、関が漢水下りでエン辺りを横からつつく。
荊州北部を黄か超で牽制できりゃ
中原を西と南から攻める格好になるんじゃないかと思ったのだが。
念のため劉備は永安駐留で。

570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 14:29:36 ID:ohtvZdNRO
>>569
それだと魏は防衛ラインを集中できるから蜀は逆に苦しくなる。
歴史が証明してるしな。

呉の外交が変幻きわまりない以上、
蜀としては荊州北部を堅持しつつ二路進攻策をとる以外にない。
関羽の北上はそのための橋頭堡確保を目指した国是だろう。

571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 18:01:38 ID:tldfHi3V0
>張と馬が長安以西に侵攻、関が漢水下りでエン辺りを横からつつく。

新参の馬超と張飛の組み合わせはまずい。
諸葛亮をつけるか黄忠にしろ。
張飛は劉備にくっつけておいたほうがいい。

572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 18:11:01 ID:sEO3Qvou0
張飛と馬超は史実でも普通に組んでるじゃない。
下弁で負けてるけど。
雍州の大物馬超を抑えられるのは黄忠らで不足、劉備か張飛しかいない。
もう一人の古参・関羽とは逆に名声ある士大夫を冷遇したり競争心を持ったりはしないから、
張飛は長期駐留向きではないけど侵攻作戦には向いてる。

573 :567:2008/02/21(木) 23:54:26 ID:afoy89Lf0
>568
>567案だと、蜀に後顧の憂いがなくなるし、
長江流域の全てを所有した呉に、蜀を攻め込む余裕なんか生まれるのかな
呉蜀同盟の落とし所としても、長江以北の荊州南郡だけだと思うし
そこを領有しても、守るだけが精いっぱいかと。

>570
呉の外交は魏でも手を焼くこともあるし、
変幻自在なのは、蜀に限ったことじゃないのでは?
むしろ、長江北岸は樊城には曹仁がいるし、合肥には張遼がいるしで
蜀に攻め込む隙なんぞなさそうなんだが。

魏にしても防衛ラインは、洛陽〜許昌〜汝南あたりが防衛ラインになるんだろうか。
少なくとも荊州の曹仁・徐晃あたりは孤立して敗北すると思う。


>571
諸葛亮の最大の持ち味は後方からの前線援護だし、
漢中に拠点を置くのであれば、擁・涼・荊・司隷と地理的に近いから
兵站・計略で動いてた方が良さそうな気がする。

黄忠と張飛の相性ってどうなんだろうな。
馬超と張飛は下弁での実績があるし、
馬超は涼州方面の鎮圧が主な任務になると思う。
張飛が長安攻略。まぁ一人じゃ不安だが。

>572
陽平関攻略の件があるから組ませてみました。

張飛は長安攻略で、攻略後の長安に劉備+諸葛亮+馬超が入ればいいかなぁと。
荊州北部の攻略が成功していれば、張飛+誰か
荊州長江南岸に関羽+黄忠、永安に超雲
ってな感じの配置になるんじゃないかと勝手に妄想。

長文過ぎました。ごめんなさい


574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 00:08:23 ID:/mWk+rCt0
>>567

侵攻方面を1つに絞るっていうのは逆転の発想で、考えとしては悪くない。

ただし、見過ごせないのは現代の領土問題と同じで、一度譲ったら解決するというのは甘い認識ということ。
これは、舐められるということもあるし、他勢力(領土内の異民族含む)からも同じ譲歩を将来にわたって要求される可能性ができるから。

もう一つの理由は荊南の税収が実に多大であるということと、兵3万を動員できる基盤があるということ。
金の面は苦しいのを飲むとしても、人口減少が著しい当時に兵3万を維持できる食料=税収=人口を手放すというのは金額に換算できないほどの価値がある。

最後は劉備政権は荊州士人がその中枢に多数いることから、
荊州を自ら手放すというのは政権維持において予想出来ない変動があるかもしれないということ。

つづく

575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 00:24:36 ID:/mWk+rCt0
>>567氏への続き

>呉の外交は魏でも手を焼くこともあるし、
>変幻自在なのは、蜀に限ったことじゃないのでは?

正にその通りで、魏(特に曹ヒ)は随分振り回されてる。
ただし、関羽戦役直後の襄陽侵攻を見ても、その後の呉の侵攻経路を見ても、呉は防衛面での必要兵力以上の配置を荊北方面用に置けなかったのは確か。
何故かというと、本拠地に近い合肥方面でさえ一度陸に上がると芳しくない結果があるうえに、兵站構築を考えると非常に難しいから。

仮に長江全域を呉が支配しても、襄樊より北へ侵攻の意図があるのならば強力な権限を持つ司令官を置き、
多大なヒューマンリソースを割かねばならないので、荊南に置く必要がある対蜀戦力と合わせると呉の国力を超えている。
つまりは呉は襄樊へは攻める余裕が無いということで、自然と魏の兵力は合肥と長安に集約され、より蜀の長安にしろ呉の合肥にしろ魏への侵攻が難しくなる。
関羽が居ることで魏は襄樊の防衛に力を割かざるを得なかったが、呉が荊州を持つことはどちらかというと魏にとって好ましいことなんだ。


>むしろ、長江北岸は樊城には曹仁がいるし、合肥には張遼がいるしで
>蜀に攻め込む隙なんぞなさそうなんだが。

これもその通り。しかも河を上るので基本的に戦史を見ても益州→荊州の侵攻は数多くあってもその逆は無い。
ただ、問題はというと、上にも書いたように、呉が荊州を持つと魏のリソースを長安方面と合肥方面の2つに限定できるので、魏に利しているということ。
蜀は国の成り立ち上、魏を倒すことが国是であるが、呉は受動的な機会主義だから、別に合肥方面に限定されても困らないのだから、後はお察し。


576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 00:25:50 ID:plZTp4bK0
>>573
>長江流域の全てを所有した呉に、蜀を攻め込む余裕なんか生まれるのかな
まず、「長江流域の全て」には上流の蜀も含まれてるんだよ
だから荊州だけでは孫権の天下取りは第1段階も終わらない
そして現実に南郡を落とした後の孫権(周瑜)も南郡を落とした後の孫権(呂蒙)も蜀攻めを検討している
もちろん実際には蜀に大きな隙がないと難しいわけだけど、常にチャンスを狙う危険な隣人であることには変わりない
荊州でも益州でも同じなら、劉備側にしてみれば妥協する意味が無いよ

あと諸葛亮の最大の持ち味は前線で将を自在に指揮することだと思うが、これはスレ違いか
諸葛亮は蕭何のような能力も持った韓信

577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 00:33:56 ID:/mWk+rCt0
ちなみに付け加えると、

漢中⇔長安の戦いは複数あるルートで

・魏は塞ぐだけ
・蜀は涼州に陽動などを掛けてどこか1本を抜き、他のルートの魏軍を後退させて関中で決戦して勝利

という具合で、蜀からみると非常に難しい。
これは全て兵站の困難さ、道の険しさによる。
魏は道を塞いでいれば、やがて蜀の兵糧が尽きて撤退することをしってるから攻勢に出る必要が殆どない。
仮に関羽と荊州3万を失わず、その後の劉備の大敗で失った将兵も失わなかったとしても、
その分魏は長安に兵力を集中できるので「難易度」はそれほど変化が無いと思う。

さらに蜀のハンデとして、仮に長安の奪取に成功したとしても、長安は成都からみると正に陸の孤島。
曹操の強制移住によって人口が激減した漢中からさらに先に拠点を持つということは、
益州と関羽の荊南の関係に非常に近くなると思う。

578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 01:29:22 ID:1Euud/ixO
>>577
>さらに蜀のハンデとして、仮に長安の奪取に成功したとしても、長安は成都からみると正に陸の孤島。
>曹操の強制移住によって人口が激減した漢中からさらに先に拠点を持つということは、
>益州と関羽の荊南の関係に非常に近くなると思う。

>>570ですが、慧眼恐れ入ります。
自分の危惧した点を見事に解説して下さりありがとうございます。
孔明が西の祁山に出た理由も上記引用を危惧したためかと考えています。
つまり漢中=長安を線でなく面で繋ぐ戦略であると。
荊州失陥後に残された戦略はこれしかないんですよねぇ。
つくづく関羽北進時に劉備の後詰めがあれば…と惜しまれてなりません。

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 09:38:27 ID:SylMiFuI0
>>578
あったっぽいけどな
ただ呉の奇襲があまりにも迅速で鮮やかだったからわからなくなってるけど

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 20:22:12 ID:DvctmyR70
>>579
マジすか?

581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 00:44:28 ID:eqUJMYcg0
それは勿論のこと劉封孟達じゃないですよね・・・・?
だとしたら初耳なんで詳しくお願いします!!!!

582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 02:09:18 ID:YC4uWYNO0
史実では蜀制圧後の215年呂蒙が荊南部を制圧など小競り合いがあった頃一度荊州に軍を率いてきていたはず
関羽包囲戦のころに援軍があったかどうかはしらないが決して絶対不可能というわけでもないのでは

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 17:41:06 ID:JArYUPBY0
不可能ではないのは当たり前だが、一般的には関羽の樊城攻囲時の
蜀本国の動向は不透明。だから>>578-581のレスがあるわけだ。
劉封・孟達の援軍拒否を劉備が後で知るなど、
どうも連絡が上手く行っていない感がある。
後詰の動向が判る記述があるなら俺も知りたいな。

584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 18:10:15 ID:JArYUPBY0
219年
 正月 曹仁が宛を攻略し反乱者項音を斬る。
 ?月 夏侯淵が陽平で戦死。
 三月 曹操、斜谷を抜けて陽平にて劉備と交戦。
 五月 曹操、長安へ帰還。
   夏 劉封、孟達、李厳らが上庸へ派遣。
 七月 于禁を樊城への救援へ派遣する。
 八月 于禁の軍が洪水のため水没。徐晃が増援で派遣される。
   秋 劉備が漢中王となる。
 十月 曹操の軍が(西から)洛陽へ帰還。
     孫権が関羽征伐の意思を上表。
     曹操の軍は南下する(が、到着前に徐晃が関羽を破る)。
閏十月 呂蒙が公安を奇襲、陥落させる。
十二月 関羽が章郷で捕らえられ、のちに斬首される。
220年
 正月 曹操、洛陽へ到着。同月、死去。曹丕が後を襲う。

漢中と襄樊攻撃の連携は悪くなくて、実際曹操は危うく間に合わないところだった。
(それでも、于禁の水没が無ければ十分渡り合えただろうし、
徐晃のクリティカルが光るが)

むしろ、曹操が漢中-長安-洛陽を必死こいて移動している間に
劉備が漢中王になって細々儀礼をやってたことが解せないんだよなあ。

585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 19:23:31 ID:JArYUPBY0
思い直した。
やっぱり劉封と孟達だわ。
タイミングと地理関係から見ても、上庸攻略は荊州との連絡開通のためのものだ。
漢中と襄陽は漢水で直結しているわけだから、劉備の本軍が漢中にいる以上、
上庸を通す以外に無い。襄陽と漢中が保持できれば北進に当たって
益荊の連携はがらりと変わる。
援軍拒否を劉備が後で知ったというのは勘違い(明記されてなかった)が、
劉封らが関羽の要請を断ったので漢中への報告を怠った、というのは有り得るかも
しれないな。ちょっと二人に酷な推量だが。

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 02:13:25 ID:IDNf6F+gO
要するに後詰めの事実はなかったね。
詰めるためのルート開拓はあったみたいだが
実際に有力部隊が展開したとは言えなさそうだ。

587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 03:50:38 ID:xbv+XBpf0
本格的な侵攻じゃなくて、樊−上庸を確保して来る北伐の橋頭堡とする計画か

588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 04:41:29 ID:unjpetFY0
漢中を張飛にまかせて、荊州は関羽と魏延は?
魏延なら、呉が攻めてきても、粘ると思う。

589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 07:43:47 ID:oXuOGCuYO
多少情状酌量の余地があるとはいえ、
死ぬまで脇が甘かった張飛が大守任される事はないと思う
(いくら徐州時代から成長したと言っても)
それにギ延を後方でお留守番させる程、人材が余ってるわけでもないしなぁ

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 10:05:04 ID:N72FMJ1h0
>魏延なら、呉が攻めてきても、粘ると思う。
何を根拠に?

591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 11:36:18 ID:8vrXC9SS0
というか、降伏が現実のものになるまでは
荊州の後詰に麋芳ってのは超鉄板人事なんだけどな。
劉備の姻戚で徐州からの古参。継続的には趙雲より長い。
それを差し置いて他の誰かってのはちょっと考えられないな。

592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 20:34:39 ID:12Q2EYNH0
>魏延なら、呉が攻めてきても、粘ると思う。

所詮土着豪族の出身。呉に降伏しても地位は安泰。

593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 20:39:32 ID:12Q2EYNH0
>>584
のっとりで国を得た悲しさだな。
漢中戦の前、曹操来襲を聞いた蜀の土民は浮き足立って自壊しそうになっている。
劉備は勝利の興奮が冷めぬ内に大々的に儀式をやる必要があった。

594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 20:51:59 ID:swOgciuB0
>>593
なるほど。劉備にとっては軍事のみならず政治的にも
「待望の漢中奪取」だったわけか。

595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 20:59:03 ID:12Q2EYNH0
結局正当性の問題だろ。
曹操も孫権も、自らの正当性を認めさせるのに四苦八苦しているわけで。

596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 22:11:28 ID:7UPfnJpn0
>>583
昔どっかのスレでニセクロが後詰というか荊州辺りの組織を組み直してバックアップ体制をしてたんじゃないかという考察してたのはチラ見したんだが
具体的な内容はド忘れしちまったな

597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 22:17:33 ID:7UPfnJpn0
専ブラに感謝だな
ログ漁りしてたら出てきた

965 名前: 945 2006/03/18(土) 21:40:16

停滞するスレに再び殺伐とした埋立主が!!(\│゚∀゚┃/ペカー!(AAry

>>964
自分は南郷太守の郭睦は劉備が任命した太守だと解釈しています。
南郷太守の郭睦は房陵太守のトウ輔と共に陸遜の派遣した謝旌に破られてますが
それは 呉書陸遜伝で陸遜が江陵を押さえ宣都入りした後のこととされています
南郷郡、房陵郡の地理関係から見て、郭睦やトウ輔は関羽が送り込んだのではなく
劉備の任命によって成都(または益州・荊州間のどこか)から派遣されて任地に
赴く途中で陸遜らの攻撃を受けてとっつかまったと推察されます。
傍証として、蜀書劉封伝中に注としてあげられている孟達が劉備の下を辞去して
魏に寝返ったときの手紙をあげておきます
「(略)ここに臣は事の原因を求め、自ら房陵・上庸をお返しし云々」とあり、
孟達の中で、劉備の下を辞去する時点で房陵と上庸が孟達の治下にあったことが
窺われます。
既に関羽が敗れる時に房陵太守としてトウ輔の名が陸遜伝に載せられているので
もっとも整合的な説明は、トウ輔は孟達と交替で房陵太守になる予定であった。
しかし、任地に到着する前に陸遜らの攻撃を受けた。と推察されます。

598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 23:42:57 ID:0Dr+fCxM0
というか、言うまでもなく関羽に太守の任命権なぞないでしょw
「何処から来たか?」といえば、多分益州からだろうね。劉封もそうだし。

これは孟達の北上作戦が劉備の指令であるということの証拠。
とどのつまりは関羽の北上作戦が劉備の指令であるということ。

孟達の北上は関羽に隠れて目立たないけど、兵4000で全ての郡を撃破占領した快挙。
4000+降伏した軍で援軍行けっていうほうが無理。

劉備も益州攻めのときは
自前の兵じゃないのは張魯攻めを引き伸ばしに引き伸ばして懐柔する時間つくったり、
降伏してきた兵は家族人質取ったり、その辺の事情知ってるくせにな〜w

599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 00:54:20 ID:k6AVlr4c0
つまり概観すると、漢中を取って樊を攻囲したところで劉備は攻勢限界線に達していたって事か。
ぎりぎり一杯の横腹を奇襲されてはどうしようもないよな。

600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 02:27:55 ID:Dz2CjaY+0
>孟達の北上は関羽に隠れて目立たないけど、兵4000で全ての郡を撃破占領した快挙。

それだけ有能なら劉封なんかを送り込む必要ないだろ。
劉封は何しにいったんだ?

601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 03:24:56 ID:k6AVlr4c0
孟達は比較新参。
劉封は養子。
つまり重石役だね。
孟達一人に全権を任せるほど小さな仕事ではなかったということだろう。

602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 03:32:06 ID:Dz2CjaY+0
>むしろ、曹操が漢中-長安-洛陽を必死こいて移動している間に
>劉備が漢中王になって細々儀礼をやってたことが解せないんだよなあ。

曹操だって似たようなことをやってる。
五斗米道の張魯を下しあと一歩で蜀が取れるという段階でも、
あえて引き返して王権の確立、新王朝樹立の準備に勤しむ。
孫策孫権なんかはずーっとそれをやりつづけてチャンスを逃しまくっている。

603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 03:33:43 ID:Dz2CjaY+0
>>601
ぶっちゃけ孟達だけじゃ不安だと?


604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 03:42:20 ID:k6AVlr4c0
劉封伝にも孟達一人に任せるのは不安だったと書いてあるけど、
孟達じゃなくてもよくあること。
その上庸を魏が攻撃した時の面子は、
征南将軍夏侯尚の下に右将軍徐晃・新城太守孟達。
有能な武官がいれば全権委任して問題無い、という時代じゃないからね。

605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 11:01:21 ID:PIfU8Mtk0
上庸の呂兄弟の扱い方を見ても解るとおり、あの辺は土地の隔離性から土着豪族の力が凄いんでしょ。
太守が居ても豪族を手なずけないと面ではなく、点の支配になってしまうように。

孟達(もしくは軍権を持っている将軍)が豪族とくっついて半独立状態になり、
魏と蜀の間で振り子のようにどっち付かずになることを劉備は恐れた。
だから劉封を派遣したが、これがヤブヘビでかえって刺激してしまったということかな。

いずれにしろ孟達からしたら部将としたら最大級の功を挙げてるのに、二世のボンボンが上から降ってきて、
間接的に「おまえには全権は与えられん」と言われてるも同然なのに、
軍楽隊を没収されたり無茶苦茶な援軍要請を受けて蹴ったら敵視されたりで不幸すぎる。


606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:23:44 ID:eIq9OQDx0
関羽を支援しようとしていたなら何で劉備は成都に戻ったんだろ?
漢水下りでいけばすぐなのに…
郭睦、トウ輔の派遣もタイミングが遅い(劉備が成都に戻った後?)ように見えるし
兵力も呉の3000にあっさり破れるくらいだからそんなに大したことはなさそう。

漢中軍の疲弊はあるんだろうけどそれならもっと早い時期に成都から援軍を出せなかったものか。
侯音反乱、上庸攻略、関羽北上、荊州再編の動きが全て一歩違いくらいで噛み合ってないように感じる。

607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:44:14 ID:CtCdWv6S0
>>606
侯音の一歩があと1年遅ければというのはある
上庸攻略と北上のタイミングはバッチリ
荊州再編も問題なかったが、何より呉が早過ぎた
あのタイミングでの同盟打ち切りが素晴らし過ぎる

608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:48:03 ID:k6AVlr4c0
成都から出せるとは思えないな。
有力な将は諸葛亮くらいだろうし、この時兵站担当だから動けない。
兵力も漢中に注ぎ込んでるだろう。
つまりその辺が兵力的限界だったわけだろう。

ケ輔の派遣のタイミングが遅いのかは判らん。>>597の想像よりも、
単に陸遜は、関羽の駆逐後に荊州西部全域を制圧していたと見るべきじゃないのかな。
つまりこの郭睦やケ輔の駆逐は、時期的に孟達の寝返りの後、
長期に渡る荊州制圧作戦の過程のものとなる。
後に呉は、一時襄陽も落としているわけだから。

劉備が成都に帰ったのはなぜか、確かにわからない。
本当に関羽の敗北の後かも判らないけど。

609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:54:17 ID:PIfU8Mtk0
南鄭に軍を移動させる艦船があったのか、かなり微妙。
劉封も軍規模の兵を率いずに上庸にはいったようだし。

張魯の国の性格からして無かったとおもうね。
仮に艦船があったとしても漢中スレに詳しくあるように、漢中は出兵どころじゃない状態だっただろうから無理だね。

610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:56:30 ID:k6AVlr4c0
>>607
いや、思ったんだが、
劉備と孫権は一応和睦してはいたが、友好状態とは決して言えなかったと思うんだ。
最初に呂蒙が南荊を取ったとき、劉備が公安まですっ飛んできたので分割協定を結んだけど、
隙あればもう一度取る、というつもりは蜀にも魏にも明白だったんだろう。
だから関羽は最初、南郡に防備を残したし、
>>561の疑問、蒋済の「関羽が思いを遂げることを孫権は望まない」という言葉が曹操への説得力になって
共闘が成立した。
呂蒙の奇襲は、軍事的にはこの上ない(読めるかよあんなの)が、
政治的には奇襲ではなかったと思う。




611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:59:39 ID:CtCdWv6S0
>>605
蒋エンの北伐?でも話題になってるけど漢中〜上庸のルートは
漢中からの一通気味で中々遡行出来ないから荊北〜荊南〜益州のルートが確立してないと退路がなくなっちゃう
だから、関羽が敗戦した時点で孟達は進退窮まってる状態で、お目付けの有無とは無関係に降伏以外の道がないと思われる
逆言うと、上庸取りが先に行われたという事は関羽の北上が独断ではない事の傍証となる筈

関羽からしてみれば「お前を助けに来てやったんだから支援くらいはしろ」って援軍欲しいと思うし
孟達からしてみれば「お前らが俺を助ける役目だろ!!!」って絶叫したいと思うのも自然
この辺はお互い様なところがあってどっちが悪いのかとも言えないが

>>607に書き忘れたが、郭睦、トウ輔は恐らく孟達が4000人くらいで抑えてる豪族の抑え役だろうから
数もそれに近いか、統治用の部隊として少ない程度だったんだろう
というか多分劉備は孟達の軍事能力に惚れこんでて、孟達を動けるようにして関羽のサポートに回す気だったんだと俺は思う
ここまで書いて気付いたのだが、関羽の援軍催促はこれらの再編を見つつ

       ☆ チン        ハラヘッタ〜
                     ハラヘッタ〜
 ☆ チン  〃 ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ヽ ___\(\・∀・)< ちょっとーはやくしてくれる?
      \_/⊂ ⊂▼)_ \____________
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
   |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:|  |
   | 漢前将軍専用  .|/

こんな感じだったのかもしれない

612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 14:33:01 ID:eIq9OQDx0
>>607
北上と侯音反乱が同時期でそれ以前に上庸統治が上手くいってればと思ったけど
そんなに都合よくはいかないよね。

>>608
> 単に陸遜は、関羽の駆逐後に荊州西部全域を制圧していた
なるほど。
郭睦、トウ輔は巴蜀から派遣されたのではなく
孟達らに追われて南下していたということね。
確かにそっちのほうが分かり易い。

>>609
強制移住の影響は諸葛亮が頑張って何とか出来ないものか…

まあ皆さんのレスを見て蜀が限界だったというのは分かった気がします。
関羽も于禁をあんな簡単に撃破しなかったら早めに退くつもりだったのかな。

613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 18:41:02 ID:CtCdWv6S0
>>608
陸遜が夷陵を制圧してんのが建安24年12月より前だってのは呉主権伝と陸遜伝を整合させれば推測できる
陸遜が夷陵辺りを制圧した時期に李異達が房陵、南郷も攻撃してて、その後の関羽捕縛が12月なんだから郭睦やケ輔の件は関羽捕縛に関する一連の流れの中だと見受けられるんだが
となるとこれは関羽死亡後に離反した孟達の後のイベントだと考えるのは難しい

