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前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 16:08:46 ID:CSTbgl8G0
軍事、経済、文化等を総合した最強の王朝はどれか?

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:22:01 ID:J3benrf30
298 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/05/31(木) 14:29:50
長らく待たせた。早速回答に入る。

>225(カエサル暗殺2052年目に当たりますが、宰相殿のカエサル観を教えて)
結論から言えばそれほど高くは評価していない。
ガリア平定を果たした人物であるから、軍人としては一定の才覚を備えて
いたのかもしれないが、それにしたところで、ガリア戦争が、
ローマの国力増大に伴って当然に起きた領土的膨張の一貫として捉えれば、
殊更にカエサル個人の能力や個性を過大評価する必要はない。

外征による戦利品から得た富を惜しみなくばら撒いて人心を買う政治手法も、
古今東西ありふれたごく平凡なもので、到底高い評価には値しない。

とかくカエサルは、世界帝国ローマは一人の優れた指導者に
統治されるべきであるという強い信念の下で独裁を推し進め、
無意味な内訌を繰り返すのみの共和制ローマに終止符を打った───と、
肯定的に語られることが多いが、裏を返せば、時流に乗って富と名声を得た
だけの軍人が、権勢欲にとりつかれて既存の秩序を自らの都合のいいように
つくり変えたというだけの話だ。

また、そもそも、帝政による統治権力の強大化を現実のものとしたのは、
養子オクタヴィアヌスなのであって、カエサル自身は志半ばに倒れている。
身の丈に合わぬ権力を欲した独裁者の破滅──としか評価のしようがない。

確かにカエサルは馬鹿ではなかったろうし、
政治家としての能力も、ある程度の水準に達していたとは思われる。
しかしながら今日「万能の英雄」「運命の寵児」「仁慈の指導者」などと、
大仰な修辞を凝らして賞賛されるような、世界史的スケールの大政治家では
到底ありえん。むしろ凡庸という評価を与えても、それほど不当ではない。

歴史を経済構造、社会構造の枠組みの中で捉えていくのではなく、
指導者個人の人となりに着目して、その個性や思想が社会に及ぼす影響を
過大評価してしまうと、どうしてもカエサルのように
個性的で魅力に富んだ人物が必要以上にクローズアップされることとなる。
このようにして構築された歴史観は、所詮は物語であり、非科学的といえよう。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:22:21 ID:J3benrf30
222 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/03/14(水) 19:10:10

>203(もし自分が文天祥の立場だったらさっさと南宋見限って元の高官になりますよ)
文天祥が元への仕官を頑なに拒んだ理由は、むろん忠義忠節もあったには違いないが、
それ以上に非漢人への生理的嫌悪を抱いていたからではないかと思う。
いったい国民主義すなわちナショナリズムの勃興は近世社会に普遍的にみられる現象であり、
中国では宋代にその端緒が開かれた。むろんその理論的後押しをしたのは朱子学だ。
ナショナリズムとは必ずしも国粋主義や純血主義とイコールではないが、
国や民族といった概念により彼我を区別することから、排他的な傾向を帯びやすいといえる。
文天祥は科挙に主席で及第しており、中国人ないし漢人であることに、
どれほど高いプライドを抱いていたかは容易に想像がつく。
あれにとって蒙古人など無教養の蛮夷どころか獣の群れ程度にしか映らなかったであろう。
まあ、そのような意味でも視野の狭窄した愚かな人間であったと言えるな。

>205(司馬光嫌いです)
前にも述べたように中国において史学とは哲学とも通ずる傾向がある。
資治通鑑はその名の通り「(歴史を)通じ鑑みることで(政)治に資す」ための著作であり、
宋学の精神と司馬光自身の価値観を強く反映している。
宋学の集大成が朱子学であることを考えれば、資治通鑑から尊大な印象を受けるのも
むべなるかな当然のことと言えよう。いずれにしても資治通鑑は中国において史記とも
並び称される大著であり、背景に存する価値観はともかく、資料としては一級のものだ。
そう考えれば司馬光も、歴史家としては偉大な人物であったと評価せざるを得ない。

ただ、政治家としてはどうかとなると、これはもうあえて言うまでもない。
無能だ無見識だという以前に、そもそも現実の社会状況を把握し、
その対策である新法の構造を理解するための知識が根本的に欠けていた。
王安石と書簡をやり取りして新法の是非につき議論を交わしたと伝えられるが、
実際のところ議論など成立する筈がないのだ。猿に論語を説くようなものだからな。

ゆえに司馬光に対する評価は「史家としては有能、政治家としては馬鹿」とするのが、
もっともシンプルで適切なのだが、現実にはあまりそのように捉えられていない。
新法もまた構造的な欠陥を有しており、司馬光の批判も理に適う面があった───と、
王安石のアンチテーゼとして一定の役割を果たしたかのようにさえ考える向きもある。
当事者の一人としては、馬鹿も休み休み言えといいたい。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:22:57 ID:J3benrf30
173 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/02/08(木) 03:57:00
>>130(雪夜訪普図)
訪普の普はいうまでもなく宋建国の名臣、趙普のことで、
雪のちらつく晩、唐突に家臣の元を訪れ二人で酒を酌み交わす
趙匡胤の飾らぬ人柄を示すものとして有名な絵画だ。