614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 18:56:14 ID:bzM+Vt8U0
>>613
それだけの広範囲を同時に制圧できる余力が陸遜にあったかな?
まず陸遜は真っ先に夷陵を制圧している。ここは重要度が桁違いだから。
その後関羽の敗北、翌年の孟達離反、と、劉備領荊州が崩れていくのと平行して、
益州からの増援がない(夷陵の守備を固めなくてもいい)のを見計らいつつ、
陸遜らの平定戦が行われていたんじゃないかな。

615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 19:27:00 ID:QsQv+na30
>>614
房陵を攻撃してるのは陸遜じゃなくて李異とか
しかも3000とかそんな人数
蜀の余力の無さが逆に浮き彫りになる状態じゃないかね

616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 20:01:05 ID:bzM+Vt8U0
そうだね? 関羽が敗退すればそんなもんじゃない?
そもそも全部の郡ごとにそんな大兵力が置いてあるわけじゃないし。

617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 20:25:43 ID:QsQv+na30
>>616
史書の記述を信じるなら記述順が李異達の侵攻→陸遜の夷陵確保→関羽捕縛という事になる
陸遜独自の考えで夷陵制圧してたわけじゃなく孫権もちゃんと理解してこの時期動いてるんだろうさ

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 20:33:33 ID:bzM+Vt8U0
そう思うよ。

619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 01:32:59 ID:21fHFC4M0
荊州西域占領作戦はどう読んだってorどう解釈したって関羽斬殺前だろ。

ここでの問題は関羽は公安を始めとする荊州侵攻を知りえたか否かと、
何時知ったかということと、何時信じたかということ。


後方と連絡が途絶えたということは前線にいる者にとっては信じがたいことなので、
「知りえた」については間違いなく知りうる機会はあったということ。
つまりは呉の侵攻後間もなくということだろう。


それが「何時知ったか」という具体的な話になると・・・これは解らない。
ただ「何時信じた」となると、趙厳伝を信じるならば、漢水北岸撤退後になる。

「何時知ったか」というこの辺の時系列ははっきりしない上に、一つの記述を丸々鵜呑みするわけにはいかないが・・・恐らくは北岸撤退前後の時間となるはず。
(そうでないと関羽が後方が陥落したかもしれないのに暢気に前方ばかり見る戦闘馬鹿になってしまう・・・そこまで関羽は馬鹿ではないと思う)

結局、公安以南と西域作戦は同時侵攻と見做さないと、呉からすると非常に非合理的であるわけで、
(関羽に西方がまだ陥落してないと知らせることになり、逃げ道を作り、つまりは西方に守りを固める時間猶予を与えることになる)
西域作戦を関羽斬殺後、孟達離反後とみなすはちょと証拠に欠ける。

620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 18:06:56 ID:dVuhIY/r0
荊州問題で孫呉との有効を保ち続けるのは無理。
かくなる上は、関羽軍が速攻で曹仁を切って襄陽を奪い、援軍もまとめて撃破する以外にない。
蜀漢から荊州を奪うより対魏戦で協力した方が得だと思わせ、孫呉の矛先を合肥に向けさせるしかない。

621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 21:39:28 ID:IdC89D9L0
>蜀漢から荊州を奪うより対魏戦で協力した方が得だと思わせ、
>孫呉の矛先を合肥に向けさせるしかない。
ここは同意だが、
曹仁を倒せたらとか、呂蒙が攻めてこなかったらとかより、
関羽か劉備が来るまで江陵城が落ちなかったら、
落とさせないだけの人材がいたら、の方が現実的じゃないか?
江陵城は曹仁と朱然が篭城戦で実績を残した城だし、
一番成算があるifだと思うが。

622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 21:57:05 ID:15f1U1pV0
>>620
孫権は張遼恐怖症だから無理ぽ。
せめて史実より早く曹操がポックリ逝ってくれればなんとかなったかもね。

623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 22:22:01 ID:gKaPWRs00
結論

誰が荊州司令官であろうとも
頑なに専守防衛に徹する

もし対魏北上する場合は対呉の備えを将兵ともに万全して
「呉が攻めてこないだろう」ではなく
「呉が攻めてくるかもしれない」という前提で北上する

北上する条件として
魏内の異変に乗じるなど正面作戦を避け漢水以南をもって善しとして決して欲張り過ぎない
もし呉に怪しい動きがあれば即座に北上を中止して領土保全を優先する

益州からの後詰は漢中を放棄しない限り端から無いものと悲観的計算に基づいてすべての行動を図ること



624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 01:10:57 ID:PObonQ3r0
荊州を返さない蜀漢に痺れを切らした孫呉が、
本気で曹魏と手を組んだらどうすんの?

625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 02:38:11 ID:zzVEG3bE0
>>624
いや、だからそれで呉に江陵奪われてるんじゃん

626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 04:12:55 ID:SUiIxIuz0
関羽が北上しなきゃ呉も迂闊に手を出せないだろ
数年待てば、曹操も呂蒙もくたばるし
荊州で膠着している間に劉備・馬超らが北伐して涼州を獲って長安を窺う


627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 08:43:05 ID:H6AEnlPX0
before

夏侯淵ブッタ斬ったwwwwwwww
漢中取ったwwwww
曹操負け惜しみ吐いてトンズラwwザマーwwwww
俺今日から漢中王イヤッホウゥゥーーー!!
荊州と漢中からそれぞれ涼州擁州と荊北狙うぜww


after
漢中鶏肋wwwマジ何も残ってねwwww
ちょwwww攻勢も出れないし漢中王って名乗ったから撤退もできないwwww
関羽タンまじガンがってwwwwwおねよろwwww
あwww孫権攻めて北おkwwwwww
人生オワタ\(^o^)/


628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 08:57:52 ID:DqmR1RpM0
あんた笑いのセンス全然無いね

629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 13:18:49 ID:PObonQ3r0
>>622
呂蒙か陸遜を送ればいいだろ。孫権が前線に出るから負けるわけで。

630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 16:36:04 ID:6AEoTT3f0
実際当時の劉備の状況考えたらあれがベストっぽいんだよな・・・

ビホウとかは結果的に降伏したから叩かれまくってるけど徐州時代からの古参だしな。
信頼できる人間をそれ以上荊州に回す余裕は到底なさそうだし

631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 23:22:45 ID:Jrb06GP+0
確かに何で合肥のときだと孫権だの諸葛瑾だのが出張ってくるんだろう
こういうときこそ呂蒙や陸遜頑張ればいいのに

632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 23:53:25 ID:H6AEnlPX0
陸遜はデヴューが遅いのでおいておくとして、呂蒙は合肥に参加してるよ。
呂蒙はその戦役の経験から合肥(長江北岸の揚州及び徐州攻めの難攻を孫権に説いてる)をほとんど放置するという自説に辿り着いてる。

諸葛勤はどう解釈しても名将。
呂蒙のような戦術に長けた将という意味じゃなくて魯粛のような名将という意味ね。

ようは、孫権も馬鹿じゃないけど、孫権が合肥の担当にならざるをえなかった(主力はあくまで呉郡近辺)事情があるということね。
晋が荊州に軍の主力を割いてどうなったかくらいは孫権は知っていたということ。


633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 02:04:30 ID:RofOMZy/0
>>632
デヴュー早いぞ
山越戦ばっかりだけど

それに曲がりなりにも孫策の娘を娶ってるわけで名前が無いわけでもない

634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 02:06:32 ID:3ZKJRyte0
諸葛亮や諸葛謹と比べられて犬と言われた諸葛均も、
部将としては有能で部下に慕われていたようだし、
諸葛家は有能なのが多いな。

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 02:10:04 ID:3ZKJRyte0
諸葛均じゃなくて諸葛誕な。
曹操並みに有能な親族に恵まれているのが不思議。
諸葛一族が集まれば蜀ぐらいは取れたんじゃね?

636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 02:16:14 ID:wcyHKlIGO
アタマがいない。
所詮は(超有能)補佐官の一族。

637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 04:48:40 ID:3ZKJRyte0
それは諸葛亮か諸葛謹で代用できる。
いざとなったら操縦し易いのを御輿に担げばいい。

638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 14:59:38 ID:wcyHKlIGO
>>637
二人とも有能な宰相ではあるが君主の器じゃない。

639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 17:25:42 ID:WU+suVqO0
そこで劉禅ですよ

640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 18:13:11 ID:vXG4NBjR0
ダメだったじゃねーかw

641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/04(火) 10:22:33 ID:2BY+FIyT0
じゃあ劉表で

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 02:36:27 ID:soAthf2A0
劉禅は蜀が滅びる最晩年まで、反乱も大して起こらなかったから、
それほど無能ではないという説もあるな。
弱小国だし、次々と離反者がでてもおかしくないはず。

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 08:06:32 ID:p588vvyo0
無能とはいわないんじゃない?凡庸なだけで。

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 18:23:52 ID:vQUXAINy0
魏にしても呉にしても、政権が不安定になると景気付けの改元と恩赦をやたら出すものだが、
劉禅在位時の蜀ではあまり行われなかったという。

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 22:03:56 ID:xKlZbjxi0
>>644
ただ単に、改元すんのメンドかったんじゃね?

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 23:01:00 ID:QQCtwfSU0
>>644
いや、滅亡直前の頃は改元、恩赦の大盤振る舞いだが

647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 00:09:17 ID:T8qdRpIy0
>>646
在位中何回?

648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 00:53:25 ID:ZoAQWmhw0
>>647
改元はともかく大赦がかなり乱発されてる
改元の方は7年に一遍くらいかな
まあ普通のペースと言って差し障り無いと思う
だが大赦の方が2、3年に1回くらいのペース
諸葛亮存命の10年ではわずか1回
なのに費イが実権握った辺りから怪しくなってくる

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 17:50:34 ID:+qyD7tBi0
劉禅の統治期間が40年。諸葛亮体制10年に大赦1回。
その後が2、3年に1回のペースなら11回〜15回。
40年に渡った治世としては多いのか少ないのかよく分からない。
ただ魏呉と比べて反乱らしい反乱がないのが救いか。

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 19:04:03 ID:gnF+b1SF0
>>649
2〜3年に1回、犯罪者が許される
孫皓末期の10年8回に較べればマシだが
10年3〜5回を40年てのは非常に悪い

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/09(日) 16:52:26 ID:r0hflxBS0
もしセガールが荊州を守っていたらなあ

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 13:15:28 ID:CidkuDu80
沈黙の単刀会

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 13:48:39 ID:CqDMMuXq0
そもそも蜀が中国を統一できる可能性はあったのか

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 11:10:24 ID:YRo8feMz0
さぁね。

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 11:28:56 ID:NyE//bXC0
漢の劉邦とて項羽に戦いを仕掛ける頃中国を統一できる可能性があったかというと
これもさあねだろうな

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 11:59:00 ID:ow1YrA6Y0
さあね以上に冷たい反応が返ったかもしれんね
まあ、歴史にイフはないとはいえ、ついつい考えちゃうな

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 12:16:31 ID:Y/sqsPPv0
それに対する積極性を捨てない限り、可能性はある。
ゼロではないというだけだけど。

658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 13:53:23 ID:cDmNGXnq0
後漢〜三国時代は戦乱が長引きすぎたよ。
陳勝・呉広の乱から楚漢戦争集結まではたった8年。
劉封だって、相手が腰を据えて足元を固める前に
電撃的に勝負を決めたから勝てたんだし。
劉備は最初、天下への野心はなかったかもしれないけど、もたもたしすぎた。
208年以降、曹操が満を持して統一事業に乗り出してからでは遅い。

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 14:33:56 ID:nniJ3Mhz0
どっかに拠点構えても強制イベント的に追い散らされてばっかだったからな
ようやく落ち着いて事に当たれたのが赤壁後なんだからしょうがない

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 15:49:28 ID:ukuZRfldO
そのあたり宮城谷さんは上手く表現してたな。
「劉備は、およそ守るという事を知らない」
だったか。無頓着きわまれりだな。

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/15(土) 21:19:16 ID:5yDLDoFz0
>>658
>漢〜三国時代は戦乱が長引きすぎたよ。

そんな事いったら、次の南北朝時代はどうなるんだよww
約300年戦乱だぜ

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/15(土) 21:24:38 ID:Uj6gyQM00
いや、戦乱のない時代のほうが少ないからw
もしかして漢一統で戦乱なくなったとか思ってる?

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 18:58:38 ID:tBiELg9o0
字 (差分; 履歴) . . (-69) . . Hoistsail (会話 | 投稿記録) (「優先」順序はないっすよ。もしそうなら「諸葛武侯」以外呼んじゃいけないことになりますな。)

呼んじゃいけないなんて誰も言ってない。無礼だと言ってるのだ。新聞で「福田総理」と書いて「福田康夫」と書かないのと同じだ。

664 :663:2008/03/16(日) 18:59:56 ID:tBiELg9o0
スマソ、誤爆

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 23:49:18 ID:Jdo4sVjH0
>>600
簡単に言うと第一に孟達の援護。
第二に劉備からの新しい指令を伝達すること。
孟達はシキから山麓越えで房稜を戦略的な奇襲かつ戦術的強襲で
落としているから補給線、連絡線の維持に問題がある
かつこの辺りでは魏側には上庸太守の申耽、南郷太守の傅方、
彼らをバックアップする荊刺史の胡脩がいるため孟達単独で作
戦を継続させると彼を見捨てるだけになってしまう
作戦的には上流の漢水を劉封が下ってきて上庸、房稜への道を
塞いで傅方,胡脩を防ぐ一方で申耽を孤立させると言うもの
劉封の派遣には非常に大きな意味があるわけです
そして更に劉・孟に対処しようとする胡脩,傅方に対しては下流
にいる関羽の大兵力がバックから攻め、上庸を降伏させた劉封,
孟達軍と前後挟み撃ちの雪隠詰めとすると言う構図になるわけ
この辺りの劉備側の作戦は非常に構想力の大きなもので曹操に
して見ればいきなりこれほどの作戦を打ってくる劉備陣営には
容易ならない危機感を抱いたと思うよ

666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/23(日) 01:56:59 ID:kl6tzdrA0
>>665
 法正のアイデアかな。彼の死こそ、劉備勢力の衰退を招いた気がする。

667 :665:2008/03/23(日) 06:50:10 ID:tRGxI4IY0
>>666
かも知れないしそうでないかも知れない
ただ、この重層的で相互に関連づけられた非常に特徴ある
作戦の組み立ては諸葛亮が一貫して用い続けているやり方
ではある
で、諸葛亮だけがこういう作戦を組めたのか?となると、
この直前の漢中戦で劉備が上手く運用しているし、これに
連動する形で関羽も枝作戦で似た作戦を運用している
諸葛亮や法正が参加した後の劉備陣営は少なくとも諸葛亮、
法正、劉備、関羽はこの作戦の組方、戦略的な部分を充分
理解していたように見える
複数の方面軍指揮官と参謀が高いレベルで戦略を理解し、
柔軟に作戦を組む応用力を身に付けていなければこの時の
成功(関羽敗死直前まで)は有りえなかったと思う

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/24(月) 00:16:43 ID:RWKmETKM0
少し前まで流浪の泡沫(と言うほど無名でもなかったようだが)1勢力の
取れる戦略じゃないよな
曹操直卒軍との漢中攻防〜孟達房稜へ〜関羽北上あたりは神がかり的

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/24(月) 12:20:57 ID:9JFf/whp0
しかし結果的には

漢中=鶏肋
新城=地政学上荊北を所有しないと長期維持は無理
北上=失敗
荊南喪失=中原進出不可能

なわけで、

まさに人生万事塞翁が馬。


670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/25(火) 20:10:28 ID:AwPGyMWR0
漏れが劉備だったら関羽に荊州は任せない。結果論ではなくてだ。
赤壁の戦いで華容道にて伏兵を以って曹操を討つ筈が、事もあろうに見逃した件は許されざる行為だ。
孔明が関羽の首を刎ねる事を主張したのは至極当然の成り行きで、関羽には情状酌量の余地は無い。
つまり関羽は情に流される性格で、一州を任せられる非情さが無いのである。

671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/26(水) 11:40:44 ID:9zDUFLdK0
演技である

672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/29(土) 01:38:17 ID:G9DLDBEz0
釣りには釣られないクマー

673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/12(土) 01:30:23 ID:35FnYozcO
あげて

674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/19(土) 15:56:04 ID:QHiXADQKO
あげとくかな
関羽も北上も良いけど異民族取り組めたらな〜

675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/19(土) 16:50:36 ID:ge5lJWv60
関羽はその点は結構やってなかったっけ?

第一次呂蒙侵攻のときは長沙零陵はかなり対呉に反乱したと思うが。


676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/19(土) 19:04:45 ID:LBPnmkaP0
そもそも統治できないんじゃね?
政策はほぼ完璧だし曹操軍をボコボコに撃退できる指揮能力持ってるのはカンウぐらいだろう

677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/19(土) 23:21:10 ID:7sBXAriO0
>>676
でも関羽の実績って、顔良を討ち取ったことくらいだよね。将軍としての実績って何かあったっけ?

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/19(土) 23:35:00 ID:TlIbEacc0
>>677
10年近く荊州を守ってたよね
将軍なんだから会戦単位じゃなくて守ってたことも考慮しろ

679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/20(日) 01:07:03 ID:Keit0v700
でも、呉が攻めてきたら、あっさりと三郡を落とされてるし守りも実績ないよね。

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/20(日) 02:47:13 ID:d7Z/b+Hg0
>>677
曹仁、于禁、ホウ徳撃破で十分すぎると思うが。

681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/20(日) 03:38:18 ID:Qat/5ZVu0
>>680
曹仁?
于禁戦は評価できるけど氾濫あっての戦果だし
ホウ徳は船がひっくり返ったところを捕まえただけだし
結局は負け戦だからね。

682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/23(水) 01:01:54 ID:QonLHp8t0
結局さ、
・北上指令が有ったという証拠
・攻勢をかけたら守備に難が生じたという状況
・援軍が見込めなかったという事実
これらを総合するに関羽でも張飛でも諸葛亮でも大して変わらなかったということだね。
北上敗退/荊南喪失はヒューマンエラーというより、複合的な国家戦略の失敗だからね。

仮に超人的な指導者が北上を成功させたとしても、魏⇔蜀の力関係からそれは一時的な物に過ぎないことが解る。
同じく北上に失敗しても荊南保全には叶ったとしても、それは呉の失敗であって蜀の功ではない。


・漢中がアップアップだったこと
・荊南が二正面作戦を強いられたこと

劉備ファンには厳しいけどこれが非情な現実であって、孔明がどうのこうのとか関羽がどうのこうのとか、もはやそういう時代はでは無かったということが結論だと思う。

683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/24(木) 04:33:21 ID:LprtYxuv0
関羽は劉備軍閥のナンバー2であり武将のナンバー1で、関羽の生前にその地位を凌いだ者はいない。
ゆえに関羽ははずしようがない。
スレタイは、「関羽以外の者が荊州・・・」ではなく、「関羽といっしょに誰がいたら荊州は・・・」とすべきだろう。

奪ったばかりの蜀にはまだまだ反劉備の豪族や異民族もいたし、方針として北伐による漢中・長安奪取が
劉備政権の最優先事項だったので、主だった荊州出身の人材まで蜀側に集中したのはやむを得ないところ
ではある。
とは言え、孫権を甘く見て人材を蜀に集めすぎて、関羽の下に有効な文武の人材を蜀奪取後に
送り込む/送り返すことをしなかった劉備およびブレーンたちの失策の犠牲者が関羽。
当時の魏・呉において、特定の人物に国の1/5〜1/2にも達する地域・経済・人口の全権を与え、
一種の地方王とするほどの偏った政策・軍事戦略をとった例は他にはないのだから。







684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/24(木) 09:43:58 ID:+/W382vg0
>>638
何時そんな大領主に関羽がなったんだ?
関羽が持ってたのはあくまでも軍事の権限
行政の権限とかは別に持ってる人いるよ

685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 18:48:56 ID:HRdlEGyA0
張飛、趙雲を劉備の所に置いてるから
大権を任せられるベテランの軍人ったら残ってるのは関羽しかいない。
魏延、馬趙、黄忠はこの時点じゃ新参だし

つーか兵力的に負けてるのに荊州と漢中で戦しなきゃいけないって時点でキビシイしなあ。蜀が本拠だから物凄く連絡とりにくいし
一時的には押したとしても国力差はいかんともしがたいし、孫権との外交に特に気をくばってた形跡が無いし
誰が守っても多分大差なかったと思うよ


686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/28(月) 14:32:09 ID:0yEq29wZ0
結論が出たし、IFも出尽くした感じかな?


IFの究極系は劉備を神輿に乗っけて周瑜が関張を「手足のように」使い、
益州を併呑して合肥(孫権)・襄陽(周瑜)・漢中(孫瑜)を一斉に攻めるというものと思う。

もしかして周瑜はこうでもしないと膠着状態のまま、やがては魏(晋)の一人勝ちという結果が見えていたのではなかろうか。
そしてそれが出来る人間は自分だけ、機会もこの1回だけ・・・と。

三国志には界橋とか官渡とか赤壁とか「関が原」が何個かあったけど、周瑜の西伐戦略がもっともロマンの匂いがする。

687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/29(火) 02:02:09 ID:LnpUy5Fh0
>>686
その手のIFがでるときは必ずと言っていいほど「周瑜の蜀遠征は問題なくスムーズに短期間で成功する」
という前提で話が進むんだが、その根拠ってなに?

688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/29(火) 06:05:03 ID:OEpTQzlt0
劉備にも出来たんだから周瑜に出来ないわけない(笑)

689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/29(火) 17:42:57 ID:P97DjwbM0
劉備が蜀取り出来た理由に、劉姓であることや張松法正の手引きがあった訳で
それがなかった周瑜が、蜀取りをスムーズに短期間で成功ってのは
難しいと思うんだがなあ

690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/29(火) 18:04:49 ID:OWHAplvY0
劉備が2年掛かってるから2年前後は「スムーズ」だよな。

691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 05:22:54 ID:3Z6MfxBA0
周瑜は子飼いの兵隊を主力にするんだから劉備より早く平定したかもしれん。

692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 08:54:59 ID:sjF7lKoT0
>>681
つまり関羽には水軍をある程度指揮できる能力があったってことよ。
そして天候の変化にも素早く対処し、被害を最小限で押さえ、
それに対処できず、混乱していたウ禁軍と、水軍の指揮が駄目だった、報徳を虜にした。

ただそのとき、何万って捕虜を引き取ったのが関羽のミスだったよな。
自軍に匹敵する捕虜を引き取ってしまったから、
当然食料の輸送がままならなくなり、輸送体制が維持できなくなった。
さらに天候の悪化による水害が追い討ちをかけ、輸送がさらに困難になり、
食料も痛み、欠乏し、
足りない分を呉から略奪して、外交関係を悪化させてしまった。
また捕虜の監視に大軍を割かなければならなくなっただろうし。
食料の欠乏による士気低下、捕虜の監視による人員をとられた。
さらに後方を呉につかれた。
正直関羽じゃなくても、無理だったとおもう。
俺は関羽はウ禁軍を破った時点で引きべきだったとおもう。
もしくは捕虜はなで斬り。

693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 09:45:12 ID:76+g1qdO0
>>692
捕虜は武器を取り上げて護送の部隊を付けて、公安や江陵に送っているな



北方三国志の記述だけどw

694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 09:55:35 ID:/ode2lJa0
周瑜の蜀平定は難しかった気がする。

前代の光武帝も公孫述だけは度外視し、自ら親征にいくのは避けた。
(光武帝は隗囂征伐に親征したときに、関東で叛乱がおきて、作戦が頓挫して以来、二度と親征をしなかった)
光武帝の蜀とりは、柿が熟すのをまって、天下の十分の九まで平定してから実行した。
実際に攻め入る段になり、蜀側から投降者が多数でたが、
それでも遠隔地に兵を送っているために、
糧秣に苦しんだり、狭い街道で陣を整えられぬところを襲われたりして、
かなり苦戦した。
また、光武帝の場合、最初に大規模な水軍での合戦があり、
そこで公孫述の水軍を撃破して、制水権を確保し、
糧秣の輸送路を築いた。そのあとに十数万規模の歩兵と騎兵を出した。
呉の水軍は強力だけど、やはり最後は陸戦になるのはず。
そのときに合肥あたりで魏軍とにらみ合ったまま、兵力をどこまで動員できるか。

ほう答、張松、法正が、とにかく、蜀の地の地形のうちに、
劉備をひきこんでから、蜀とりをさせようとしたのも、
光武帝の苦戦が頭にあったからだとおもう。
実際、劉備は成都をとおりこして、その北から、南に攻め込むという、
方法をとったけど、
これは公孫述が、蜀の地で自立する際にとった方法にならったもの。

以上の理由から、蜀にとって明らかに敵である周瑜の蜀とりは苦しかったはず。
ましてや、劉備のことだ。
荊州で蓄えた兵力もって、
蜀がわにとりいり、周瑜と対峙したはず。
こうなると、誰が得するかは明らか。
劉備だろう。
戦をし、自分を売りつけることで、大きくなっていった男だから。

孫権もそのあたりがわかっていたから、
周瑜なら、まだ半分ぐらいは成功の確率はあるだろうが、
それ以外は誰がやっても無理、へたしたら呉を滅ぼしかねない、
と諦めたのだろう。


695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 10:51:39 ID:3Z6MfxBA0
つまり劉備に荊州をくれてやったのがそもそもの間違いだと。

696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 11:28:02 ID:/ode2lJa0
ほう答→龐統ね。
依存文字だなーって考えていたら、変な変換のままでした。

劉備に荊州を呉れてやったのは大きな間違いだと、孫権も、
(自分にそれを提案した)魯粛のことをくさしています。
ただ、あの時点では仕方なかった、とも。

魯粛は三国志で最も初めに、天下三分説を説いた男です。
すくなくとも、言葉に出したのは、諸葛亮より先です。
(明確ではないが、魯粛伝の記事からすると黄祖戦死前)
諸葛亮の天下三分が、
「劉備が生き残る方法としての天下三分」
であるのに対し、
魯粛のそれは、
「孫氏が皇帝になるため」
の方法として説かれています。
諸葛亮のそれが、地方割拠思考であるのに対し、
魯粛のそれは、
「曹操が北方を制圧している間に、長江一帯を押さえる」
というもので、揚州→荊州→益州を制圧して、
最終的には、長江を堺に
「天下二分せよ」
という考え。南北朝ですね。
周瑜の戦略は、この魯粛の大戦略を実行したもので、
孫権が、魯粛のことを、ケ禹に準えたのも、このためです。
ケ禹は河北に逃亡同然の身で放浪していた劉秀に、
天下とりの方法を教えました。
河北を基盤とし、その地の大量の流民と騎兵を兵制の中心に起くこと。
敵地攻略の順番としては河北の後は、黄河を渡って、洛陽を押さえ、
そこから順次、兵をだしていくこと、というものです。
(形式主義の袁紹は前代の成功例として、これを真似た)
劉秀は後年、ケ禹の手柄を第一としましたが、
それは、こうした遠大な視野をもったブレーンが、
絶無に近いからです。
(ケ禹自身は将軍としては失策が多かったですが)

ただ、魯粛の戦略は、周瑜存命中から破綻します。
曹操が予想以上に強く、袁紹の子供たちが仲間割れしたりして自滅し、
河北平定が魯粛の予想をこえて進んだことが最大の理由。
その上、劉表が死去し、荊州が戦わずして、曹操に降ってしまったこと。
また、それ以前、黄祖が予想以上に奮戦したことです。
このため、魯粛はあらたな戦略の転換をしいられました。
それは、
「劉備をして、曹操にあてつつ、まずは荊州を奪う」
というもの。

つまり、呉の関羽征伐はもともとの呉の思惑からすれば、
当然やるべきことをやっただけであり、
誰が守っても、あの時点ではとられたでしょう。

むしろ、荊州分割時に、益州との出口部分だけ
確保して、あとはすんなりくれてやったほうがよかったかと。
無論、関羽の水軍および旧劉表の兵力は益州へ移動。
曹操が漢中でやった作戦です。



697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 11:29:26 ID:sjF7lKoT0
>>693
それが事実だったら余計悪いな。
兵員の護送だけで、どれだけの手間か。

698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 12:21:56 ID:a0OxJSyc0
>>696
諸葛亮の天下三分も劉備に天下統一させる為のもの

長文書いて悦に言ってるんだろうけど全くお話にならない

699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 12:56:54 ID:/ode2lJa0
悦には入ってませんが、諸葛亮の天下三分は、
劉備が割拠するためのものですよ。
正史の諸葛亮伝には、
天下統一なんて一言もかかれてませんし、劉備をどういうかたちで、
国家の中心とするかもないですよ。
何かの小説の中身と勘違いなされてるのでは。

諸葛亮は、国家として存在意義をもつために魏に出兵し続けたのであり、
(もちろん出兵先で領土が保全できればそれに越したことはないですが)
彼の天下三分説は孫権および曹操の勢力を覆す難しさが前提となっています。
王建の蜀なんかもそうですが、
そもそも蜀に独立勢力となった時点で、天下から分離逃避した政権を志向しています。

でも、水かけ論でしょうから、もうやめます。
ご不快にさせたのでしたら、すいません



700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 12:59:57 ID:sjF7lKoT0
あれは劉邦をなぞらえているだけだろう。
天下とりを諦めた、というのは違うとおもう。

701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 14:15:49 ID:AKS8kYuV0
>>699
天下有變,則命一上將將荊州之軍以向宛、洛,將軍身率益州之衆出於秦川,百姓孰敢不箪食壺漿以迎將軍者乎?
誠如是,則霸業可成,漢室可興矣.

益州取ろうぜって諸葛亮が言った続き
覇業ってしっかり言ってるよ
そこまで能書き垂れといて覇業の意味はわかりませんとか言うなよ?

702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 15:36:18 ID:LhSFVfWz0
荊州と益州を合わせてって言っている時点で、秀才の机上論に思えるな>三分計

どのみち、孔明の三分計って失敗に終わっているシロモノだし。

703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 15:41:55 ID:AKS8kYuV0
>>702
失敗成功無関係に諸葛亮は劉備に天下取らせようとしてた
これは揺るがない史実

704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 18:12:07 ID:w/nDhHhI0
劉備(諸葛亮)の天下三分瓦解状況

荊州
・曹操が袁紹残存勢力及び北方平定するのが早すぎた
・曹操の南下が早すぎた&劉表がタイミング悪く死んでしまった&世継は降伏を選んだ
・これにより劉表勢力圏の荊州丸ごと頂戴が破綻した
・諸葛亮は今からでも遅くないと武力奪取を進言するが、分裂した荊州での迎撃を不可とみた劉備は退けた

孫呉同盟
・「力を合わせて」曹操を撃退するはずが、ほぼ孫権(周瑜)が独力で撃退し、大きな借りを作ってしまった
・劉備が荊南を取れたのは、またしても周瑜が江陵を激しく攻め続けたお陰で、またしても無形の借りを作ってしまった
・仮にこれを(孫権が曹操を攻撃し、劉備が土地を刈り取る)役割分担の共同作業としても、孫呉は「分配」にありつく主張権を得た

益州乗っ取りと漢中王
・孫権への借りを先延ばしというか、ほとんど無視していたら両国の関係は危機的状況に陥った
・土地を暫定的に分割することで最悪のシナリオを回避したが、孫呉は合肥の失敗もあって荊南全土保有・武力も辞さず
という潜在的危機ができてしまった
・漢中奪取と関羽北上で意図していた天下三分の形に最も近づく。が、一気に瓦解して荊州の地盤もルートも兵も全て失う
・対魏二方向作戦を復活させるために、劉備は最後の賭けに出るが成らず
・この時点で事実上、天下三分は「一勢力から天下へ」から「一勢力を保つこと」に性格が変わる

諸葛亮とその後
・第一次北伐こそ、本気に長安を奪取しようとした形跡があるが大敗
・以後、北伐は蜀漢のアイデンティティー保持のため、防衛のための侵攻になっていく
・呉と違って中原復帰が国是であるために、「機を待って軍を出す」ことが出来ず国勢として不利に
・魏は権力も国力も乱れたが蜀はそれ以上に乱れ、その隙を突かれて終了

705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 18:35:32 ID:w/nDhHhI0
周瑜の天下二分(益州遠征)は、周瑜の主張によると劉備の名を極限まで利用しようとした可能性が高い。
ようは劉備を天皇にして孫権を総理にして、自分が防衛大臣になるというものだから・・・

劉璋の態度次第だが、
「劉協は奸賊の曹操に操られ、漢が死に掛けてる。そこにくると劉備様は『古くは皇室に連なる〜忠臣の〜曹操討伐に〜云々』
そういうことで、貴方も一緒に兵を挙げませんか?張魯に悩まされている様子なのでまず我が軍が一気に成敗してあげましょう」
って言う風な、劉備に似た形を理想系として持っていたかもしれん。

もっとも劉備傀儡計画は孫権に退けられて、独力の武力侵攻を用意していたんだから、
↑みたいに甘い妄想じゃなくて現実論として益州武力奪取が可能と読んでいたんだろう。
現に劉璋の精鋭兵の殆どは白水関に対張魯用として駐屯していたから、長江伝いからの侵攻にはそれほど準備想定されてなかったはず。

結果論だが、
魯粛の段階的(機会主義的)天下二分(孫呉+対曹魏の盾vs曹魏)は「盾」の野心と現実のバランス取りが破綻したし、
諸葛亮の中原復権的天下三分は荊南が孫呉から侵攻されないはずという砂上の楼閣で成り立ち、当然と崩壊した。
この中で周瑜の全面対峙的天下二分だけが実行されなかったが、魯粛と諸葛亮の手から離れた「結末」を見ると、
周瑜のものが一番突飛だが、一番大局的に物事を捉えていた気がする。


706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 18:52:55 ID:AKS8kYuV0
>>704
力を合わせて江陵落としてるのだが…
曹仁救出の李通は関羽の包囲を突破してのものだぞ
何を根拠に借り?
南部四郡は両者の合意の元に行われてると言った方がいい
さらに孫権は赤壁前には劉備の影響下にあった江夏に乗り込んで我が物としてしまっている
赤壁前後で言うなら借りは間違いなく孫権にある

707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 19:17:24 ID:w/nDhHhI0
読む限り、城攻めは文字通り周瑜の独断場だが?
関張の援軍もどうみても少数の哨戒・補助用としか解釈できん。
もし関羽が主体の一部で参戦してるなら、関羽伝に書かれないとおかしいだろ。
関羽伝どころか、蜀史の一部に「手伝った」程度しか記述がないけど、これをして「共同作戦」っていうのは強引。

それに江夏を「我が物」にしたって・・・(笑)
江夏北部には孫呉はなーにもしてないでしょ。
夏口は赤壁当年に周瑜が陥落させてるんだが?
つまり、
207年江夏(黄祖)
208年春周瑜の黄祖征伐により南部の夏口陥落・北部は劉gが後任として支配
208年?周瑜は夏口を(恐らく)放棄して柴桑に帰還
208年?夏口で劉備と劉gが合流
208年〜江夏(北部)太守に文ペイが、南部は孫呉が駐屯し、江夏は事実上二分される
215年 呂蒙侵攻後の和議で正式に江夏が孫呉のものとなる

708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 19:29:06 ID:an30lQJZ0
少し想像になるんだが、劉備達の食料とかの軍需品を出していたのが
孫権軍の可能性がある。
劉備はほとんど裸一貫で逃げてきてるし、別働隊の関羽も楽進に叩かれいる。
劉gもほとんど追い出されるような形でそこまで沢山の兵糧をもっていないだろうし、
もし、劉gの入った城が黄祖と同じなら孫権が全部掻っ攫ってからっぽだし。
そんな状況でろくに基盤の持たない劉備が長期の戦争ができたのは
やはり、孫権の下の元での可能性が高い。

709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 20:01:02 ID:a0OxJSyc0
>>707
劉備與周瑜圍曹仁於江陵,別遣關羽絶北道.
劉備と周瑜は曹仁を江陵に囲み、関羽を別に派遣して北道を絶たせた
李通伝だと江陵攻めは合同

先主與呉軍水陸並進,追到南郡,時又疾疫,北軍多死,曹公引歸.
ついでに劉備と周瑜は同時に進軍して南郡に辿り着いた事が先主伝においても明らかにされているのだよ

元々の根拠地に孫権が居座ってるわけで、まさに「我が物」にしてしまったと言う他ない

710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 20:22:34 ID:an30lQJZ0
>>709
ムリムリ。「我が物」と確定できない。
だいたい、劉備、劉g合同軍では長年の戦争でボロボロになった江夏城を
守りながら戦うことが不可能。
その後の京城の会談でも話題にならないし、孫権の保護の下に放棄した
可能性のほうが高い。

711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 20:36:48 ID:w/nDhHhI0
劉gは劉表が実効支配していた江夏北部から配下を連れて亡命しているんだよな。
それで夏口で劉備と合わせて2万、と。
恐らく諸氏は夏口が劉gの本拠地と思って、江夏全体を孫呉がドサクサにまぎれて取ったと思っているんだろうけど、
長江北岸の江夏は結局手を出せずにいたし、夏口は孫呉が(恐らく何らかの事情で)放棄した様子から、
とてもじゃないけど劉備から獲って「我が物」とした形跡がないんだよ。

712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 20:39:38 ID:sjF7lKoT0
>>707
哨戒ってあーた、そこでの関羽の活躍があったから、
落とせたんでしょ。
そしてそのことで、周ユが関張を大絶賛して、
あの二人がいれば、天下とれるとなったわけで。
ほぼ共同だよ。
そして共同だから、その後劉備は周ユに領土よこせといって、
江陵を分捕ったわけなんだから。なんの功績もないのに、
領土を割くわけないだろうに。
>>708
最前線を素寒貧にする領主がどこにいるんだよ。
とくに孫権とは対立状態だったんだから、
膨大な軍需物資が蓄えられていたと考えるのが普通。

713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 20:43:42 ID:w/nDhHhI0
付け加えると、


>劉備與周瑜圍曹仁於江陵,別遣關羽絶北道.
>劉備と周瑜は曹仁を江陵に囲み、関羽を別に派遣して北道を絶たせた
>李通伝だと江陵攻めは合同

だから、哨戒・補助程度で主体じゃないっていってんじゃん。
もっとも、孫権が合肥にイロをだして援軍がなかった周瑜からしたら、僅かな兵力でもありがたかっただろうけどね。
それでも、それは些細なことで、それがないと江陵攻めに支障をきたしたほど重要なことだとは思えない。
証拠に蜀史の如何なる伝にも「○○のお陰で曹仁を撃退した」というふうな記述が「いっさいない」からね。

>先主與呉軍水陸並進,追到南郡,時又疾疫,北軍多死,曹公引歸.
>ついでに劉備と周瑜は同時に進軍して南郡に辿り着いた事が先主伝においても明らかにされているのだよ

これは赤壁・鳥林からの追撃戦の記述だろ?
江陵の曹仁戦とは何も関係ない。

714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 20:49:17 ID:an30lQJZ0
>>712
じゃあ、なんで対立状態の最前線で新たに膨大な軍需物資が蓄えられているのに
兵隊をたったの一万しかもって行かないの?
孫権にプレゼントでもすんの。


715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 20:56:29 ID:a0OxJSyc0
>>713
哨戒とはどこから読み取れること?
哨戒の証拠がないよ

曹仁戦と関係大有り
だって、彼らは一時期まで同盟として一緒に行動してたのだから
同盟相手の根拠地に居座った孫権が非常識でないわけがない
ついでに言うと孫権は江夏には全く近づけてない
黄祖には勝利したものの、あくまでも江夏郡の端っこで勝っただけ

716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 20:59:52 ID:an30lQJZ0
>>713
夷陵の甘寧救出でも劉備軍を頼らず若輩の凌統に本陣をまかせてるしな。

717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 21:00:36 ID:sjF7lKoT0
>>714
兵隊一万はかなりの兵力だが。
それだけの兵力を国境沿いの城に常備させとけば、
孫権はまず抜けないよ。

718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 21:17:28 ID:an30lQJZ0
>>715
呉主伝から
>遂屠其城とある。端っこで勝っただけには読めないんだが。

719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 21:25:50 ID:sjF7lKoT0
それがどうしてそうなるのかわかりません。

720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 21:26:13 ID:an30lQJZ0
>>717
なら黄祖は一万以下の兵力しかもっていなかったのかな?
一度落とされてからの、またの守備の為の兵力を前回以下とは考えずらいし。

721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 21:37:10 ID:a0OxJSyc0
>>718
黄祖城をボコボコにして賀斉の鎮定した地域と合わせて新しく六県をおいた割に
その置かれた県は江夏郡から大分離れたところ

722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 21:37:25 ID:an30lQJZ0
一応確認で書くが、魏書に関しては劉表討伐から曹仁撤退までが
一連の戦争で区切って書いてる。
当然、孫権は赤壁からになるわけだ。

723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 21:42:01 ID:an30lQJZ0
>>721
大丈夫か?
黄祖と賀斉は別々の記述、区切ってあるだろ。
賀斉が鎮定したのは山越のほうだぞ。

724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 21:49:38 ID:a0OxJSyc0
>>723
ああ、言葉が足りなかったようだ
鎮圧した地域と合わせて六県を制定してるけどその置かれた県は大分離れたところ

何故に江夏方面には新しく政治区域を広げられないのかね
孫策生前に周瑜に江夏太守って話もあるけど、あれだってまだ支配下に収めてもいないのに勝手に言ってるだけだし

725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 22:53:46 ID:an30lQJZ0
>>724
すまん。与謝野の漫才を見てた。
新都郡は元からあったイ県、歙県それから、歙県の一部を四つに分けて
六県を郡に改めたわけだ。
歙県がでかいだけで大分離れるわけではないよ。

支配下に収めてないのに勝手に言ってるのは誰でもしてるんだが
なぜ、呉だけが責められる?

726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:04:16 ID:w/nDhHhI0
だから放棄して柴桑に戻ったっていってるじゃん。
で、夏口が孫呉の放棄後に後任太守の劉g・もしくは劉表勢力の軍に再び進駐されたなら、
正史・野史に記述があるだろうけど、知る限りまったくない。
江夏のボス・黄祖が斬られた後の軍ならば、相当にデカい規模のはず(記述があってしかるべき)。

つまり、無いということは・・・常識的に考えて無防備に行政だけ劉表勢力下に収まることはない。
推測的結論からすると、劉備劉gとその2万は、合意の下かor暗黙の下に空白地帯である夏口に
「仮の宿」を取った可能性が随分と高いと思う。


これをもってしても、江夏群の長江南岸を呉が後ほど所有したことが「劉備から奪って我が物」としたという主張は無理がないかい?
ID:an30lQJZ0氏もいっているが、中間決算である京城会見でまったく江夏の所有権の話が出てない事実からして、
劉備に江夏を「治めた」事実も「領有権」も無いと思うんだが?

727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:04:35 ID:a0OxJSyc0
>>725
責めてるんじゃない
実効支配出来てないから、江夏郡端っこでドンパチしてただけで
結局中まで進入できてないんじゃないかって話だ

728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:09:12 ID:a0OxJSyc0
>>726
その後の漢中戦直前の会議では江夏は呉の物だからと言う話を孫権がしてる

權令諸葛瑾報,更尋盟好,遂分荊州長沙、江夏、桂陽以東屬權,南郡、零陵、武陵以西屬備.

江夏の孫権所有が確定してるならこんな話題は出ない

729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:09:36 ID:uRcm6WGR0
>>726
史書に「無い」ことだけでそこまで言うのはどうかと思うよ
しかも夏口に兵が進駐した、ということは本当に「記述があってしかるべき」とまで言えるのかい?

君自身言ってるように孫氏は夏口を放棄したんだから、その後に江夏太守が夏口に入るのはごく当然の事柄じゃないかな
それをわざわざ「空白地帯である夏口に「仮の宿」を取った」などと解釈をするのはあまりに曲解じゃないか?

730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:14:04 ID:w/nDhHhI0
大体にしてID:a0OxJSyc0氏の主張は「関羽が北道を絶った」」から
・劉備の江陵包囲戦の貢献度が高い
・よって江陵包囲戦は孫劉共同作戦である
というものらしいが、
江陵包囲戦の前半である夷陵戦や、周瑜自身も重傷を負った包囲戦そのものに劉備軍が見えないこと
(強いて言えば張飛に1000を授けて周瑜に同行させたくらい)からして、「主体」(さっきからこの言葉を使い続けているので意図を汲んで欲しい)は
明らかに孫呉にあると思うね。



731 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:19:41 ID:a0OxJSyc0
>・劉備の江陵包囲戦の貢献度が高い
言ってない
ただ李通伝引用しただけ
劉備と周瑜で曹仁囲んで関羽が北道封鎖してた
までで一文だったからそうしただけ

この時期はどちらが主体じゃなくてどちらも主体となって共同作戦してただろうにってのが俺の主張

732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:21:50 ID:uRcm6WGR0
>>730
江陵を落とした「主体」は孫氏で問題ないと思うよ、俺も
南部四郡を落とした「主体」が劉備であるように

ただ、
>江陵包囲戦の前半である夷陵戦や、周瑜自身も重傷を負った包囲戦そのものに劉備軍が見えないこと
については、その後に君自身書いているように張飛が同行した記述もある以上、ほかに「見えない」だけでは論拠として弱すぎる

それに孫劉共同作戦であることと「主体」が孫氏であることは特に矛盾しないと思うので、そもそも君は何を主張したいのかよく分からないのだが

733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:22:29 ID:w/nDhHhI0
あのー、それは呂蒙侵攻で劉備が長沙・零陵・桂揚を取られて、劉備も成都からでばってきてイザ決戦!
ってときに曹操が漢中を落としたから泣く泣く長沙桂揚(+江夏)の主権を孫権に認めるという和議なんですけど。

つまり、本命のドンパチ相手である曹操戦を控え、改めて今後領土争いがないようにという建前で、
赤壁/江陵戦後に整理されていなかった暫定国境をハッキリさせ、曹操戦に集中するための確認のものじゃん。
もし劉備が江夏郡の領有権を主張するなら、周喩存命時・京城会見時・魯粛駐屯時に物申さないとおかしいでしょ?

734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:25:22 ID:w/nDhHhI0
ID:uRcm6WGR0
自分の主張を一切書いてない貴方が「気味の主張がわからん」とか言っても自家撞着ですよ?

書いてないことを主張するには、理に叶った推論が必要だけど、貴方は「書いてないからといって無かったとは断言できないじゃん」としか書いてない。
まったくもって意味不明。

735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:26:16 ID:an30lQJZ0
とりあえず江夏郡は北と南に分けられる。
南は黄祖のいた夏口。太守が守っていた城だから江夏の端っこではまったくない。
とりあえず、208年に孫権はここの城を一回落としてる。
北は後に文聘が守護していた所で孫権に一度も落とされたことがない。

南荊州を分割するんだから確定してても話題にはでるのは不思議ではないんだが。

736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:26:32 ID:a0OxJSyc0
>>733
元から江夏が孫権に帰してるなら国境線として確定さす必要はないだろ

737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:31:56 ID:w/nDhHhI0
書いてて自分の主張に矛盾を感じない?
貴方の主張によれば、江夏に何かしらの権利を持っているはずの劉備は呉に不法占拠されているのに、何故一度も物申してないの?

738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:34:40 ID:uRcm6WGR0
>>737
程イクが恐れていたとおり劉備と孫権が手を結んだ状態なんだから、これは不法占拠ではない
それだけのことじゃないか


739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:36:28 ID:w/nDhHhI0
そう、それだけのことだよね?
なのに江夏を劉備から奪って「我が物」にしたって主張が↑のほうにあったんだ。

740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:41:22 ID:an30lQJZ0
いや問題は夏口は孫権が放棄したあと、劉備達が入ったから
「所有権は劉備達にあるんだ」と、言ってるは分かるんだが
劉備も全軍だしてるし夏口を所有できる状態で赤壁、南部四郡をしてないぞ。

741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:43:33 ID:an30lQJZ0
>>740
>赤壁、南部四郡をしてないぞ。
赤壁戦、南部四郡戦なんてとてもできないぞ。

で、追加で
劉備達も夏口を放棄してる可能性があるな。

742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:49:34 ID:uRcm6WGR0
>>740
孫氏が夏口を放棄したあと、劉gが江夏太守となって夏口に赴任している
対立する太守もいないのだから、劉gが江夏を領有していることになんの問題も無い
赤壁の後、劉備が江陵、南部へ攻めていく前、江夏太守劉gは荊州刺史に遷っている
そして曹仁を撃退した後、程普が江夏太守になっている
この間の江夏太守は不明だなあ
劉gが劉備と共に攻めに出たのかもわからないし


743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:53:09 ID:an30lQJZ0
>>742
劉備一万に劉g一万で「劉備軍二万」として孫権と合同してるよ。

744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:54:50 ID:uRcm6WGR0
補足
どっちにしろ、赤壁後から当分の間は実質的には劉備たちと孫権は同盟関係にあった(劉備が服属したとも言える)から、
たとえ劉備たちが全軍挙げて夏口を出ていたとしても、それは放棄したとは言えないだろう
同盟者孫権に委ねたということになる

745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/01(木) 23:56:28 ID:a0OxJSyc0
>>739
我が物にしてるだろう?
何時の間にか同盟相手の拠点を自分の物にしてしまっているのだよ

当初は江陵の城攻めを周瑜だけで行ったので劉備は孫権に借りが出来たという>>704が居て
それに反論する>>706で「江夏を我が物としてるように孫権の行動」を見ると一方的な借りはむしろ孫権にあるという話だ

746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 00:01:15 ID:an30lQJZ0
ん?
だから兵糧などの後方支援は孫権からでてる可能性が高いといっているんだが。
それを孫権に一方的な借りというのは無理だよ。

747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 00:04:36 ID:l/Jxejkf0
>>745
我が物にしたのは間違ってないけど・・・
劉gが江夏太守を離れた時点から、そもそも劉備たちの拠点とは言えないよ
その後に平和裏に程普が太守になっている以上、いつの間にか、ではなく両者合意の下での孫氏の江夏領有があったんだとおもう

748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 03:47:56 ID:c8Fs6Pv9O
でだ、結局当初の話題である「シューユの天下二分策が最高だったお!」って妄言が
正しいか正しくないのかの結論は出たのか

749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 04:12:59 ID:ZHqZJNwL0
>>696
ぶっちゃけ魯粛は孫呉の軍事力をまるっきり信用していなかったと思う。

750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 06:25:02 ID:zsCoHSnG0
>>746
それを示す史料はないよ。

751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 08:24:01 ID:h4q5I2kv0
>>750

徐州で呂布に乗っ取られて後方支援が絶たれた状態で袁術と張り合っていた劉備軍は霧散して分解してる。
2万もの大規模な軍がつい半年前までボッロボロにやられた城に入った事自体が何らかのアテがあった証拠だろ。

史料が無いとかそれは推測の域を出ないとか言う輩に限って
筋が通った考察にはそれを唱えるだけど無力だよなw

752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 08:51:59 ID:Ui6VcoLv0
>>751
黄祖がボロボロにやられた城と劉備たちが入った城が同じ城かどうか怪しいけどな

753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 09:38:45 ID:CTIfLcc60
もりあがったのに、もうおわった?

754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 11:36:59 ID:ZudIn4qbO
1500

755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 20:21:26 ID:zsCoHSnG0
>>751
ボロボロにされた城に全く武器兵糧がなかったか疑問。
最前線であり、劉奇が一万の大軍をもって、
孫権に対処する為にこもっていたのだから、
十分な武器と兵糧が備蓄されていたと考えるのが妥当な考察。

アテとするなら、膨大な備蓄があったとすべき。
孫権が助けてくれるかどうかなんて、劉備にとってアテにはならない。
よって君のは、考察がおかしい。

756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 20:38:14 ID:N2/eMoDv0
>>755
呉主伝に「〜遂屠其城〜?其男女数万口」とあるんだ。
城にはまったく備蓄がないと見るほうが妥当で
劉備は劉奇がもってきた備蓄のみと見るほうが正しいのだが。

757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 20:59:13 ID:N2/eMoDv0
あと最初に当てにしたのは劉gでなくて江陵のほう。
これは曹操に追いつかれて確保できなかったが。

758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 21:20:47 ID:Ui6VcoLv0
>>756
その屠った城が江夏で劉キが駐屯してた城と同一であるか不明だっての

759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 21:31:18 ID:N2/eMoDv0
>>758
kwsk

760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 21:31:55 ID:l/Jxejkf0
>>756
>>758の言うように黄祖が殺され虐殺略奪された「城」が夏口という確証は無いはず
2仮に同じ城だとしても孫権が放棄した後に再度軍備を整えた可能性は否定できない
3夏口に十分な備蓄が無かったとしても、他に劉備たちが使える兵糧が無かったとは限らない

761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 21:46:14 ID:N2/eMoDv0
>>760
1むしろ江夏太守が夏口にいないでどこに居たというのか?
2たかが半年ほどでどれだけ確保できるのか?
3長期の遠征軍、2万もの大軍の準備を軽々しく考えてないか?

762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 22:09:23 ID:l/Jxejkf0
>>761
1について
三国志先主伝によると劉備と劉gは夏口に入る前に合流して、一緒に夏口に入っているね
だからそもそも夏口が劉g(さらには黄祖)の元々の拠点であったのかどうか疑わしいな
じゃあどこかと聞かれてもどこにも書いてないしわからんけど
2について
どれだけできるのか、具体例を挙げてもらえれば納得するよ
これはあくまでも「否定できない」だから、明確に否定してくれればこれ以上言う気はない
3について
劉備たちにとって荊州はホームであり遠征とは言えない
当時は「邸閣」という食料集積地が軍事拠点とは別にあったみたいだから、仮に江夏郡の拠点が被害を蒙っていても荊州に攻め込む際にはそこの兵糧を使ったかもしれないし、孫権の軍もそれを利用したかもしれないな
確証は無いが、兵糧等を全て呉からの補給線だけでまかなっていたというよりはずっと現実味がある推論じゃないかと思うんだけど

763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 22:16:47 ID:Ui6VcoLv0
>>761
夏口そのものは江夏郡の東の端っこの方じゃないか?
江夏郡は西陵が中心だろ
江夏郡の物資は夏口だけにあったとは考えにくいんだが
前線だから0とは言わんけど

764 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 22:19:23 ID:Ui6VcoLv0
>>762
黄祖にのみ限って言うと、夏口を前線の防衛拠点として江水を越えさせない戦い方をしてるようなので
まあ、根拠地とは言わないまでも拠点の一つとしてたってのは間違ってないとは思う

765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 22:25:18 ID:l/Jxejkf0
>>764
なるほど
拠点の一つではあったが、夏口だけが拠点ではない、と
後に程普は沙羨を治所としているから、劉gも沙羨にいたかな、なんて妄想をしてみた

766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 22:52:42 ID:INh0XZn20
>>749
どうなんだろ。
少なくとも、赤壁直前の状況は、孫呉の戦力の冷静な分析とびこして、
「男なら、戦って死ね」みたいな感じだけどね。
魯粛、かなり男伊達な性格だしね。
「オレ、別に曹操に降伏してもいいんだけど。自分の才能なら、郡太守ぐらいにすぐなれちゃうからさ。
殿はどうする?」
みたいなことはなかなかいえないよな。

それから、魯粛って長阪で劉備に会って、夏口までそのまま一緒に逃げている。
劉備とともに必死に逃げ回ったんだろうな。





767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 23:17:35 ID:N2/eMoDv0
劉gに関しては劉表の危篤にすぐに面会してるから
のちに魏領になる江夏北部および西部にいた可能性が高いね。
黄祖は甘寧伝に「黄祖在夏口」とあるし、ほかの伝にも夏口に居たと書かれてるんだが。

沙羨なんて長江の南側とてもじゃないが劉gがいることなんて無理だ。

劉gも曹操に追われて夏口で劉備と合流したような記述があるし、
やはり、夏口は空白地帯で根拠地ではなくあくまで合流地点でしかなく
江夏郡も曹操の手がある程度伸びていただろうし。

768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/02(金) 23:49:05 ID:l/Jxejkf0
>>767
ああ、失礼した
確かに甘寧伝注呉書とかに夏口にいたことが見えるね

ただ、沙羨と夏口ってそれほど離れてないけど、そんなに無理があるかな?
まあ、劉gが沙羨から夏口へ行ったとすると漢水を通る劉備とは夏口まで合流しないから、先主伝の記述と合わないな
劉gはまだ江夏郡に赴任する前、あるいは途中だったのかね

769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 00:00:03 ID:w4WiF9lu0
魏の江夏太守の文聘が守ってた所と同じか近い所が一番無理がないように
思えるが。
それで、曹操から逃げて夏口で劉備と合流。
だから、この時点で根拠地は放棄してる可能性があると。

770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 01:12:29 ID:w4WiF9lu0
すでに>>711で、出てるな。
キチンと読まず、w/nDhHhI0を無視するようなレスをして申し訳ない。
しばらく大人しくしてます。

771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 01:24:11 ID:SlUTQmtb0
三国志孫策伝注、呉録に載せる孫策の上表によれば、黄祖はこのとき沙羨に駐屯していたそうな
夏口と沙羨はそれほど離れてもいないから、この二箇所はどちらかだけが江夏郡の拠点というわけじゃなく、どっちも長江沿いの重要拠点だった、ということかね

772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 01:31:16 ID:w4WiF9lu0
>>771
孫ぽこ様の呉書見聞に詳しい考察があるので
たぶん、そちらを見たほうが早いと思われます。

773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 17:15:39 ID:CB5zcWKq0
>>767
劉gは曹操から逃げたといっても、曹操−劉g間での戦争があった記述は伺えない上に、
文聘が江夏の太守となったのは劉備が夏口逃走後なので、
劉gの夏口への移動は曹操来訪の情報を入手したので、とりあえずは兵士と軍需物資を引き連れての
守りやすい地域への避難じゃねーかと。
だから単に根拠地を手放したってのはちと違う気がする。

あと上の話題であった孫権軍の劉備軍への食糧供給の件だが、
多少の供給があっても、孫権軍が主体的に行ったってのは無いと思うな。
劉gの物資+劉備軍の物資(被害はあるだろうが)+荊州名士と豪族の援助の可能性から
そこまで短期間のうちに欠乏する事は無いだろうと思う。
また劉備が独自に荊州南部へ侵攻してる点を見るに、
劉備が孫権から供給を受けてるとするならそんな事で出来ないんじゃねーかとし。


774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 23:52:51 ID:FTPuMZV00
>>773
キミの理論は少々おかしくないかい?
>劉gは曹操から逃げたといっても、曹操−劉g間での戦争があった記述は伺えない上に、
>劉gの夏口への移動は曹操来訪の情報を入手したので、とりあえずは兵士と軍需物資を引き連れての
>守りやすい地域への避難じゃねーかと。
>>767は「曹操に追われた上に」と言ってるだけなので、戦火を交えて逃れたとは一言もいってない。
むしろニュアンスから「曹操の圧迫から逃れるために」というような、キミが言ってることとまったく同じと思うんだが。

>だから単に根拠地を手放したってのはちと違う気がする。
これを根拠地を手放したと言わずになんていうのかな?


>多少の供給があっても、孫権軍が主体的に行ったってのは無いと思うな。
これが主張。問題ない。

>劉gの物資+劉備軍の物資(被害はあるだろうが)+荊州名士と豪族の援助の可能性から
これが主張を裏付ける説。
劉gと劉備の「物資」が如何ほどかまったく不明。両者とも圧迫されて逃げてるので準備周到に○ヶ月分の兵糧を計算している可能性は低い。
「荊州名士と豪族の援助」これにいたっては根拠がまったくない。一帯何処の誰から2万人の兵を養うのに補う物資を貰えるの?
「名士・豪族」という不特定多数の固有名詞には説得力がない。

>そこまで短期間のうちに欠乏する事は無いだろうと思う。
これが結論。
三段論法の「結」部分だけど、あまりにも自分の「こうあってほしい」という姿を元に論を展開しているために、難がある。


ちなみに>>767本人じゃないけど。
主張:江夏は圧迫されていたので劉gは夏口に逃げた。夏口は荒廃していただろうから、呉から劉劉に支援があった。

裏付け@:劉備は江陵への道中で魯粛と会って順路を変えて夏口を目指しているから、親劉備の劉gも兵を連れて目指したのはおかしくない
裏付けA:夏口は前年〜当年にかけて呉に落とされ放棄されてるので、@の「魯粛に会った」ことから敢えて荒れている可能性がある夏口を目指したことは
なんらかの支援約束があった可能性が高い。
裏付けB:そもそも劉gに至っては夏口にわざわざ行く理由がほとんど無い。いくら江夏北部がダイレクトに脅威に晒されているからといいて、
城邑・領民を捨てて戦争の準備がより難しいであろう黄祖が戦争で負けた土地に行くより、そのまま降伏か居城で篭城したほうがまだマシである可能性が高い。

結論:やはり蒼悟(呉巨だっけ?)や交州を頼るより、「恐らく」荒れて兵糧の不安もあっただろう夏口に行ったことは呉の支援があったことを伺わせる。


ディベートっていうのは、当事者同士が歩み寄ることはなく、どちらかが決定的な無知か誤りを突きつけられないかぎり永久に結論を出さない。
つまりはディベートととは、第三者にどっちの論が説得力を持つものなのか、討論を通じて判断してもらうものだ。
いままで読んだ限り、俺は「呉派」(?)に論説展開の破綻・矛盾のなさで軍配が上がると思う。
恐らく劉備派(?)は「呉にそれほど世話になってない!」という感情が底に流れているのが隠しきれずに理論的に書ききれていないと思うよ。

775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 01:55:21 ID:gUGto3Hl0
>>774
いやアンタのも憶測でしかないというかおかしな点がある

>裏付けA:夏口は前年〜当年にかけて呉に落とされ放棄されてるので、@の「魯粛に会った」ことから敢えて荒れている可能性がある夏口を目指したことは
>なんらかの支援約束があった可能性が高い。
魯粛は独断で色々やらかしちゃってるからその後に色々揉めてるだろ
あの時点では夏口に呉の援助なるものがある可能性はほとんどないよ
もし、そんなコンセンサスが魯粛と孫権の間で取れていたなら、魯粛が孫権を便所に連れ込む必要なんかなかったんだよ

>裏付けB:そもそも劉gに至っては夏口にわざわざ行く理由がほとんど無い。いくら江夏北部がダイレクトに脅威に晒されているからといいて、
>城邑・領民を捨てて戦争の準備がより難しいであろう黄祖が戦争で負けた土地に行くより、そのまま降伏か居城で篭城したほうがまだマシである可能性が高い。
親劉備という事がそれ以前の跡目争いで判明してる劉gがそんなゆるい立場だと思うのかね?
とっ捕まればg君だって明日をも知れぬ身なのだが…

>結論:やはり蒼悟(呉巨だっけ?)や交州を頼るより、「恐らく」荒れて兵糧の不安もあっただろう夏口に行ったことは呉の支援があったことを伺わせる。
これ交州行きってのは抗戦止めて亡命するって事だろ
当時、亡命先に交州を選んでる人は他にも居るしな

776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 18:51:19 ID:HK9Z43Xt0
>>775
>裏付けA
この時点だとたしかに魯粛の独断だね。
でも、「魯粛の独断」の時だけで劉備も急激に変わる状況でその援助を
受けるために必死になってたはずだと思うよ。そのあとの諸葛亮の大出世とか。

>裏付けB
むしろ、劉gが親の仇である孫権に近づく理由はなに。
劉gにとっては曹操よりも孫権のほうがやばいのに。

>亡命するって事だろ
これが一番酷い。先主伝を全否定ですか?

777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 22:56:10 ID:TpZktRlX0
>>774
追われたっていう表現一つでも、敗走と自主的な移動ではその内容が変わってくる。
767と俺の主張の違いを端的に書けば、劉gの移動は実際の被害を伴った移動ではなく、
あくまで根拠地内での戦略的な移動であるという事。
ただし一つ断っておくと、それは=夏口に生産的要素があると主張してる訳ではないからね。
また物資に関しては言えば、劉備・劉gは共に対曹操・対孫権の最前線に駐屯していた人物。
その彼等が相応の軍需物資を備蓄してるのが当然だし、輸送も船を使っての輸送が
可能な地域であるという点も考慮すれば相当の物資を持ち出せた可能性はむしろ高い。
また豪族の支援ってのは赤壁以後にあったんでないかとね、劉gや劉備は荊州の勢力と結びつきが強く、
現実に多くの荊州出身者を抱える訳だから、その関係で援助を受けれた可能性は非常に高いと思う。

>裏づけ
そもそも裏付けの根拠が劉備と劉gが絶対的に欠乏してる状態であるという前提が前面に押し出しすぎでは?
魯粛との支援的約束の可能性は否定しないが、問題はその規模。
魯粛と出会ったのは当陽で、劉備が江陵を目指してたのと前後してる時期だが
劉備は襲撃を受けて漢津に逃れてる点から、その前の可能性が高い。
だから魯粛に出会ったから進路を変えたというのがそもそも微妙であり、
少なくとも魯粛は劉備が進路を変えるほどの(つまり孫権が主体と成るような)援助は提案してないのでは?
また劉gの動きに関しては理由が無いんじゃなくて、貴方が無い方向に考えてるだけでは?
少なくとも劉gは新野に曹操が到着した時点で南に向けて移動しており、
この動きに劉備が関わった形跡が無く、その時間も無いであろう事から
劉gは元々の構想として元来の駐屯地で防戦も降伏もする気は無く、
劉備と出会ったベン水付近(それが夏口だったかまでは不明だが)で防衛するつもりだったんだろう。

物資に関してもっと言えば、赤壁以降に劉備軍が独自に四郡を落として支配下に治めるみたいな行為を、
物資の供給元の孫権軍(特に周瑜)がそれを認めるとは思えんのよ。
また劉璋なんかはハッキリと援助の内容までも書かれてるのに、孫権側にその記述が無い事自体が不自然。

778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 23:22:44 ID:HK9Z43Xt0
>>777
いくら思えないって言っても先主伝の江表伝注(たしかにあやしいが)で
南部四郡を治めるのを許可してんじゃん。

779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 23:26:46 ID:4i7TwVnf0
そりゃー・・・
>そもそも裏付けの根拠が劉備と劉gが絶対的に欠乏してる状態であるという前提が前面に押し出しすぎでは?

夏口が最近破壊されてる+劉gは劉表危篤時にすぐ駆けつけられた(持ち場を離れることが出来た)+夏口に駐屯していた可能性が低い

だから物資が仮に江夏のどこかにあったとしても、持ち出すのはかなり難しい。
張魯が倉を焼き払おうという進言を受けたように、急な脱出の場合には資材を持ち出すより、敵に渡らないように破壊を最初に考えるものだから。
これが劉gが(当面の物資は兎も角として)「貧していた」可能性の推察。
逆にこの状態で充足的だったと考えるほうが不自然だと思う。

劉備はハン城に駐屯していて、曹操の南下を直前まで知らされていなかったんだから、距離的余裕からも尚更用意が難しいだろうということになる。
劉備の「持ち出し」についていえば。関羽が軍船数百隻を持ち出したのは明らかになっている。
ところが劉備も関羽も道中で襲撃を受けて敗戦しているので、プラス材料にはならない。


まぁ、「貧していた」というのが語弊を呼んでいるんだろう。
ここでは誰も明日の兵糧にも事欠く窮乏だとは言っていない(ハズ)。
何故侵略を受けた夏口なのか?
という素朴な疑問があり、それに答える推測として孫権の存在を読んでるんだと思う。


780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 01:28:09 ID:vwwjjyqk0
>>776
いや2に関しては全部お前の希望的推測でしかないでしょ
一介の弔問の使いだった魯粛が数万を支える物資を動かす権限持ってたとでも?

781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 01:35:58 ID:vwwjjyqk0
>>776
それから3への返答で先主伝全否定とかいうけど、交州へ行きたいってのは注釈にしか出てこないんだよ
その上「昔馴染みなのでツテを頼ってみようかな」程度
昔馴染みが行き成り劉備に力を貸して曹操と戦ってくれるとでも?
独断で魯粛が「孫権と組もう」って言うまで劉備は逃亡する気だったわけだ

夏口に劉備が逃げたのは、むしろ孫権との密約があったからじゃなくて
曹操を使って済し崩し的に孫権と同盟成立させんが為と考えた方がまだ辻褄が合う

782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 01:40:03 ID:vwwjjyqk0
おっと、その3は劉gに関してだったな
亡命の話は別枠だね
訂正してお詫び申し上げる

それから劉gが孫権に近付く理由というけど
孫堅の仇は劉表と黄祖であって劉gは直接的な仇ではないし
当時、主体として動いていたのは劉備であって劉gはむしろ物と人を持った余禄に近い

783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 12:17:19 ID:oOkzEq200
>>778
江表伝にあるのはあくまで南郡攻略後に荊州数郡を貸し付けたって記事だからなあ・・・。
実際に占領を行ったのが劉備軍であり、孫権側がその軍事行動に一切関わった形成が無く、
孫権が統治していた形跡も無いので、これは事後の威圧外交の一環だと思うんだよね。
つまり孫権軍が物資だけを提供し、劉備の独自の軍事行動を承認していたってのとはまた違うと。

>>779
まず物資は江夏の何処か〜っていう曖昧な場所には無いと思うんだけど。
というのも劉gは一万という纏まった数を動員して移動してる点から、
その兵数に対応するだけの食料を手元においていたと考えるのが妥当では?
(これは蛇足だが、夏口が最近破壊されてるっていうのが逆に、黄祖の後任として当る劉gが
その補填分の兵数と物資を襄陽から連れて行った可能性を生み出してるとも思うんだよね)
そして張魯との比較だが、張魯は曹操と実際に交戦中であり敗れて逃れようとする最中の話。
対して劉gは未だに曹操と戦火を交える前の話であり、場所も補給が困難な巴中に対し
水路が豊富な荊州であり、持ち出せる量も運ぶ労力も全然違うので、その比較適切ではないかと。

次に劉備に関しては時間的余裕の無さや、実際に被害を受けた記述があるので仰るとおりだが。
関羽軍に関してはそれなりの規模の軍勢を維持していた点から、そこまでの被害ではないかと予想する。
とはいえ773でも書いたとおり差っ引く必要はあるが。

食料の充足の程度だが、俺もそこまで充足であったとは考えてはいない。
半年分くらいであったと思う、だが逆に半年程経てば戦場は江陵付近へ移動するんで、
補給の要素も増えると思うんだよね。
また夏口への移動に孫権の存在があったのは当然だろうが、それは=孫権軍の物資援助に結びつかないかと。

784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 14:10:47 ID:wdUqCxPn0
>>780
それなら一介の弔問の使いだった魯粛が勝手に同盟を組む権限も
もってはないはな。と史書を否定することはやめて
外交官が権限がないから「本国に聞かなきゃ駄目です」って言ってたら
伝書鳩より使えん。
国の利益と損失を考えてその場で独断する権限は持ち合わせてる。
例えば、刎頚の交わりの藺相如が独断で動いていたのと同じで
逆に動けない今の日本外交官のほうが失格だよ。

>>782
直接的な仇ではないが関羽にホウ徳が殺されたことでその息子の
ホウ会が復讐で関羽の一族全てを根絶やしにしてるからなあ。
直接的でなければ関係ないという理屈は中国人には通用しないかと。
あと余禄ならば最初は劉備にくっついて江陵へ行こうとしたの?
それとも、劉備は江陵で劉gは夏口とバラバラに守るつもりだったの?

>>783
同盟国に断りもなく勝手に占領なんて行うほうが大事件だと思うが。
そのあとも江陵も貸してくれと言っているから独自に動いてるほうが
不自然でないか?

785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 14:58:54 ID:vwwjjyqk0
>>784
そこで実際に魯粛は物資を動かせたのかが問題何、言ってるんだこいつ

786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 15:01:22 ID:oOkzEq200
>>784
断りの有無の問題ではなく、
孫呉が劉備軍の軍事行動に伴う物資を殆ど援助し、
四郡制圧を助けながらも、その結果得た領土の要求さえ行わない。
っていうのがおかしいって話だよ。
そりゃ流石に軍事作戦上、劉備軍が勝手に動き回るというのは有り得ないでしょう。
ただ問題は劉備軍が自前で物資を用意した上で、四郡を攻略する作戦を打診するのと
あくまで孫呉の物資の上に四郡を攻略する作戦を打診するのとでは、
劉備軍の立ち位置や呉の対応が全然違ってくるし、そこまでの援助があれば多少なりとも記述されるだろう。
またそんなにも物資が欠乏してる劉備軍が勢力としての体を保てるかは大いに疑問。

787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 15:18:14 ID:wdUqCxPn0
>>786
そりゃ、呉書に書いてあるように劉備が同盟国という均等関係でなく
属国に近い同盟だからでしょ。
働きに応じての報酬。南部四郡を制圧していいよと。
そのあとの京城の会談にしろ周瑜が死ぬまで劉備と孫権は対等ではないんだから。

788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 15:37:55 ID:0rYM5+h90
四郡侵攻の件(孫権黙認?)だけど、
折角得た江陵を魯粛がアッサリ劉備に貸してるところが、周瑜死後の呉の限界。

どっかに「江陵〜江夏〜長沙付近は呉と劉備の領土が入り混じって存在していた」って書いてあったサイトがあったな。
もともと江陵・江夏・武陵・零陵・長沙・桂揚はそれぞれ分配するつもりだったんだろう。
魯粛が江陵撤退するまで、四郡が完全に劉備の物だったとするのは一考を要する。

ところが周瑜が死んだら分配どころか、江陵の維持も覚束無い事実が発覚して柴桑豫章にもっとも近い江夏だけを固めることに専念した、と。

そう考えると、江陵戦は曹操撃退の為の戦ではなくて、荊南を孤立させる楔撃ちの戦いじゃなかったのか?
いくら江陵が喉元に突きつけられた刃といっても、軍艦を完全に喪失した魏に再度の侵攻は考えられにくい。
しかし江陵を奪えば曹操から任命された勢力は逃げることも援軍を呼ぶこともできない。

789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 15:47:17 ID:rMEpQzM20
>>787
それは違うとおもうよ
両者は対等な関係とは言えないんだが、かといって属国というのも違うだろう
軍事力では孫>劉だし、曹操を破った功労という点でも孫>劉だ
しかし、荊州刺史は劉gだし、実際に荊州の士民の支持を受けていたのは間違いなく劉備
孫権は孫権で、劉g・劉備を尊重しないと荊州に入り曹操を追い出すこともままならなかった
荊南4郡はもちろん江夏、江陵だって名目上は荊州刺史の支配下に入るんだから、荊州領内の発言権に関しては劉>孫ということになる
そもそも孫権は劉表にとっては連年侵攻してくる宿敵だし

劉備と孫権、どちらか一方だけでは赤壁での勝利も江陵まで奪うことも覚束なかったんだから、孫・劉の関係はそんな単純な上下関係じゃない

790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 18:46:08 ID:wdUqCxPn0
とりあえず、周瑜が赤壁から江陵戦までの報酬でもらった奉邑が
下雋、漢昌、劉陽、州陵と江夏から長沙にかけて貰っている。
漢昌、劉陽なんて長沙郡の土地をもし、劉備が独自で荊南四郡を
得ていたら、横から奪っているんだからなんらかの事が、史書に
載って然るべきなんじゃないか?

791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 18:58:58 ID:rMEpQzM20
>>790
だから、どっちかが取った、取られたという関係じゃあないということだと思うよ。
赤壁戦に共同で臨み、同じく一緒に江陵まで進軍したあたりからは、
あえて言うなら孫権と劉備が共に劉gを神輿にいただく関係。
どっちかが従属したというわけでも、対等な独立勢力同士が同盟したわけでもない。
両方で荊州を共有しているようなものだ。
だから荊南を劉備が落としてから周瑜に奉邑を与えられることもあったし、
周瑜が落とした江陵を劉備に与えるという話も生まれる。

792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 20:05:09 ID:wdUqCxPn0
>>791
たしかに連立政権みたいなもんだが実質の上位は孫権にあるんじゃないか。
荊州の借受や単刀会見なんかでそれが見えるんだが。

793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 20:17:21 ID:8B9M6z9wO
長沙分割に関しては、単に劉備も4群全てを占領出来た訳ではないってだけでは?
場所も南群付近だし。
むしろ逆に孫権(周瑜)が援助した上での共同作戦だとしたら殆どの部分を劉備が手に入れてる形になり、
とてもじゃないがあり得ない結果。
これこそ正史本体に記述があって良いくらいの出来事だと思うが。

794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 20:22:02 ID:rRRXK0gx0
つーか、ホウ統伝に劉備が周瑜の助けを得て荊州を取ったって書かれてる。

795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 20:58:21 ID:WSel1OZM0
>>789
>荊州刺史は劉g
そうだったっけ?

もっと言ってしまうと、劉gって劉表の後継者ですらない立場だったはずじゃあ?

796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 22:43:41 ID:rMEpQzM20
>>795
なったのは赤壁に勝利〜江陵進軍の前だな
それ以前の立場は江夏太守なので、孫権からすれば江夏郡領内を平穏に移動したかったら尊重せざるを得ない相手には違いは無い
あと、劉gは劉表に後継者としては扱われなかったけれど、
諸葛亮とのエピソードが示すように本人も周囲もある種の期待はしていたようだし、
本来の後継者が曹操に降伏してしまった以上、荊州において曹操に反抗しようとする勢力の旗頭はまず劉gでしょう

797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 23:12:17 ID:8B9M6z9wO
>>794
書いてるね。
ただしその援助の内容、
例えば曹仁と戦っていた事なのか?
攻略にあたっての物資の援助なのか?
それに+して軍事的な援助があったのか?
あるいは赤壁を指しているのか?
そこら辺が不明では今の議論の解決にならないのでは?

798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 23:28:29 ID:wdUqCxPn0
>>797
ん?「先主取荊州」なんて表現を曹仁戦や赤壁で使った事あった?

799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 02:51:14 ID:+/gOdfr00
李厳って当時まだ20代じゃない?

800 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 13:51:44 ID:36TZysvV0
関羽以外の適任者は張飛以外いないし攻め込まれたら
誰が守っていても荊州は奪われたってことでOK

801 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 16:49:18 ID:JY4KP2sm0
>>800
ログくらい読んでから書きこむべきでは?

802 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 19:36:48 ID:2cl3fXEd0
>>793
周ユがとったという記述がないんだから、
劉備が取ったと判断するのが妥当。

803 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 21:54:56 ID:kHuxC0Zn0
>>783
二万人の半年分の食料ってかなりの量じゃね。
昔の日本だと一年で一人一石(米俵で二俵と半分、だいたい150s)で
米俵で二万五千、重さで1500tさらに弓矢などの軍事品を合わせたら
半端ない重量だと軍の半分が輜重隊になって、いくら水路があって
持ち出せやすいと言っても陸路もあるしかなり無理がないか?
こんだけ凄いと孫子も兵站を重視するのも頷ける。

804 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 22:10:43 ID:5GBH3eja0
>>803
兵数の半分は輜重担当
これは当時の軍事の常識

805 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 22:53:58 ID:kHuxC0Zn0
>>804
問題はほとんどが劉g軍が運んでいるという事なんだが。
鎧とか武器の重量を合わせたら一人頭200sぐらいの負担。
無理がねーか?

806 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 22:59:41 ID:uRR3Y1Lo0
江夏郡の物資をほとんど孫氏が持ち去ったか破壊し尽くしたということがまず無理がある
夏口は破壊し略奪したかもしれないが、江夏郡だけでも他の城がある
邸閣だってあったかもしれない
そこを頼りにすればいいだけのこと

夏口には物資は無い≠劉gや劉備が使える物資はまるで無い
これをイコールで結ぼうとすると突飛な話になる

807 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 23:16:08 ID:kHuxC0Zn0
>>806
考え方がちと違う。
江夏郡の南部を孫氏が荒らし、北部は曹操が確保しているということだ。
だから、劉gが他の城を頼りするのは、それ相応の理由がなければキツイ。

808 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 23:18:34 ID:2cl3fXEd0
つか劉奇が入った時点で、
十分な物資があるとすべきだろう。
孫権と対峙するわけなんだから、十分持久戦をするだけのたくわえがないわけがない。

809 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 23:25:02 ID:uRR3Y1Lo0
>>807
南部の夏口以外も相当な被害を受けたという根拠は?
後に郡治になった沙羨など、南部にも県はいくつもあるよね
これらほとんどがまるで用を成さないくらいにまで荒らされたの?
もちろん物資が確実に有る、または輸送したという確たる証拠はないんだが、曹操が攻め込む前から劉gは江夏入りしているんだから、少なくとも孫権を頼らずとも兵糧や物資の何らかのあてはあったと思うよ

810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 23:30:01 ID:kHuxC0Zn0
>>808
>>809
その前に曹操が攻めてくるまでに劉gは江夏のどこら辺にいたと思うの?

811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 23:37:21 ID:5GBH3eja0
>>810
夏口だわな
となると、簡潔に言って孫氏に備える劉gが何も無しで徒手空拳で居るとも思えないというか
劉表政権にとって重要な防衛線に兵士と物資を配備はしてるということになる
それと、劉備が逃げ回ってる間に劉gが物資を運搬出来る程度の時間的余裕はあるように見受けられるんだが
そもそも江夏郡は夏口に向けての輸送ルートをある程度確立しているのだから
江夏に物資が無かったと言うのは本格的に無理だらけ

812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 23:39:13 ID:uRR3Y1Lo0
>>810
どこにいたんだろうが、少なくともこれから赴任するところだったんだから、黄祖死亡後の劉表存命時点からあてがあったことに変わりは無いよ
809はそういうつもりで書いた

813 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 00:43:20 ID:hcPchPxh0
意味わかってねー奴多いな。
解ってたら「何処にいようが」とか書くはずないもんな。

@後にブンペイが治めた北岸地帯にいた(見舞いからして信憑性が高い)
A夏口ではないが南岸にいた
B夏口にいた(最重要拠点を放置して見舞いですか・・・)

@ならば、ある程度の軍事力以外に「アテ」などない(もともと孫権の射程内じゃないから・・・しかしある程度は補強しただろう)
Aならば、江夏郡OK準備万端よ〜っていってる人達にもっとも近い状況になる(Bほどではないが、かなりの兵力を動員することになる)
Bならば、黄祖死亡後に大軍を擁して再駐屯した(こうなると曹操が収めた荊州兵は大幅に減るはずだが・・・関連する記述がまったくない)

しかし、江夏郡の最重要拠点を滅ぼされてるのに江夏が大丈夫だったっていってる人達はネジがとんでるの?


814 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 00:49:36 ID:miYs3ZzD0
>>813
最重要拠点は郡の中枢
夏口は前線基地

ネジ飛んでるのはお前

815 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 00:49:58 ID:hcPchPxh0
とくに、ABのケースならば、後継者争いに敗れかけている劉gに大軍を預けるという、

「劉表を見舞おうとしたけど、信任を得らせたらまずいので追い返した」

という事実と矛盾しるぎる点を無視してるのはワザとか?
大体、敗れた黄祖の後任として南岸に赴任するならば、黄祖以上の兵を持つはずだ。
そんなことあるはずないだろ。

この矛盾を解決する唯一の筋は、それほど軍備を必要としない江夏北岸に赴任し、総勢1万を得たということだろ。

816 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 01:00:07 ID:5lhTY7R80
>>815
矛盾するという理由が分からない
黄祖の後任なんだから、その兵は黄祖の握っていた江夏郡の兵(≒黄祖の私兵)だろ
黄祖が破れ主なしになった江夏兵を接収したんだろうな
これまで劉表でさえ一目置かざるを得なかった黄祖の地盤と残党を血縁者で抑えることができるんだから、後継者争いという要素を含めても劉表にとって劉gに江夏を抑えさせるメリットは大きい

黄祖の兵より多いか少ないかにそんなこだわる理由も分からないな
黄祖が負けたのは兵数だけの問題でもないだろうし、そもそも兵は湧いて出てこないんだから、少数だろうがなんだろうが要地に赴任せざるを得ない場合はある
兵が少なかろうがなんだろうが別に不思議でもなんでもない

817 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 01:10:16 ID:ezifgPFE0
>>816
遇表長子江夏太守g?萬餘人,與?到夏口

818 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 02:48:47 ID:ezifgPFE0
やはり、劉gは江夏郡北岸地帯にいて、
曹操南征時に劉備とともに資源の豊富な江陵へ逃げるつもりだったが、
長坂で劉備が叩かれ漢水で合流でそのまま夏口に逃げたと。
これが一番矛盾が少ない。

819 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 10:51:51 ID:dfyuuJS20
で、結局、赤壁での劉備と孫権の貢献度はそれぞれどれくらいなわけ?

おれは劉備3:孫権7ぐらいかと。

ポイントは孫権が独力で曹操を撃破できたかどうかだとおもうけど。
できなかった気もする。二万でも、あの状況なら、劉備の兵力も貴重だろ。



820 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 12:15:40 ID:CpZSvtvWO
無理に数字で表すなら俺も7:3くらいだと思う
赤壁で勝って曹操の東進を阻むだけなら孫権だけでできた気がするが、江陵を落とすのは独力ではできなかったと思う
劉備の割合は3かそれ以下だとしても、その3は孫権の荊州進出には不可欠な3

821 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 15:50:14 ID:PwKf+Ibw0
俺は5:5くらいだな

目に見える兵士とかだけで考えると孫権の方が貢献度高いけど
曹操を退くに退けない状況に引き擦り込んだ劉表死後の劉備の妖しい動き方を評価したいから

822 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 20:00:02 ID:R3je6dgR0
>>815
高祖以上の兵力を預けられてても、別に不思議でもないし、
兵力が下回っていたとしても、それなら十分な武装と食料はあるとするのが妥当。
でないと、国境線を支えきれない。
>>817
赤壁に限れば、9:1くらいじゃないかな。もちろん孫権が9
ただ孫権の総兵力がいまいち不明なので、楊州でどれだけの兵力を動員できたかによるね。
5,6万程度なら、劉備の比率はかなり上がる。

ただその後の荊州攻略まで含めれば、五分といったところ、
荊州攻略だけなら、劉備が七以上でも妥当かなと。

823 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 12:49:22 ID:Rv2apTvr0
演義で劉備7:孫権3になっているのが、そもそもの混乱のはじまり。

824 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 21:14:44 ID:UoDhBxg90
とりあえず、208年の劉gの挙動は面白かった。
劉備のおまけのイメージが強かったけど結構、波乱万丈の人生なんだね。

825 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 21:24:13 ID:Sw0Qbmux0
>>824
波乱万丈だね

そう言えば劉gって劉表の今際の際には襄陽にいたんだな

826 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 21:47:55 ID:itEavboPO
>>825
みたいだね
問題なのが劉表が危篤だから飛んできたのか
別件で来ていた時にたまたま劉表が危篤になったのかわからわないんだっけ?

827 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 23:59:51 ID:2IjdJcjr0
話を蒸し返すようで悪いけど・・・

劉gがいたから江夏は大丈夫だったって主張してた人は降伏したの?
これらの人々は
1)江夏郡太守/黄祖の後任ならば軍も物資も準備万端だった
2)仮に夏口が破壊されていたとしても、他の南部拠点は破壊されたという証拠がない
3)飢える心配や軍需物資の心配があるなら夏口に行くはずがない
3)水利ネットワークにより軍需物資の運搬は不可能ではない
4)夏口が破壊されている可能性があるから、貧する可能性があり、だから孫権の援助があったというのは短絡的で突飛すぎ
まとめると大体において以上のような主張をしていると伺える。



1)後継者/権力闘争に敗れて中央からハブられている劉gに、主流派は孫権軍を跳ね返すような強力な軍事力を与えるのか?

 ・もし与えたとしたら、有力者の殆どが支持して後継者がほぼ決まった劉jと支援がほとんど無い劉gが国を二分する可能性を秘めることになる
 袁紹家の分裂と決定的に違う点は、袁紹家は有力者が二派に分かれたために分裂が可能であったが、劉表家は有力者が纏まっているために
 敗者に力の裏付けがまったくないはず。なのに劉gに軍事力が行くとなるとまったく不可解で珍妙なことになる。

 ・上記に対して合理的な説を辿ろうとすると、孫権軍は大したことなく比較的少数でも十分守りうることができるということか、
 孫権軍に侵攻されてもまったく問題がないということか、或いは劉gに軍事力を与える意味に気がつかない馬鹿しかいなかったということしかない。

 ・しかし、孫権軍は黄祖を打ち破ったので「大したこと無いand比較的少数でも守られる」という事実は無い。、
 「侵攻されてもまったく問題がないとい」うことは、孫権が数年の間に計4回に渡って執拗に江夏を攻め立てた事実に反するし、
 劉表政権下で強い力を持つ士人豪族が自分たちの領土に攻められても構わないという姿勢を見せるはずがない。

 ・最後に残るのは劉j一派が政権奪取の嬉しさのあまりに馬鹿をしたという、甚だ説得力に欠ける論だけ。

2)仮に破壊されたのが夏口だったとしても、他の拠点には軍需物資が豊富(或いは充足的)だったとすると、
  黄祖は戦力の逐次投入という愚を長年に渡って行いながらも孫権軍を撃退し続けたことになる。
  何故かというと(当たり前だが)、臨戦区域に於いて軍がそれ程居ない拠点に軍需物資を集積させるはずがなく、
  軍需物資があったとするとそこには軍が一定の規模で存在することになり、黄祖が敗北後にそれが健在となると・・・
  黄祖は何を思ってか、待機中の軍がまだ近辺にありながらも使用しなかったことになる。

3)心配が無いということは、何かが合ったor何かがある予定があったということで、正に今議論していること。
  劉gの軍需物資等があったという証明には何一つならない。

4)蔵から持ち出したのちに津まで運搬し、津から城まで運搬して蔵に収める。
 2万人分もの軍需物資の運搬を「水利」という便利な言葉で解決しようとしても、当時のインフラでは計画的に時間を使ってやらないと無理がありる。
 この説の合理的な裏付けは唯一「劉gは前もって物資の集積と運搬手段を整えていた」という説で、一見説得力があるようにみえるが・・・
 前にも言ったように後継者争いに敗れた人間が、かのような軍事行動を隠密に行えるはずがない。
 監軍等に発覚し、中央に届けられたら即処罰モノである。

5)突飛とはA+B+C=Dという式でABCの内容をまったく説明もソース裏付けもしないことを指す。
 ABCを史実背景や断片化されたソースから洗い出して紡ぎ、Dという推測結果を出すのは突飛でもなんでもない。

さあ、どうぞ。
 

828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 00:13:44 ID:5JyYCDwr0
>>827
くどい

829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 00:32:42 ID:PJpAUsK80
結局、答えられないんでしょ?

くだらないレスつけるより無視するほうがまだましだよ^^

830 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 00:41:06 ID:GYKQQAp70
>>826
重篤と聞いて慌てて戻ってきたが、蔡瑁と張允が
「もし親子が顔を合わせたら相通じる所があって後継者を劉gにすると言い出しかねない」
という事で「将軍殿、貴方の役目は親父さんの見舞いじゃなくて、江夏の防衛だろ?職務放棄のが親不孝だぞ」と言って追い返した
そして跡目を継いだ劉jは兄に同情して劉gに牧の印綬を渡した

>>827
劉表生前は確定どころかまだ幾らでも引っ繰り返る状況
そして江夏防衛は本当にやってたようだし、さらに曹操南下時には劉gは荊州牧の印綬持ってる
この辺考えると劉gは曹操の南下時に、瞬時に動かせる兵士と船、それから食料を印綬使って動かしてると考えられるね

831 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 01:15:06 ID:PJpAUsK80
>>830

>そして跡目を継いだ劉jは兄に同情して劉gに牧の印綬を渡した

渡したといわれるのは候の印綬。牧の印綬を与えることはいろんな意味で不可能。
後に劉備の上奏で荊州刺史になっている。


>劉表生前は確定どころかまだ幾らでも引っ繰り返る状況

孤立無援。襄陽を離れた時点で敗北してる。
劉jを推す人物はいくらでも挙げれるが、劉gを推した人物は一人も記述されていない。
そして劉表政権が蔡氏を始めとする士人豪族一派で成り立っている以上、その一派の意向を無視することはできない。

>そして江夏防衛は本当にやってたようだし

長江の南に逃れたと記述されている。つまり北にいたということ。

>さらに曹操南下時には劉gは荊州牧の印綬持ってる

持っていない。

>この辺考えると劉gは曹操の南下時に、瞬時に動かせる兵士と船、それから食料を印綬使って動かしてると考えられるね

「瞬時に動かせる兵士と船」は太守だから当然ある程度は持っていただろうが、印綬は何も関係ないのでそれ以上のことは考えられない。

832 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 01:52:29 ID:GYKQQAp70
おっと、侯が牧を継ぐのが普通だったから侯の印綬ってのを貰った=正しい跡目の証拠で
何時の間にか脳内で牧の印綬貰った事に変換されてたようだ
侯ってのが有名無実化するのは魏からなので結局侯でも関係あるんだけどな

833 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 01:59:34 ID:GYKQQAp70
>>831
>>劉表生前は確定どころかまだ幾らでも引っ繰り返る状況
>孤立無援。襄陽を離れた時点で敗北してる。
>劉jを推す人物はいくらでも挙げれるが、劉gを推した人物は一人も記述されていない。
>そして劉表政権が蔡氏を始めとする士人豪族一派で成り立っている以上、その一派の意向を無視することはできない。

あのさー、一言で引っ繰り返るからって蔡瑁たちが戦々恐々としてるって事はまだ全然確定してないってことなのよ?
史書に残ってないだけで長幼の序を大事にする人らが厳然とした勢力として残ってたと考える方が妥当でしょ
完全に内を固めたと思ったらそんなビクビクしないって


834 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 02:08:00 ID:vzkMtpcUO
「最後に書き込んだ方が勝ち」と思ってるような相手に何言っても無駄

835 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 03:06:46 ID:PJpAUsK80
>>832

荊州牧の跡目を継いだ劉jが劉gに牧の印綬を渡すってことは、どんなに脳内変換しても無駄だろ・・・
まぁこれはいいとして、

>>833
>あのさー、一言で引っ繰り返るからって蔡瑁たちが戦々恐々としてるって事はまだ全然確定してないってことなのよ?

ニュアンスとしては、99%コトがうまく運んでいるのに余計な要素をいれないとしてる、と読めるんだが?
特に本文に「劉jを跡継ぎとするために劉gを江夏に出して、諸々は劉jを後継とした」って書いてある後だからね。

>史書に残ってないだけで長幼の序を大事にする人らが厳然とした勢力として残ってたと考える方が妥当でしょ

妥当かもしれないけど、その某諸氏勢力は蔡氏より発言力が強いわけ?妥当と思うならそれ相応の話を繋げてよ。
本文には劉jを推したてた荊州有力者がズラーっと書かれてるけど、この勢力と敵対する劉g後援者がいたなら証拠か相応の推論があるんだよね?
間違いなく劉jと劉gは敵対したって書いてあるんだから。

>完全に内を固めたと思ったらそんなビクビクしないって

ちなみに先主伝の英雄記注に斐松之は「劉表は常日頃から劉jを愛して後継に立てる計画をもっていた」と入れている。
先の「蔡瑁たちが戦々恐々」とつながるけど、どう読んでもただ単に万が一の不確定要素を排除しただけだね。


>>834

ID:GYKQQAp70氏は論を展開してるけど、あなたは何がしたいの?
論争で相手の人格を貶めるようなことしか言えないことを表にだると、あなたと同じ主張をしてる人たち全員の品格が落ちるよ?


836 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 03:11:53 ID:GYKQQAp70
>>835
その不確定要素で引っ繰り返る程状況は流動的だったという事なんだが

837 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 03:30:33 ID:PJpAUsK80
>>836

流動的?
「計画的に劉gを江夏に出して、中央から遠ざけて劉jを後継とする」
これに劉表が加担していないとでも?

蔡瑁がクローズアップされているけど、これは劉表のプランでもあるんだよね。
嫡子を外に出すなんてことを承認できるのは劉表だけだから。

蔡瑁たちは危篤で健全な判断ができないかもしれない劉表を、自分たちの敵対者である劉gとあわせる理由が何一つない。
万が一血迷って「情にほだされて」何か言うかもしれないし、逆に劉gが何かを「言わさせる」かもしれない。
よくあることだが、臨終の際に「俺が遺言を受けた」っていう輩もいるしね。
だからこういう排除行動にでることは別におかしくないし、何一つ流動的なものはない。


流動的というのは劉表が何時までたっても劉gか劉jかで迷っているという状態を指すんだ。
曹丕と曹植が太子指名を受けていない間は「流動的」だろう。
しかし、曹丕が太子指名を受けた後に「もしかして撤回されて曹植にくるかも」という想像上の事態を流動的というかね?
残念なことにあなた主張してることは、劉jが指名を受けた後の祭りなんじゃないかな。

838 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 03:48:24 ID:GYKQQAp70
>>837
曹操親子の時も王太子に曹丕が指名された後も魏の豪族連中は曹植を担ぎ上げようとして
超大物まで粛清されてやっと大人しくなったじゃないか
んなもん実際に継いでしまうまでは常に流動的なんだよ

839 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 09:40:35 ID:5JyYCDwr0
>>838
どっちかというと、継いでしまっても外された側が健在のうちは流動的なままなんじゃない?
劉g自身、諸葛亮の「重耳は外にいて助かりました」という言葉に従って江夏行きを願い出ているから、いつか自分が後を継ぐ日が来ることを期待しているわけだし

後漢書劉表伝から拾うと、建安13年の劉gの行動はこういう順番だよな
1:春、江夏太守黄祖死亡
2:諸葛亮に相談
3:江夏太守を願い出る
4:江夏に赴任
5:劉表病臥
6:劉表の看病に行くが入れてもらえない
7:8月、劉表死亡
8:侯印を投げつける
9:9月、曹操新野に侵攻
10:江南へ逃げる
劉gは一旦は江夏へ実際に赴任し、父の病臥を聞いて戻ってきたんだな
どこを拠点にしてたのかはわからんけど
で、ちょうど父関係で襄陽方面に行っていたところで曹操侵攻に出くわし、劉備とは別ルートで逃げたら、途中で出会った

840 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 10:03:52 ID:++cEj8ib0
>>839
一応劉備は劉表死亡時に樊城にいるので、もしかすると劉gと何らかの接点があるかもな
というかこの辺で1回でもコンタクト取ってないと後で合流する理由がわからん

841 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 10:48:54 ID:5JyYCDwr0
>>840
曹操から逃げる時の劉備たちの行動は不思議いっぱいだからなあ
・劉gと絶妙のタイミングで遭遇
・関羽が乗る兵1万人分の船はどっから調達したのか
・江陵に簡単に入れるような印象だが南郡太守は誰だったのか

842 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 16:18:32 ID:DAF8MyFO0
>>837
曹丕と曹植は例えに出すには間違ってる。
こいつ等は本人以外に師として大物の豪族や士大夫が付いてるんだから
負ければ一族冷や飯食らいか、へたをすれば殺される。

しかし、将軍経験がない(少ない?)劉gがほんとに最前線に向かったなら、
荊州にある程度の将軍職の人事移動があると思うんだが?
呉のほうでもまだ曹操が動いてない状態で仇敵の息子が最前線を強化
するなら大事件のはずなんだがそれに関する記述はないし。

843 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 16:58:32 ID:PJpAUsK80

江表伝には赴任先は長江北側とある。
曰く、曹操が来たので長江を渡って南に逃げたと。
地図を見ればわかるが、当時の対孫権最前線でもなんでもない。


>>839
1:春、江夏太守黄祖死亡
2:諸葛亮に相談(かなりマユツバ)
3:江夏太守を願い出る(劉表の任命であって志願ではない。江表伝のマユツバ記事に一つあるだけで他の多数の伝や注には志願など書かれていない)
4:江夏北部に赴任
5:劉表病臥
6:劉表の看病に行くが入れてもらえない
7:江夏に戻る
8:8月、劉表死亡
9:実父の葬式なのでどんなにこじつけても追い返せないだろうから襄陽に行ったと思われる
10:侯印を投げつける
11:また江夏にもどったか、襄陽に滞在したか不明
12:9月、曹操新野に侵攻
13:江南へ逃げる


11で襄陽に滞在していた(喪や新体制人事などの関係で可能性が高い)ならば、劉備と示し合わせることは可能。
滞在していなければ、劉備が魯粛と会ってから夏口に行くことを伝えてもらった可能性がある。

襄陽滞在していた
@劉備と示し合わせ
A劉備が江陵、劉gが夏口(または夏口を通過点としてさらに動いて劉備と合流)
B劉備が江陵断念・魯粛の件で呉に近い夏口へ
C両者夏口で合流

このパターンだともっとも矛盾する点が、劉備は当初夏口にいくつもりも呉にいくつもりでもなく、
蒼梧に行くつもりだったので、劉gのそこまでの移動がほとんど不可能であったということ。


襄陽から一度江夏北部に帰った
@劉備は江陵に、劉gは夏口にバラバラと
A劉備が江陵断念・魯粛の件で呉に近い場所へ移動
BA劉gも逃亡したことを知って夏口で合流
or
BB劉gはこの時点では逃げていなかったが、劉備と連絡を取って夏口で合流

このパターンだと、劉gは手勢1万分の当面の物資は運搬したはずだが、
劉備と合流するつもりがなかったか、或いはかなり突然のことなので劉備分の準備はできない。

844 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 17:21:06 ID:++cEj8ib0
>>843
マユツバ?
諸葛亮伝本文に記載されてるけどな
って書かれているし

相談の時系列が間違ってるんだよな、そもそも
208年以前?〜黄祖死亡前、諸葛亮に相談、「陰に出計を規す」
208春、黄祖死亡
208春、江夏太守になる

845 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 17:22:25 ID:DAF8MyFO0
>>843
先主伝にベン水(漢水)を渡ってから劉gと合流したと書いてある。
関羽と合流して共に江陵に向かうつもりはなかったのかな?

846 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 19:14:29 ID:DAF8MyFO0
>>826
劉表伝だと、「g歸省疾」劉gは劉表が危篤になったから帰ったとかいてあるな。

847 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 20:05:48 ID:0vzjtDZf0
>>803
ずっと陸路ならね。(まあ陸路にしたって完全に人力で運ぶわけも無いんだが)
船に積んじゃえば別に担がなくても良い訳だから、
例えば2000トン運ぶにしても5千人で一人10キロの荷物を40回往復すれば積み込みは終わる。
こうするとそこまで無理な数字でもないと思うが。

848 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 20:26:39 ID:0vzjtDZf0
>>827
全部は長くなるんで部分的に反論します。

>(1)
論を飛躍させすぎだと思うな。
劉g軍の十分な軍備=孫健軍を単独で撃退出来る、って主張してる人はまず居ないでしょう。
『劉g軍の十分な軍備』の意味するところは赤壁時の劉g軍一万+劉備軍
を一時的に維持できる事の出来る程度の軍備。
また兵数一万+αは赤壁時で3万がやっとの孫権軍に易々と抜かれる程度の軍備ではないし、
総兵力10万以上とされてる荊州の中央が過剰に警戒する必要のない程度の、
実にちょうど良い軍備ではないかと思う。

>(4)
当時のインフラではどの様な点に無理があるのか?そこらへんを具体的にお願いしたい。
長江、またその一帯の河川は古来より運搬に使われてる場所で、
そこまで運搬に無理がある土地とは思えないが…。
また軍需物資の集積と運搬手段についての軍事行動を劉gが隠密に行う必要は無い。
何故なら黄祖の後任である以上、再び最前線になりうる夏口を防衛する計画を
整えるのはむしろ劉gの正当な職務であり義務。

849 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 20:40:44 ID:DAF8MyFO0
>>847
船何隻ぐらい?

850 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 20:46:11 ID:wSl5+6oh0
記述されないのを妄想で補って、
その仮説から、さらに仮説を立てる人はなにがしたいのでしょうか。
都合の悪いことは、記述がないから、そう判断できない、
というのなら、そもそも記述がないんだから、
食料を孫権が出したってのも、ありえないでしょ。
食料を提供、少なくとも万単位の軍を養う食料を、
孫権が提供したなら、何らかの記述があってしかるべきだよ。

851 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 20:58:06 ID:wSl5+6oh0
んで物理的に難しいというのは、
そのまま孫権にも当てはまる。
水運を使っても、それはかなり難しい、
荊州から送るよりもね。
当時の孫権にそこまでの援助をする理由があるのか。
また孫権がそこまでやるだけの権力と権限があったのか、
そしてそこまでのことをして、一切記述がないのはなぜなのか。

普通は劉備が自分で徴発したか、
膨大な物資が蓄積されていたから、劉備がそこに逃げ込んだ、と考えるべきだよ。

852 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 21:02:39 ID:5JyYCDwr0
>>850
つまり、それを言いたい人は、
「孫権は食料まで出した。劉備は完全に配下になっていた。落としたのは劉備でも荊州に関する権利は全て孫権にあるんだ」
みたいなことを導きたいんでしょう。

853 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 21:04:38 ID:0vzjtDZf0
>>849
そこまでは分からない、なんせ具体的に何艘持っていたかの記述は無いし。
まあ劉備の例を参考にするなら船数百ってところになるかと。

854 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 21:27:49 ID:wSl5+6oh0
>>852
そこまでして孫権を擁護したい理由がわからんなあ。
信者とはそういうもんなのか?

855 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 21:47:50 ID:DAF8MyFO0
>>853
劉備の船数百の場合は兵隊1万分じゃないの?
劉gは兵+兵糧だし。

856 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:02:47 ID:PJpAUsK80
>>848
>劉g軍の十分な軍備=孫健軍を単独で撃退出来る、って主張してる人はまず居ないでしょう。
え?
さっきからずっと撃退に十分な兵力を持っていたという主張が上がってるけど?
こで議題とされているのは、劉gが対孫権のために夏口又は夏口ではない江夏南部に駐屯していたならば、
孫権を撃退できる兵力を持っていたか否かだよ?
こう主張はじめたのも「十分だった派」だからね。

>劉g軍の十分な軍備』の意味するところは赤壁時の劉g軍一万+劉備軍
>を一時的に維持できる事の出来る程度の軍備
だからその根拠は?

>また兵数一万+αは赤壁時で3万がやっとの孫権軍に易々と抜かれる程度の軍備ではないし
そういう黄祖が破られてるのは無視?
ちなみに孫権の総兵力は3万じゃないしね。
周瑜に委任できた兵力が3万という意味で赤壁直後には江陵戦に3万、合肥・徐州に?万と二正面作戦も可能だったんですけど。


>総兵力10万以上とされてる荊州
ソースか予測の元となってるソース希望。
曹操が吸収した兵力は7万とされている。劉gの1万を合わせると8万にしかならない。

>また軍需物資の集積と運搬手段についての軍事行動を劉gが隠密に行う必要は無い。
あるんだけど?太守風情が勝手に2万人分もの兵糧の軍事的移送を行えるとおもってんの?

>当時のインフラではどの様な点に無理があるのか?そこらへんを具体的にお願いしたい。
>長江、またその一帯の河川は古来より運搬に使われてる場所で、
>そこまで運搬に無理がある土地とは思えないが…。
船を運用するにも物資を船に運びこむのも、それから津で降ろして目的地まで運びこむのも全部人海戦術ですが?
ここでは誰も「無理」とはいってないの。わかる?
突発的にやることが無理だっていってるのさ。


>何故なら黄祖の後任である以上、再び最前線になりうる夏口を防衛する計画を
>整えるのはむしろ劉gの正当な職務であり義務。
だから劉gは夏口に赴任もしてないし、防衛もしてないって。
ログ読むことをお勧めする。というか、ログを読まずに議論に参加してもかき回すだけだよ。



857 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:05:03 ID:5JyYCDwr0
>>854
まあ、もう自分でも何を主張したいのか分からなくなってる可能性もあるけどな
自論が総反論されて頭に血が昇っちゃってるだけなのかもしれないし

858 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:06:32 ID:PJpAUsK80
>>852
キーワードを書き換えたら、そのまま自分たちに当てはまるって気がついた?
気がついてたら書くわけないよねw

議論を資料的に・理論的に行えない者が最後に縋るのは、
いつも「相手のレッテル張り」「人格攻撃」と相場がきまってるけど、見事にステレオタイプとして見せてくれてありがとう。


859 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:09:51 ID:5JyYCDwr0
ところで劉gは劉表を看病しようとしたときから、曹操が来るまで襄陽から去っていないんじゃないかと思えて仕方ないんだが

860 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:14:09 ID:DAF8MyFO0
>>856
一個だけ間違い。
>総兵力10万以上
8万+劉備1万+退却時殺された兵、逃兵んでそんくらい行く。
あとは、だいたい同意しとく。

861 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:14:50 ID:DAF8MyFO0
>>859
劉表伝だと帰ってる。

862 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:18:47 ID:5JyYCDwr0
>>861
やっぱそうか
「将に喪に奔るに因りて難を作さんとす」(後漢書劉表伝)って、実際に江夏を離れて襄陽で行われるであろう葬儀に行く途上のことだったんだろうか

863 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:25:22 ID:DAF8MyFO0
>>862
劉表伝読んでるなら分かるだろうけど、劉gは曹操が新野に来た時に
江南に逃げてんだよね。
なんか今一劉gの動きが不明だ。

864 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:30:53 ID:5JyYCDwr0
>>863
夏口も江の南側という意味では江南だからねえ
孫権に助けを求めたという意味なのか、夏口に逃げたという意味なのか
まあこの二つは意味が極めて近くなるんだろうけど

865 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 22:44:16 ID:PJpAUsK80
ところでID:5JyYCDwr0氏はなにがしたいの・・・?

最初は「くどい」という素敵な一言で颯爽と登場して、
私(ID:2IjdJcjr0とID:PJpAUsK80)に部分的な反論をするが、一貫して議論には参加していない。

淡々と事実や間違いの指摘をするも、ID:5JyYCDwr0氏らには懐疑的なID:DAF8MyFO0氏と馴れ合いを始める・・・



まぁこれはどうでもいいとして、まだ>>827に対するまともな反論が出てないのですが、どうでしょうか?
出てきたのは筋が通った論ではなく、
ただ単に否定のための否定を繰り返すものや既に根拠が失われたものや、感情論を飛び越えた低俗なものばかりじゃないですかね?

866 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 23:12:00 ID:RGk+LL5tO
>>856
君こそスレを見返してみては?
孫権を単独で撃退できる兵力を有してた、なんて主張してる人は居ない。
ただ君だけがそう言ってる。

黄祖が敗れたのは兵力よりも、甘寧の件などの本人の問題が大きい。
また孫権の兵力にしても楊州の防衛を考えるとやはり三万が限界なんでしょう。
わざわざ赤壁で出し惜しみする意味が無いし、後の荊州侵攻もその位の兵力。
対して荊州の総兵力は劉表伝に書いてある。

夏口に赴任してた、などとは書いていない。よく読んで欲しい。
夏口が未だ呉領でない以上は、再びその近辺が戦地になる可能性は高く、
兵一万+αを有してる責任者にとってみれば、半年二万程度の物資は不測の事態を考慮して、備蓄してしかるべき量でしょう。
例えば一年単位の籠城、来年の不作、とかね。
また劉備でさえある程度物資を持ち出してる様子であり、
直接曹操と交戦した訳ではなく、かつ上記の様な背景を考慮すれば突発的ではあっても決して無理ではないと予測するが。

あとすまないが、これから暫くは都合上返信できない。

867 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 23:56:57 ID:PJpAUsK80
>>866
返信しなくていいから読んでみ

まず流れとして「孫権から何かしらの援助か約束があったよ派」は、
大体として「劉gは黄祖の後任ではない」としている。
江夏太守としては後任だが、夏口が破棄されたことからして、当時の孫権がそれ以上の侵攻は当時望んでいなかったことが明らかだ。
それに加えて、劉gが長江北岸に拠点を構えたことから、劉gは別に対孫権の最前線を担う意味での後任でないと主張してる。

ところが、「劉gと劉備は自前で賄えたよ派」は
・夏口にいたかもしれないor夏口ではない南部にいたかもしれないor江夏のどこかにいた
という主張をもってして、準備ができていた(準備をしうる能力があった)との根拠としている。
これが「劉gと劉備は自前で賄えたよ派」の誤謬その一。
明確に「江南に逃げた」「漢水を渡って〜」とあるならば(+諸々の状況証拠、過去レス参照)、
自然と赴任先は江夏北部となり対孫権とはダイレクトに関係がない。

つまり「孫権を単独で撃退できる兵力を有してた・していなかった」とは、誤謬その一に乗っかった議論なわけだ。
この議論を派生させた(「孫権から何かしらの援助か約束があったよ派」は前提が違うので提起する意味がない)のは紛れもなく
「劉gと劉備は自前で賄えたよ派」であり、一歩譲って仮にそうだとしたら当年に黄祖が斬殺されている役目を果たすための軍が、
黄祖のそれ以下ということは到底考えにくい。

こういう必然的推測のもとに「大規模」にならざるを得ない劉g軍だが、
何故か「劉gと劉備は自前で賄えたよ派」は誤謬の前提から派生した議論を続け、終いには「別にそんなに大規模じゃなくていい」と言い出す。
普通に考えて百戦錬磨の黄祖が負けたんだから、青っちょろい実戦未経験の劉gがもし対孫権最前線の後任につくなら大規模にならざるを得ないのに。
こいういうところは都合よくスルーされるらしい。

ところで「劉gと劉備は自前で賄えたよ派」は何故大規模ではなかったとこだわるかというと、劉gは劉jとの後継争いにほぼ敗北した、
中央からみると獅子身中の虫であり、強い軍権が渡されるわけがないという指摘があったためだ(劉gの後継争いも「まだ負けたわけではない」という意見もあったが)。


ここまで整理しても流れが理解できないかな?

868 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 05:09:42 ID:z91G6InXO
ハラヘッタ

869 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 05:11:40 ID:t+N3IxZh0
>>856
>こう主張はじめたのも「十分だった派」だからね。

あなたの意見に反発している人が、同一人物、もしくは同一の意見を持った集団であり、
みな同じ見解を持っているとするのは、おかしいですよ。

ちなみに私は、単独で援軍がくるまでは、撃破は無理だが、支えきれるという説ですね。
そしてそれを可能とする十分な軍備の備蓄があり、
だからこそ、それを宛てにして、劉備が逃げ込んだとしている。

>だからその根拠は?

でないと、一万と劉奇が無駄になるんだが。
最低でも篭城して、援軍がくるまでは支えきれないと、一万もの大軍を常駐させる忌みはない。

>そういう黄祖が破られてるのは無視?

彼の軍閥のみで、10年近くほぼ単独で防いでいるのをみると、
さほど大軍をそっちに向けるのは不可能だったかと、本拠の防衛や合肥方面の防衛もあるしね。

>曹操が吸収した兵力は7万とされている。劉gの1万を合わせると8万にしかならない。

劉備が一万の兵をもっていたし、
全てが曹操に服属したわけでもないわけだから、10万以上は確実かと。
後に劉備にかなりの逃亡兵が合流しており、曹操に従わなかったものもいるとおもわれ。
各地の守備兵も考えると、もっと増えるかな。

>突発的にやることが無理だっていってるのさ。

孫権にも丸々当てはまりますな。
>>867
あなたにレスをする人が、同一人物とは限らない。
言うことがころころ変わるんじゃない、
複数存在しているとなぜ分からない。


870 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 07:31:17 ID:RFWD/J2/0
>>869
ログをキチンと読み直す事を進める。
あなたがまず先にツッコまなきゃいけないのは
>孫権を単独で撃退できる兵力を有してた、なんて主張してる人は居ない。
と、言ってる人たち。そこから
>あなたの意見に反発している人が、同一人物、もしくは同一の意見を持った集団であり、
>みな同じ見解を持っているとするのは、おかしいですよ。
に繋げたほう良い。

871 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 15:23:03 ID:SMF/BDKb0
>>867
>当時の孫権がそれ以上の侵攻は当時望んでいなかったことが明らかだ。
何処が明らかなのか?
それは黄祖を討った時点では単に夏口を維持できる体制を整えることが出来なかったというだけで、
魯粛伝や甘寧伝を見る限りでは孫呉の方針は荊州併呑で一貫している。
これを前提によってたつ論の方がはるかに誤謬だろう。

>・夏口にいたかもしれないor夏口ではない南部にいたかもしれないor江夏のどこかにいた
おいおい、前者2つはともかく最後の『江夏のどこかにいた』を一緒くたに誤謬で纏めるなよ。
文聘伝や地図を参照すれば分かるが、江夏北部が孫権とダイレクトに関係ない、というのが既に間違い。
川を下れば夏口まで一直線であるし、石陽なんて夏口と目と鼻の先。
だからこそ文聘は赤壁以前に対呉の押さえとして江夏太守に任命されてる。
つまり「江南に逃げた」「漢水を渡って〜」という記述だけでは対孫権というのは否定されない。
というか引用元の後漢書劉表伝から引けば劉gの赴任は黄祖の後任であり、典略においても
東の固めとして江夏に赴任している記述があり、対孫権の抑えであることは確実。

以上をもって、君が誤謬として部分はそもそも間違いであり、
大規模化せざるを得ない、到底考えにくいという君の予測もまた現実に劉gが兵一万しか動かせなかった事実と
照らし合わせてみれば、単に君の予測が間違っているだけの話。
(まあ劉gは赴任してまだ一年もたってないので、これから大規模化をする予定だったのかもしれないが
少なくともあの時点では多く見積もっても兵一万+α程度しかいない)
スルーとかいう以前の問題。
そして荊州内部の勢力比に関する俺の立場は、兵一万+α程度ならば合計10万以上の荊州内部では一割程度で
中央にとってみれば過剰警戒するほどの勢力ではないと書いた。

読ましてもらったが、纏めてるつまりなんだろうが869が言うとおり違う立場、違う人物の発言から君の都合のいい部分を拾い上げただけで
突っ込みどころ満載の纏めで、正直話にならないと感じる。
俺は夏口に居たと主張した事はないし、またスレを見渡しても>孫権を単独で撃退できる兵力を有してた、と書いてある部分もなかった。
あるならば改めてその部分を指摘してほしいし、真に孫権が物資を賄っているならば何らかの記述があるはずという
意見をスルーしてるのも頂けないな。
あとすまないがネット環境が無いんでまた暫くは反論出来ない

872 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 17:24:28 ID:RFWD/J2/0
>>717
>>755
>>811


873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 17:26:24 ID:RFWD/J2/0
>>778
>>794


874 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 20:12:34 ID:z91G6InXO
>>873
許可してるのか
劉備は呉から1万借りて制圧したんだっけ?

875 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 22:06:56 ID:t+N3IxZh0
>>872
なにがいいたいのかわからない、
もしかしてそれが、
>孫権を単独で撃退できる兵力を有してた、なんて主張してる人
だとでもいうのかい?
だとしたら、文意が読み取れないとしか言いようがない。

876 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 23:47:17 ID:yxkihOj00
>>707あたりから全部通して読んでみたが、
おまえら両方とも根拠の不明確な推論を前提に議論してるじゃん。
あるのは解釈の違いだけ。
無駄な議論を何時まで続ける気なのだろうか?
カネもなしにようやるわ。

877 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 00:04:21 ID:ilQ1tJTX0
>>874
張飛と1000人の精鋭貸すからお前の2000人の兵士貸せよつって劉備が周瑜とよくわからない取引したりもしてるしな

>>872
>>717の1万も常備してたら孫権は国境抜けないって言ってるが
1万常備と1万だけで抑えるのは別の意味ね?
常備って言葉の意味をもう少し考えて
>>755の対処するのに十分って援軍来ないというのは別の話だよね
>>811は徒手空拳で対応出来ないんだから対応出来るように何か持って行くとしか言ってないよね
対応=持ってる兵独力だけでの撃退とはどこにも書いてない
もうちょっと文章読もうね

878 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 02:07:43 ID:XtciYriq0
>>877
あれは作戦だろ、兵の交換じゃなくて、
張飛と千の兵と、劉備が兵かりて前後からはさむというね。

後段は同意、つか俺のレスもあるなw
篭城を前提としたものだから、十分な食料と武器の備蓄がないと、
話にならんって話であって、単独で撃破するって話じゃなかったんだが、
俺の文章力が駄目だったんだろう。


879 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/12(月) 21:35:02 ID:IHeB4su/0
>>871
867じゃないがあったよ派が長江北岸と主張での反論で
なかったよ派が江夏のどこかにいたじゃないのか?
じゃないと意味が繋がないと思うんだが。

なんか議論が飛んでいるように思えるのだが、
一つ、孫権が江夏を我が物にした。
二つ、江夏太守劉gはどこに居たのか。
三つ、劉備軍に援助があったのか。
四つ、劉備は独自に荊州を取った。
かな?しかし良スレだが見事にスレ違いだなw

880 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 07:00:44 ID:ZrLnAMUA0
語るのはいいけど結局皆何が言いたいのか分からんです。
論破しようとしてはじめたけど決着が付かずおさまりも付かず今までってんならもう止めたらどうで?
結局1800年も前の歴史観なんて人それぞれなんだから相手の意見も尊重しようね

881 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 11:19:33 ID:TL/BJTA50
>結局1800年も前の歴史観なんて人それぞれなんだから
そういう相対化は良くない

882 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 12:55:51 ID:BnICM5pi0
>>879
1→赤壁戦後、確かに何でか孫権が江夏支
2→江夏郡に駐屯、ただし劉表死亡直前に襄陽に来ていた
3→劉備に対して孫権から何か援助があるとすれば散々紛糾した会議の後が自然
4→赤壁戦後のどこかの時期まで劉備と孫権は同一の勢力として動いていた
荊州南部四郡を攻めているのは共同で江陵を囲んでいる時期なので、この時期はまだ袂を分かっていないだろうと考えられる

883 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 13:05:53 ID:rmdilzDhO
やっと読み終わった
結構高度な論争で見てて面白い

いいぞ、もっとやれ

884 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 21:27:57 ID:kx227VTq0
そういや援助と言えば劉備が曹操の下に居た時は書かれてるけど
袁紹の下に居た時は書かれてないね。

>>882
演義だと荊州南部四郡を攻めている時と江陵を囲んでいる時は一緒だけど
正史だとずれてないか?

885 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 21:37:03 ID:BnICM5pi0
先主表g為荊州刺史,又南征四郡.

というわけで南部四郡攻める前に劉gは生きてた
ところが、周瑜が江陵を落として南郡太守を領する時、何故か劉備も荊州牧になっている
いくら劉備でも前年に奏上した劉gの地位を即座に我が物にしたりないだろ
江陵を落としてる間に劉gが死んでいるということになる
江陵陥落前に、南部四郡は攻め落とされてたってことだ

886 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 21:45:15 ID:kx227VTq0
>>885
即レスサンクス。
でも、周瑜が江陵を落としてすぐに南郡太守にではなく
ある程度落ち着いてから任命だったらそこまでおかしくはないと思うが。

887 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 21:47:13 ID:BnICM5pi0
>>886
武帝紀を読んでみると曹操が帰還して即座に劉備が南部四郡を制圧したかのようにも読めてしまう
荊南はかなり電撃的に制圧したんではないかと考えられるのよね

888 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 23:06:47 ID:iGwZWhVS0
>>874
面白いよな
江表伝では終始劉備が孫権から「借りる」ような内容になってて、
蜀書本文では孫権たちは劉備を「助けた」ことになってる。助けたということは荊州取りの主体は劉備ということになるんだよな

889 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 23:32:18 ID:pSF9QdCX0
呉の夏口を放棄自体が仮定の話なんだけどな。
劉gが江夏太守=夏口に赴任という罠に嵌ってるだけで、
会議が柴桑だからとかは確定した証拠ではないんだよな。

890 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 11:56:08 ID:4LnBjEM20
>>887
ぶっちゃけ荊南は遠い。
曹操軍にだって兵力まで送る余裕はない。
劉備軍追撃の時点でかなり無理をしているし兵站が続かない。

891 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 12:07:43 ID:wzySAFh30
>>890
その為に南部四郡に太守を置いたのだけども
江陵を包囲されて南部四郡が完全に孤立してる状態だからすぐ落ちたんだろうな

892 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 13:43:45 ID:VPpxl/mk0
>>891
先主伝註や劉巴伝を読めば分かるけど、
中央から送り込まれたことが確定してるのは武陵の金旋のみ。
そして長沙、零陵、桂陽を納めるために曹操から劉巴が使者として派遣された。

893 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 23:12:21 ID:zxN0lwZM0
結論1(スレタイの趣旨)

敢えて「関羽以外の人」が荊州を守るならば張飛しかいない。
しかし結果は張飛でも他の誰でも同じようなもであっただろう。

結論2(督荊州関羽の性格)

関羽は軍権を持っていたが、内政・外交にはなんら権限がなかった。
軍権にしても「独断専任権」ではなく、劉備(中央政府)の指示に沿った計画の実行役にすぎなかった。

結論3(北上作戦総括)

関羽は北上作戦で比較的健闘したが、魏に勝つ術がなかった。
漢中方面の限界や後詰め存在がないこと、対孫権の二正面作戦を強いられたことから、北上即ち荊州喪失を意味した。
ただし、北上しなかったら荊州を失わなかった可能性が高い。

結論4(蛇足)

赤壁前後の江夏が充足的ではなかった状況証拠があるが、これをもってして孫権の援助があったと確定できない。
しかし孫権の援助があった確証が無いことが、劉備が充足的であった証拠にはならない。

結論5
何故か呉、特に周瑜の話題が出ると荒れる傾向がある。
このレベルのスレに「蜀ファン」程度の人間がいるのが驚きである。

894 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 05:25:47 ID:GjZBCBNr0
いや、関羽のミスは捕虜の扱いだとおもうよ。
あれを降伏勧告代わりに、城門のところでなで斬りにしとけばよかった。
今なら助けるとね。
そうしとけば、関羽は自軍に相当する捕虜の食糧問題と、監視人員で頭を悩ませることもなかった。
従来道理の輸送計画と、兵員で包囲を続行でき。陥落させられた可能性は高い。

だが捕虜を受け入れてしまったため、消費食料が倍増、
関羽を助けた(もしくは上手く利用した)水害が逆に食料輸送を難しくさせ、
捕虜の輸送おも困難にした。
皮肉にも今度は関羽の首を絞めることとなり、孫権から食料略奪を行い、
外交関係も悪化させてしまった。
長引く水害と、食料の欠乏が、兵の士気を衰えさせたことが敗因の第一だろう。

それに記述を読む限り、一戦して敗れたので、引いたようにも見える、
ぶつかったのが関羽が直接率いる5000だけというのも、少なすぎるし。
孫権が侵攻してきたことを知り、退却した可能性もある。
荊州が陥落してしまい、軍がそこで崩壊する。

やるとすれば、南郡二つを即座に譲渡するから、食料の援助を要請するというのは、
どうだろうか。(できれば兵士もほしいが、捕虜の後方輸送の手助けくらいが限界かなあ)
呉としてもこの程度なら受けられないものではないし。
襄庸を陥落させ、ハン城を落とせば、(襄庸は一時的に陥落させていた記述もあるか)
北部の大半が服属する可能性が高く、二郡を譲渡させても採算は取れる。

895 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 05:35:01 ID:GjZBCBNr0
逆の発想として、蜀、関中を陥落させてた後は、劉備自ら荊州に行き、
後方を守りつつ、ここから行政ををやるというのはどうだろうか、
実際関中に侵攻したときも、それでなんとかやっているわけだし、
できないとは思えない。
劉備が後方にいれば、関羽がやらかした、外交問題や、
人間関係のもつれによるw援軍拒絶問題(予備兵力の問題から、どちらにせよさほどだせるとは思えない)
また同じく人間関係のもつれによる、地元の有力者との軋轢により、
あっさり下ってしまうということもなかろう。


896 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 12:56:58 ID:FpezoVRT0
>>894
満寵「山の水は早く引くからあんま気にしなくていいよ」
と言う事で水害はそれ程長引いていない罠

あと2つの城を包囲してなお5000の兵士を引き出せるのだから少ないわけじゃないだろ
関羽死後も包囲継続してたのを打ち払ってやっと襄陽は解放されるしな

897 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 15:18:01 ID:S8NObewT0
>>893
結論1は同意。

結論2についても同意。というか荊州の支配者は劉備であり、不在時の実質的な運営は関羽その他複数でなされていたのであって関羽は全権を持っていたとは考えられない。
北上作戦も基本的には諸葛亮の戦略に基づいた関中侵攻のための前段だろう。

結論3は、後詰がなかったわけではないし、魏にしてもその後襄陽堅守ができず放棄したほどには被害を受けていた。
漢中方面での限界と対呉問題がある以上関羽が完勝することはありえないが、全くもって望みが無かったわけでもないと思う。
曹操は荊州に当たらせるために関中や揚州から兵を送り、自らも荊州戦線に向かっている。
これはこれで危険な綱渡りであり、極めて不安定だったと言えると思う。

結論4については、赤壁以降の孫劉の力関係やそれぞれの大義名分に微妙に関わってくる問題ではあるけれど、その問題についてはどちらとも言えないとしか言いようが無いな。
赤壁以降、孫権は劉備たちの協力がなければ荊州での支配の正統性に疑問が生じるし、劉備たちにしても独力で曹操を追い出すことは不可能だった。このお互いがお互いを必要としていた共犯関係が実態だと思うから、
兵糧まで援助されていたのか、それとも逆に劉備の方が孫権に援助したのか、それぞれ独自に用意してたのか、そんなことは大局での解釈に影響を与える部分ではないと思う。

898 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 20:33:40 ID:GjZBCBNr0
つか孫権陣営単独で、荊州を落とせたのか?
周ユはずっとあそこで足止め中だし、劉備がいなければ勝てたかどうか。
孫権の本体は合肥だしね。
劉備だからこそ、荊州の民や豪族まで相次いで従ったわけだけど、
孫権で下るかどうか。少なくとも早期に占領するのは無理じゃね?


899 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 21:52:36 ID:S8NObewT0
>>898
単独は無理でしょ。劉備たちが一緒じゃなかったら、孫権は単なる侵略者だ。

900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/19(月) 14:23:05 ID:cj0NpKa+0
単独では無理は分かるが一つ疑問がある
荊州支配の正統性なんて劉備も劉gも持ってないのでは?
荊州牧だって自称だろうし…

901 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/19(月) 18:05:58 ID:Fpk8VsDz0
>>893
結論2
どうだろ、麋芳は別として士仁や潘濬など士人達と確執があるんだから
一概に内政に権限がなかったとは言えないだろ。

結論4
いや、状況証拠どころかホウ統伝に援助の事が書かれてるが。
「取荊州」が赤壁や江陵の戦いなんて例がないんだが。

>>894
徐晃戦は五千人だけじゃないよ。
裏をかかれての陣地の援軍が五千。陣地を無人にしてるわけがないし
大事な拠点を頑丈にしてるはず。

あとifを言い始めたら、劉備は呉巨の下に逃げても劉gは孫権に保護
されるかもしれないし、劉備でなければ曹操を華容道で全滅できたかもしれない。

902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/19(月) 18:42:32 ID:DUJtDsmu0
>>896
思いっきり川の傍なんですけど、
ハン城も水害の影響で、結局つかえなくなってませんでしたっけ?
>>894
陣地の守備や城や捕虜の監視に多数の兵を割いているから、
迎撃にだせたのが5000だけって話だよ。

あと孫権にくだるくらいなら、曹操に降るんじゃないのか?

903 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/19(月) 22:47:12 ID:4EgUpEFH0
>>900
正当性はないけど
反曹操のよりどころだったので協力していないと孫権はすんなり荊州に進行出来ていなかったと思うよ



904 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/19(月) 23:51:18 ID:dyX4f+i80
反曹操ってだけなら、じっさいに戦った孫権と周瑜は立派のその資格ありじゃないか?

むしろ、傍から見たらたいして曹操と戦っていないように見える劉備や劉騎の方がどう
かと思われるんじゃない?

905 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/19(月) 23:57:24 ID:t0QBn4Sf0
>>904
でもその孫権たちは連年荊州に攻め込んでいる敵
いくら敵の敵は味方とはいっても、前から荊州にいる劉備たちをおしのけるなんて出来るわけが無い

906 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 00:02:25 ID:iWRc68jy0
でも、劉備は孫権の所に逃げなければ確実に曹操に殺されてるけどな。

907 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 00:05:34 ID:fhzly60A0
ところで、このスレ次スレはいるだろうか?

908 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 00:31:34 ID:A3PP59uk0
>>906
それもその通りで、この時期は劉備も孫権もお互いに相手を必要としていたんだよ
一方的にどっちかが従属したり、支援したりという関係ではない

909 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 11:43:38 ID:vdxx/NYh0
>>902
満寵が実際にそう言って、水は早く引いたって正史に書かれてるんだが

910 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 20:59:56 ID:XIC8khkc0
>>908
それは劉備へのえこひいき。

911 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 21:20:25 ID:J7AZB8WY0
>>906
どっちかというと、孫権への擁護だろ。
劉備にとっては蜀に逃げてもよかったんだから。
そして孫権は抵抗できずに、そのまま曹操に従属して終り。

912 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 21:42:54 ID:iWRc68jy0
>>911
どうだろうな、長坂で追いつかれて江陵に逃げられない状態だから
はたして益州に逃げられるか?たぶん追いつかれるだろうね。

孫権も華容道で曹操を殺して、馬超と曹丕で三国志になるかも。

913 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 21:58:34 ID:A3PP59uk0
>>910
そうかね?
まあ、孫権単独でも曹操を撃退することまではできたかもね。揚州側まで曹操を引き入れて叩いてやれば。
でも、荊州に短期間で足場を築くのは劉備らの手引きなしには困難だったと思うよ。

>>911,912
劉備が行くとしたら益州ではなく交州だね。実際にそっちに逃げようかなんて言っていたんだから。

914 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 07:55:04 ID:ya+mWxdsO
あの時期の呉は受け入れる気なんてないだろ荊州豪族はね

915 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 20:03:18 ID:e3SEnLDN0
ないとも言い切れないんじゃね。
ホウ統のような下級豪族でさえ、普通に呉の豪族達と交流があるし。

916 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 21:45:54 ID:b0vn06SP0
>>915
それは劉備と共同して荊州奪回してからのことだからな
どっちかというとホウ統の話は孫権が劉備と手を結んだ効果を示しているんじゃないか

917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 22:02:59 ID:ya+mWxdsO
>>915
それは豪族同士だからな
もともと集まったのは孫策を当主に集まった人々だからな
陸遜は別か?


918 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 23:57:09 ID:aTI9sy760
周瑜が曹仁を追い出した後、劉備が独立勢力として健在でなければ、
荊州豪族は孫権に従うか、各個に抵抗するしかない。
その場合に抵抗するほうをえらぶ豪族がそんなに多いとは思えないな。
後に陸口に駐屯した魯粛は部局を4千から1万以上に増やしており、
孫権の勢力圏内であれば荊州豪族も孫権に従うことを証明している。
そりゃあ劉備がいないよりいた方が早いのは明らかだろうけど、
曹操が体勢立て直すまでには孫権の荊州制圧は出来たと思うよ。
・・・周瑜が死ななければ。

919 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/23(金) 10:10:10 ID:NNkWUm/a0
孫パパ以来、揚州勢力(孫パパ時代は違うけど)からは殺戮された記憶しかないし
いつまでたってもいつまでたっても親の仇〜とやってくる
孫パパ死んだのはテメーの不注意だろwと
荊州勢にしてみれば曹より孫のほうにむかついてたんじゃね?
そういう意味で劉g&劉備陣営が孫と和解かつ同盟を結んだ効果は、後の揚州
勢力による荊州支配にとってはかなりポイント高いと思う

920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/23(金) 11:38:39 ID:prC8WKPp0
>>919
孫堅は長沙太守

揚州どころか、荊州勢力

921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/23(金) 14:32:26 ID:NNkWUm/a0
>>920
わざわざ(孫パパは違うけど)と書いてるのが読めませんか?w

922 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/23(金) 15:54:13 ID:RZrWU1N20
>>921
()内部は読んでなかった

923 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/23(金) 16:30:03 ID:x1yKRC5+0
もう、せっかちさんねぇ

924 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 12:23:21 ID:X3mdUkuq0
そもそも大袈裟なんだよw
薙刀の一振りで首が三つも四つも飛んだとかw
どんな猛者だよw

925 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 17:08:42 ID:DuRXYnvB0
多分わざとだろうけど、荊州勢と一括りにする必要はない。
孫家がまず仇としてたのは黄祖。そしてその黄祖も晩年は荊州と
折り合いが悪くなってるようだし。
だいたい、曹操じゃあるまいし親の仇で州丸ごと皆殺しを狙ってたはずも
なければ荊州での反劉表の豪族たちと繋がろうとするだろうし
荊州全体で孫家と敵対してたなんてありえない。

926 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 17:20:03 ID:TwkF+ZnS0
>>925
ひとくくりにする必要はないのはその通りだな
で、赤壁前夜でいうとこういう勢力分布になるわけだろ
1曹操に従った勢力
2劉備に期待する勢力
3中立

劉備との共闘関係になることで少なくとも2とは敵対せずに済む
逆に劉備を見殺しにしたとしたら敵にさえなりかねない
3は中立ではあっても、何の名分もなく侵攻してくる孫権を諸手挙げて歓迎したりはしないだろう
もちろん孫権独力で荊州勢力を何とかできたかもしれないが、やはり相当苦労しただろうし、かなり成功率は低いんじゃないだろうか

927 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 17:49:28 ID:DuRXYnvB0
>>926
>劉備を見殺しにしたとしたら敵にさえなりかねない
それはないだろう、見殺しにする状況がありえない。
ただ、遠くで殺されるだけだと。
劉備が死んだ時点で孫権が反曹操の筆頭になるんで
劉備に付いてた反曹の連中はこぞって付くだろうね。
援軍の来ない曹操に付くか反曹操の孫権に付くか、決して成功率は
低いとは思わないけど。

928 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 21:17:40 ID:goTiOTMA0
>反曹操の筆頭
袁氏ならともかくあの時点の孫氏ごときがか?
最初からそんな実力があるなら同盟のような状態にはならんだろう。

929 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 21:47:23 ID:DuRXYnvB0
>袁氏ならともかくあの時点の孫氏ごときがか?
これと
>最初からそんな実力があるなら同盟のような状態にはならんだろう。
これは無関係だな。
なんか孫家を下に見ようと必死だな。

930 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 21:53:19 ID:TwkF+ZnS0
>>929
>孫家を下に見ようと必死だな。
こういう視点で見るのはどうかと思うよ。
928にしても「あの時点」と言っているだろ。
別に孫氏そのものを卑下してるんじゃなく、あの時点ではまだ弱小で名声も実力も劣っている、と言いたいだけだろう。
孫氏自体のアンチであるかのような捉え方は良くない。

931 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 22:04:26 ID:DuRXYnvB0
>>930
弱小とは思わないが、たしかに名声と実力は足りないだろうね、
だけど、反曹操の筆頭に対しての反論なら代わりの人物を出さなきゃ
おかしくないか?
あの時点では曹操に従ってた涼州勢かそれとも張魯と争ってた劉璋か?
曹操と向かいあって事を構えたのは孫権だけで赤壁で勝てば、
その地位は不動だろうよ。

932 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 22:12:01 ID:TwkF+ZnS0
>>931
劉備を選んだ人たちは反曹操なんじゃなく、「荊州の独立」「侵略への対抗」が重要なんだよ
荊州を尊重する大物が劉備であったから劉備についたんだよ
孫権が劉キ・劉備の手引きなく江夏、江陵に進出したら、それは侵略と同じだろう
防衛なら孫権は赤壁で曹操を撃退した時点で目的は果たされているから、荊州側に行く理由は侵略しかないじゃない
他の州から荊州に攻め込んでいるという点では曹操も孫権も変わらない
それを覆す要素として、荊州が支持する劉備との共闘と劉備への譲歩は必要なんだと思うよ

933 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 22:25:02 ID:DuRXYnvB0
>>932
「荊州の独立」「侵略への対抗」これをの主張するところの豪族達の行動とは?
荊州は先の反乱などで中央から逃げてる人物が沢山いるよね。
それも重要かもしれないが、それが全てではないよ。

934 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 01:56:19 ID:ARmBxyCs0
>>933
全てではないけど大半は豪族達の影響は高いよ
私兵やら土地農民を抱えていたのだから
特に呉も荊州も豪族の影響は計り知れなかったのだから
孫権は死ぬまで豪族達のご機嫌とってたようだし
劉表も豪族を無視する事はできなかった

つまり豪族の協力がなければ安全に統治できないってこと&謀反を起こしかねない

ってむちゃくちゃになったな

935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 07:59:55 ID:rrTIZgZf0
つーか、「荊州の独立」「侵略への対抗」が大半の豪族達かは憶測じゃん。
まず、劉備が居なければ駄目、孫権だけでは統治できなかった
と言う結論ありきで議論しようとしてないか。


936 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 10:45:34 ID:CxOviu1V0
>ID:DuRXYnvB0、ID:rrTIZgZf0

あなたの言ってることは自論の都合の為の憶測にもとづいた反論じゃないの?
赤壁で勝てば単独で盟主と言ったって、何の大義名分もなしに、
劉jが既に降伏した状況の荊州を切り崩せるのか?
「最終的に南方の覇者になる」という結論ありきで孫権を語っているようだが。
いくら周瑜でも、劉g(なぜか劉備に途中でスライドするが)という看板なしに攻め込んでは勝算が薄いだろう。

仮に江陵維持を史実通り諦めても、孫権以外は韓遂、馬超、張魯、劉璋とか二線級の群雄ばかりで、
215年以前に荊南・揚州以外を押さえた状態になれば勝負はもう見えている。
荊州の豪族たちも大につくより小についた方が自己決定権は強まるが、
大局的な立ち回りはともかく、戦場ではあまり冴えない孫権に付こうなんていう酔狂なやつがどれほどいるのか。
208〜210年の時点では周瑜一人がくたばるだけでミリタリー的に麻痺しちゃうような政権だぞ。
赤壁以後の対曹戦と関羽戦と夷陵で段階的に味方に組み込んでいったと見る方が自然。

最初から孫権だけで統治できるなら江夏なんぞとっくの昔に抜いてるっつーの。

937 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 10:54:47 ID:CxOviu1V0
また最初から孫権>劉備という評価が固まってるなら、雷緒も孫権に付いたと思うが。
ロ江から荊南というのが中々ありえない進行。
そんなありえないことをさせるくらいに、
当時の孫権には威信がなかったということではないだろうか。

938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 11:22:23 ID:ARmBxyCs0
>>935
当時の呉は家臣は孫権に使えているより
周瑜や張昭が居るから役職に就く人たちもいたほど孫権には威厳がなかった(就任当時馬鹿にしていた人も居たと聞く
当時に荊州の豪族が付くとは考えられない(時間を掛ければ統一出来ると思うけど)

だからこそ荊州豪族は打ち破った呉ではなく劉備達に使えたんだと思うけど間違いか?

939 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 14:44:46 ID:rrTIZgZf0
だいたい、孫権が荊州を抑えられないといっても赤壁で軍船を全て燃やされ
江陵の援軍さえまともに出せなかった、曹操側につく豪族は少ないだろ。
一度、劉備についた豪族も、曹操に反旗を翻して孫権にも敵対するなんて
纏める人間がいないのに両方に恨まれる行動なんてとれないだろ。
あと、反曹操を軽く見すぎ。劉備が人柄のにで人材を集められた
と思ってるの?

940 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 15:03:31 ID:XSyLhprMO
>>939
あのな
同時は孫権より劉備を支持していたのだよ
それはツマリ孫権では役不足に他ならないってのと反曹操勢は死んでも拒否はしないだろうよ(孫権に対して)
だけども劉備やリョウキ(で合ってたっけ?)曹操に使えるのは嫌だから曹操のライバル(何故か劉備は曹操のライバルみたいな存在だったようで)
どちらを支持するか悩んだ結果劉備に付いただけの話
孫権をバカにしてないぞ
当時の状況をみたら劉備なんだろうなって意見だよ

941 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 16:20:22 ID:CxOviu1V0
>>939
当時の孫権を過大評価して、反曹操を甘く見てるのはあなたの方では。
赤壁で負ければ孫権は即座終わりだったが、曹操は負けても統一が遠のいただけだ。依然ぶっちぎりの首位。
孫権が荊州・益州・交州の三州を制圧し、益州を同盟国化するのは226〜230年以降だ。

勝ち馬に乗るのが豪族の習性である以上、その集団内での地位は高い方がいいが、
当時、何の実績もなく寒門出身で一太守でしかない孫権にどれほどの保証が与えられるというのだろう。
確かに赤壁で曹操は土を付けられたが、代わりに名が上がったのは孫権ではなく周瑜の方だ。

荊州が孫権にも曹操にも実力的に押さえられないなら荊州が緩衝地帯になってそれで終わりだ。
そのような形勢で固まってしまえば、曹操死後の相続が上手くいくかにしても、
十年単位のスパンで各個撃破されるだけ。荊州の国力的にそんな事態はありえないとは思うがね。
周瑜、劉備がいないのだから意地でも全力を傾注して荊州を切り取ることだろう。
そこを固めきれれば、孫権は頭打ちだし、劉璋は勝手に降る。

そもそも領内の山越が制圧しきれてない以上、
国をがら空きにしるような遠征は途中で破綻するのは目に見えている。
人柄の好悪や才知だけでどうにかなる次元ではない。

942 :918:2008/05/25(日) 16:23:34 ID:dWy7WJjZ0
なんか前提条件がずれてないか?
もともと、孫権軍は劉備なしでは荊南をとれない、だから劉備と孫権は対等である、
という意見と、劉備なしでも荊南は獲れた、だから劉備は孫権の下にいる、
という意見が対立しているんだと思っていたんだが。
だから劉備なしの時の豪族の去就を議論すべきであって、
劉備と孫権の荊州豪族に対する影響力の差をいくら論じても仕方ないんでは?
 ちなみに俺は、劉備が荊州豪族の支持を得たのは、江陵戦後のいわゆる勝ち組の中に
周瑜と劉備がいて、勝ち組の誰につくかの2択で劉備の方を選ばれたんだと思っている。
だから劉備なしなら荊州豪族は周瑜につかざるを得ず、結果的に劉備なしでも
荊南は獲れたと思っている。
 だが現実には、江陵戦後、劉備は荊州豪族を一気に取り込み力をつけ、
孫権は周瑜の死によって対外的な威圧力を失って荊州での影響力が逆転した。
結果、魯粛は荊州から一旦引くわけだけど、今論じている荊南制圧戦時の
ポジジョンは孫権>>劉備で間違いないと思う。

943 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 16:43:24 ID:9GIPP0ls0
>>942
その不等号で上下関係で表すような発想自体が誤りであり誤解の元じゃないかな

江陵戦以前というか赤壁以前から、曹操に降伏して高位を得た一部の者以外、荊州豪族の選択は既に劉備で決まっている
劉備たちががどうなったにせよ、劉備・劉キが味方についていない状況では、江夏に入った時点で孫権はアウェーにいることになる
曹操撃退で兵を退くならまだしも、それ以降の孫権軍の進軍はアウェーでのそれ、つまり敵地への侵略でしかない
相当な長期間の遠征ということになるわけで、簡単に行くわけが無い
羅憲が蜀に入ろうとする呉に抵抗したように、たとえ同盟関係であってさえ勝手に入ってくる他勢力は敵というのが通常の認識だろうしな

当時の軍事的実力で孫権>劉備であったのは間違いないが、孫権が荊州側に入り勢力圏を拡大するためには、劉備には不等号で表せない意味があった
そういうことだと思う

944 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 16:52:36 ID:CxOviu1V0
>>942
赤壁〜江陵戦で血を流して勝ったのは周瑜。
ドサクサに紛れてあっさり荊南を占拠したのは劉備。
荊州侵攻の大義名分は劉キ。

劉備が劉キを擁して、荊州の主戦派豪族の支持を得たのは確か。
周瑜が偉大なのも確かだがその二人がいなければ、「豪族は周瑜に靡く」と言い切れる理由が分からん。
手持ちの兵力は江陵戦に全部使い込んでるだろうが。
劉巴の活動次第では、江陵を落としたにも関わらず、孤立して退去せざるを得なる可能性も十分ある。

どっちにしても落としてもいないのに、
「実はいなくても落とせたから孫権>>劉備」なんてのはナンセンス。

945 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 17:08:36 ID:9GIPP0ls0
ところで、
江表伝では周瑜は兵5万を要求しているけど、実際には3万しか与えられていない
その差2万
そして本伝では初めから3万を要求していることになっている
一方、諸葛亮曰く劉備(関羽)の兵1万、劉キの兵1万で計2万
これは単なる偶然の一致なのだろうか

946 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 17:13:06 ID:akqAfj6c0
>>944
江陵包囲は周瑜単独ではなく劉備との共同作戦

947 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 18:33:38 ID:yjgkcD/q0
劉備は赤壁以降も積極的に前線に出張ってたからね。
逆に、孫権(周瑜)が単独で前線に出た記録は無い。
荊州でのアドバンテージは、常に劉備にあった可能性は高い。

948 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 19:38:30 ID:rrTIZgZf0
>>944
さりげなく、荊南を占拠したのは劉備って書いてあるが、上のほうで
共同の可能性が高いようにあるのだが?
あと、劉備達がいなければ手持ちの兵力に+して2万あたりは
増加されるだが。

949 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 19:52:35 ID:ARmBxyCs0
>>948
その二万はどこから持ってくるんだ?
あれだけ兵士不足の呉で
山越やらの反乱分子も鎮圧しないといけないし守備兵もいるのにどこから持ってくるの?

荊南は劉備達が占拠した可能性はある周瑜達呉が江陵戦の最中に占拠しているのだから

950 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 20:45:23 ID:CxOviu1V0
>>948
そいつらの議論って可能性と憶測で何もかも語ってるじゃん。詳細不明以上の結論があるのか?
恣意的に自分の都合のいい憶測を選んでるように見える。
出来たとしても不思議ではない、程度の主張だったなら、ここまで反発はされなかっただろうよ。
最初からそんな実力と持続力があるなら周瑜が死のうが江陵から撤退なんてしないっつーの。

951 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 21:08:31 ID:RUmQMpd70
バカじゃねーの?
このスレでは何故かしらんが「憶測」ってのが最大の相手への攻撃になってるようだが
(そういう風に使ってる特定の人間がいる)
「憶測」を外して三国志の議論なんて成立するのか?
そういう奴は裴松之をも認めないんだろうなw


952 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 21:14:11 ID:XSyLhprMO
>>951
で?

953 :918:2008/05/25(日) 21:15:43 ID:dWy7WJjZ0
>>943
最後の文についてはおおむね同意する。
特に江夏を素通りできるというメリットについては過少評価だった。

>>944
>「豪族は周瑜に靡く」と言い切れる理由が分からん。
一応反孫権の意思のもと、豪族を纏められる人物はいないという前提の話。
曹操にそれが可能なら勅命だすだけでいいからそうしただろうし、
劉備、劉キ以外に曹操にも孫権にもつくのを良しとしない勢力を纏められそうな
人物を俺は知らない。(劉巴は曹操配下)
つまり荊南の豪族は宙ぶらりんの状態であり、勝ち馬に乗るのが豪族の習性であるならば
周瑜に従う者は必ず出る。

まあ当時から劉備の存在がでかかったことは認める。ただその存在は
周瑜のような孫権配下と比するものであり、孫権に比するものではない。
だからこそ荊州借用問題で、劉備側が荊州の所有権を主張できなかったんだと思っている。

954 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 21:16:14 ID:RUmQMpd70
「それは都合がいい憶測にしかすぎない」

こういう文章を恥ずかしげもなく書く人間は「憶測」に辿りつくまでの内容記述をスルーしたいときによく使う。

つまり「憶測」を書いた人は憶測というテーマの賛否は別として、
組み立てた証拠や理論を議論展開したいわけだが、「〜にしかすぎない」と勝ち誇ったように書くと議論が先にも後にも進まない。
停止状態にするだけなのに、その停止をもって自分の勝利としたいのかね?

憶測を外すと行き着く先は陳寿の文体であり、議論の必要性が生じることもなく、2chで読み書きする必要もない。
その辺をわかってないやつは黙ってROMってればいいよ。

955 :918:2008/05/25(日) 21:19:40 ID:dWy7WJjZ0
書き忘れた。
>>943
孫権がアウェーっていうのは否定しないんだが、
曹仁が江陵にいる時点では劉備を伴っていても
アウェーなんじゃないか?

956 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 21:35:17 ID:CxOviu1V0
>ID:RUmQMpd70
別に2ちゃんはおまえの巣じゃないんだが。えらそーなやつだな。
精細なデータがない以上、おまえ程度の知性で臆面もなく出される推論なんぞ、どこまでいっても憶測どまりだ。
ROMる以前にやるべきことがあるのでは?

957 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 21:36:06 ID:XSyLhprMO
>>955
リュウキが居る
劉表の長男がな

958 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 21:38:47 ID:9GIPP0ls0
>>955
まずアウェーの範囲が違いすぎる
劉備たちが一緒ならアウェーなのは江陵以降だ
これは推測だが江陵周辺の豪族だって劉備・劉キになら助力するかもしれない

しかし劉備無しだとすると、江夏以降は全てアウェーと考えざるを得ない
赤壁で曹操を破ったとしてもまず江夏郡の平定から始まらなくてはならないし、それ以降も補給やら何やらを全て揚州から直接まかなわなければならないとしたら・・・
時間も労力もかかりすぎて台無しになるのではないだろうか

959 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 22:35:57 ID:CxOviu1V0
>>953
>まあ当時から劉備の存在がでかかったことは認める。ただその存在は
>周瑜のような孫権配下と比するものであり、孫権に比するものではない。
>だからこそ荊州借用問題で、劉備側が荊州の所有権を主張できなかったんだと思っている。

最終的に孫権>他だと思うが、
あなたが言うように一律で孫権>周瑜≧劉備の構図で見るのは無理があると思うが。

また荊州借用問題にしても呂蒙に駆逐されるまで主要部分に居座ってる訳で、
結局名を捨てて実を取っている。過去のことなど都合よく忘れるのが劉備脳なんだろ。
そこを突っ込まなかったのは北進の為に赤壁以来の戦略的互恵関係を維持する上で必要と判断したからだろう。

960 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 22:48:34 ID:rrTIZgZf0
>CxOviu1V0
推論や憶測で恣意的に自分の都合のいいとかって言っといて自分も、
推論や憶測で語るのはどうなんだ?

961 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 22:56:34 ID:CxOviu1V0
>>960

>935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 07:59:55 ID:rrTIZgZf0
>つーか、「荊州の独立」「侵略への対抗」が大半の豪族達かは憶測じゃん。
>まず、劉備が居なければ駄目、孫権だけでは統治できなかった
>と言う結論ありきで議論しようとしてないか。

俺はそれをやりに来てる。
他人の憶測を許さないダブルスタンダードくんは後にも先にもあなただけ。

962 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 23:09:46 ID:rrTIZgZf0
>956 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/25(日) 21:35:17 ID:CxOviu1V0
>>ID:RUmQMpd70
>別に2ちゃんはおまえの巣じゃないんだが。えらそーなやつだな。
>精細なデータがない以上、おまえ程度の知性で臆面もなく出される推論なんぞ、どこまでいっても憶測どまりだ。
>ROMる以前にやるべきことがあるのでは?

これは酷い。

963 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 23:20:28 ID:RUmQMpd70
>>956>>961

この一文をもってして、ID:CxOviu1V0が書いた言葉の説得力は全て失われたな。
人の知性を疑う前に、顔真っ赤にして自分の「正しい憶測」を読んでもらえるようにがんばれよ。


まぁ、こいつの論理だと自分以外の説は「知性が劣っているので価値がない」らしいから、
こいつになにかレスするのは意味ないなw

964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 23:33:55 ID:KSNSz5lV0
>>955
むしろ曹仁がアウェーなので。

965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 00:36:43 ID:aXNxqSiZ0
>>964
でも、劉ソウは正式に降伏しちゃってるからアウェーって程不利じゃないよ
当時は豪族を使った間接統治が基本なんだけど、そいつらがちゃんと降伏してる

966 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 00:44:58 ID:yELF/6Bi0
>>965
「(劉)ソウ左右及び荊州人多く先主に帰す」(先主伝)
劉備が襄陽を過ぎた段階で、降伏派お膝元でさえこの有様だったことをお忘れなく

967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 00:59:16 ID:nUAUUqDM0
>>966
どうだろうね、荊州で一番の有力豪族である蔡瑁が正式に降伏してるから。
荊州人もたぶん農民を指すんであってどれだけ豪族、名士がいたのか謎だし。

968 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 01:11:38 ID:yELF/6Bi0
>>967
「ソウ左右」とはっきり書いているのをそこまで疑うのでは議論にならんよ

伊籍(名士)
霍峻(豪族、部曲)
向朗(県長)
劉表死後に劉備に従ったと明記されているのは見つかったのは今のところこれだけだが、劉備が逃げて以降曹操支配下だったはずの義陽や南陽の人間もこの段階で従ったと見ていいかもしれない

969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 01:26:54 ID:nUAUUqDM0
>>968
>劉備が逃げて以降曹操支配下だったはずの義陽や南陽の人間もこの段階で従ったと見ていいかもしれない

だから謎と書いたんだが。今まで曹操は一度背いたら何らかの行動を取って
きたのに荊州ではその行動がないから、ほとんどが劉備に従わなかったとも見れる。

970 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 01:29:41 ID:yELF/6Bi0
補足
馬良、陳震なんかを見ると襄陽人でも劉備が荊州牧になってから=襄陽が曹操支配下にある時に招いているから、案外曹操支配下でも人の行き来は出来たのかもしれないな
前言の最後は少々自信ない

971 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 01:32:10 ID:+YtifZyu0
>>968
基本的に賛成だが、
>劉備が逃げて以降曹操支配下だったはずの〜
これはさすがにひいきのヒキ倒しじゃね?もちろん、個人レベルで劉備に従った者は
いただろうけど。
それに左右というわりには、県長とか名士で、劉表政権で重役を担った豪族達は赤壁
以降も曹操に仕えているものが多い。

972 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 01:33:08 ID:yELF/6Bi0
>>969
レスが前後してスマンが、

>曹操は一度背いたら何らかの行動を取って
きたのに荊州ではその行動がないから、ほとんどが劉備に従わなかったとも見れる

についてもう少し解説してくれると助かる

973 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 01:58:51 ID:nUAUUqDM0
曹操に喧嘩売って無事なの賈文和ぐらいしかいなくね。
あと誰かいたか?

974 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 02:34:11 ID:aXNxqSiZ0
劉備は半生を曹操との喧嘩に費やしたけど無事だね

975 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 02:51:14 ID:jfcDz1qV0
>曹操は一度背いたら何らかの行動を取って
きたのに荊州ではその行動がないから、ほとんどが劉備に従わなかったとも見れる

手紙を焼いてもらった連中とかどうなんの?

976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 08:00:46 ID:yELF/6Bi0
>>973
つまり襄陽あたりで劉備に従ったと思われる者への報復がないみたいだから、従った者はほとんどいないだろう、ってことか?
流石に無理がありすぎるだろう、その反論は
劉備に従ったとすれば曹操から一緒に逃げてるから、報復を受けるような機会が無いじゃないか

977 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 12:00:46 ID:KEQzjgBb0
後世の神視点で考えずに荊州豪族視点で見てみるとこんな感じ?
劉備
元は北からの流れ者の劉皇叔でかなりの遠縁だけど「劉」姓で劉表とは同祖
約十年に渡って荊州北部にて対北勢力(つまり曹操)への壁となっていた
劉表の長子劉キの後見人(のような立場)
孫権
寒門出だけど揚州太守
荊州江夏に圧力をかけ続け最終的には黄祖を殺害

978 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 13:11:33 ID:jfcDz1qV0
似非皇族、予州牧、左将軍、劉キの後見人、絶賛流浪中。
寒門、会稽太守、討虜将軍、孫堅の息子・孫策の弟、既に参謀集団が形成されている。

出世を狙うなら劉備の方か。
まあそれ以前に赤壁で勝たなきゃならんが。

979 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 21:36:58 ID:yELF/6Bi0
劉備については劉表と同姓というよりも、
官位だけならいまや曹操に次ぐという超大物っぷり、
各所で示した軍事的能力(負けこそ多いが、騎兵も指揮でき、曹操の軍を撃退し、ほとんどあらゆるレベルの戦闘経験がある)、
当時の名士、要人の多くに評価される実力や人品、
こういったものに期待する者が荊州では意外と多かった、ということだと思う

孫権が荊州の守りを10年やれば同じような評判を得られたかもしれないが、実際にあるのは親の代からの遺恨
これだけはどうしようもない

980 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 03:34:29 ID:z2Ch9J4Y0
>>979
さらに言えば、荊州に留まっていた年月だろうか。
風評的にも、劉備と孫権では比較にならないほどの格差がある。

関羽以外に荊州を守れる人材だが、劉備軍には不足していた気が。
他勢力と隣接する荊州防備の場合、如何に戦力を使わずに均衡を保つかが
鍵となる訳で、そうなると存在自体が大きな威嚇となる人物に絞られる。
張飛や趙雲に比べても、関羽は適材適所だったと思うよ。
問題は、呉との外交・・・・・当時、関羽と共にいて、呉とのパイプ役になり得た
人物は誰だろう?
その人物には、関羽を制御出来るだけの手腕も求められるんだろうなぁ。

981 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 05:18:33 ID:uk2fazH2O
>>973
馬超、馬岱、張繍。

982 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 08:29:27 ID:nGYbWzHK0
>>980
ビジクとかどうだろうね
劉備陣営において閲歴も長いので孤高の人関羽と話も出来そう
当然、新野駐在歴も長く荊州土着人にも顔がききそう
妹は劉備側室なので義兄弟である劉備の弟関羽からみても義兄
揚州陣営とのパイプの有無はわからないけど赤壁前後でなんらかの
ものはありそう

983 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 10:03:46 ID:fCk1tjwV0
普通に考えれば調整役として期待できそうなホウ統ってとこだとも思うが

984 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 11:07:56 ID:nGYbWzHK0
>>983
死んでるやん

985 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 12:48:05 ID:mHwUPMcx0
つーか呂蒙が急死してても呉は攻め込んだかな。

986 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 13:14:09 ID:Tr3B3tYz0
むしろ関羽が急死したほうが呉が責め込まないじゃない。

987 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 13:39:41 ID:mHwUPMcx0
まあ、それはあるわな。
両方とも死んでしまえばgdgdになるか。

988 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 16:42:19 ID:u0ThU8El0
>>986
関羽しんだら後処理の最中に攻めてくるだろ

989 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 19:31:32 ID:mHwUPMcx0
次スレはいるか?

990 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 20:05:12 ID:ygWvuQzTO
要らない

991 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 22:08:20 ID:tgUiAwlc0

色々自作自演して盛り上げた俺からすると
1000いくのは感無量だぜ・・・

992 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 22:10:52 ID:UmVRabMe0
>>983
ホウ統は呉と極めて関係が深い
わざわざ魯粛が人事に口出してるし、実際には呉が派遣したエージェントなんじゃないかとさえ思う
もしあそこで死なずにいたら、劉備政権内に親呉派閥的なものを形成していきそうな気がしてならない

993 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 08:02:20 ID:3EnNmZW20
ホウ統と、そして魯粛があと5年ずつ生きてれば、三国志の流れは
大きく変わったんだろうね。
単刀赴会の時、アドバイザーとしてホウ統か諸葛亮がいれば、
関羽がアホなことを言い始める前に抑えられたかもしれない。

まぁ、所詮if論なので、抑えられなかったかもしれないわけだがw

994 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 08:03:49 ID:PU5mP4W30
>>993
魯粛が長生きしていたら関羽の不意を討つのが魯粛になるだけだと思う

995 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 08:55:12 ID:2O14URxi0
>>993
関羽じゃなくて配下の兵隊じゃねーの?
魯粛なら交渉主体になるとは思うが敵対的になる時はなるだろう。

996 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 08:57:13 ID:2O14URxi0
まあ次スレはいらん。

997 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 08:58:13 ID:2O14URxi0
捨て

998 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 08:59:02 ID:2O14URxi0
>>998

999 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 08:59:50 ID:2O14URxi0
>>999

1000 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 09:01:26 ID:2O14URxi0
>>1000

1001 :1001:Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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