趙普という人物は些か地味で、日本での知名度はあまり高くないが、
宋が唐以来の地方藩鎮の割拠を抑え、強固な中央集権を確立しえた背景には、
趙普の補佐によるところが大きい。中国史上屈指の大政治家ともされる所以だ。
ただ、普の人となりは、教養のなさとも相まって、豪放というよりむしろ横暴に
近いものがあり、太宗の宰相盧多遜の弾劾を受け、中央より退けられたこともある。
良くも悪くもアクの強い人物といえよう、粗野という面では太祖と通ずるものがある。

>183(陸秀夫は嫌いですか?)
>184(張世傑は時勢を知らぬ愚人ですか?
    それとも最後まで宋朝に忠義を尽くした義人ですか?)
嫌いかどうかと問われれば、嫌いだ。
義人か愚人かと問われれば、そのどちらでもあると言える。
陸秀夫にしろ張世傑にしろ、はたまた文天祥にせよ、突き詰めれば何ら変わらん。
個別に扱うなら、朱子学亡者1、2、3号とでも呼んだ方がわかりやすい。
連中にしてみれば、宋の再興が果たせるか否かなどさしたる問題ではなく、
朱子学上の正道主義に殉ずることが唯一無二の目的だったのだろうよ。
忠義忠節も場合によっては単なる自己愛に過ぎん。
朱子学は経学としても哲学としても優れた性質を備える東アジア史上最重要の
学問であると同時に、陸張天のような馬鹿を大量生産する道具でもあった。

223 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/03/14(水) 19:12:21

>211(じゃ、方孝儒なんてお話にならない馬鹿ですか)
方孝孺の場合は、まあ、文天祥らと比較するのはやや不適切か。
あの場合、常軌を逸していたのは永楽帝なのであり、方孝孺も朱子学精神というより、
むしろ一般的な良識としてたやすく節を曲げることに抵抗を感じたのだろう。
かかる局面であれば私でも身の振り方を躊躇するだろうよ。
叔父が甥を弑逆するなど考えられぬ暴挙であり、
容易に尻馬に乗ったのでは世論からの風当たりも恐ろしい。
また、簒奪によって確立した政権が永続するのかどうかも不透明だ。
仮に建文帝が存命であり、いずこかに落ち延びて挙兵し、
南京を回復でもした日には、永楽政権に与した者など悉く誅殺の対象だろう。
建文帝の復辟など絶対にありえなかった───というのも、所詮は後知恵だからな。

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:23:31 ID:J3benrf30
378 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/11/18(金) 09:28
>349(宋代四悪人を一人ずつ論じてみて下さい)
前にもそういう言葉は聞いたな。
詳しくは知らんが、おそらく秦檜、韓侘冑、賈似道、そして私の四名を指すのだろう。
一人ずつ考察して行くか…。

■秦檜■
言うまでもなく、中国第一の姦臣として蔑まれている男だ。
いったい南宋の宰相は強権的で専横を事とする者が多く、秦檜もまたその例に漏れぬが、
そのことが直ちに檜を最悪の姦臣たらしめた訳ではない。
たとえば同じく南宋の宰相、史弥遠も専権が激しく非難が多かったが、『宋史』においては
姦臣伝に名を連ねていない。やはり秦檜への非難は、主和論にまつわるものがほぼ全てだ。
これまで何度も述べたように、金国と比して南宋の兵勢は圧倒的な優位を占め、
少なくとも高宗期であれば華北を奪還できた可能性は十分にあった。
にもかかわらず、南宋の首脳部が主和論を採用し金国に阿ったのは、高宗の個人的な性格に加え、
敗戦のリスクをとるに相応しい経済的メリットが見出せなかったからだ。
その意味で秦檜の主張には客観的な合理性があった。情緒的な観点からは檜のような
強圧的かつ利己的な文臣が好まれないのは普通だが、ここまで評価を貶められた理由は、
やはり岳飛信仰の反作用と考えるのが妥当だろう。まあ、やりたい放題の人生だったとは言え、
死後ここまで罵詈雑言の対象とされているのは、哀れと言えば哀れだ。

■韓侘冑■
「タク」の字が正確には異なるが、便宜上似た字を用いた。
韓侘冑を一言で評するなら、「無理をし過ぎた」といえる。
侘冑は北宋の宰相韓gの曾孫にあたり、高宗皇后の妹を母とする名門の出身で、
科挙を経由せず恩蔭により官途に就いている。かかる形で官を得た者が出世を阻まれ、
進士出身の文臣と比して一段も二段も低く見られたのは、特に宋代に顕著な現象だ。
本来高位の官に就き得ぬ者が、身の丈に合わぬ立身栄誉を求めれば、人気を犠牲にして、
権謀術数をめぐらせねばならぬ。侘冑にはその能力以上に衆望が徹底的に欠けていた。
既に死んだ秦檜の官爵を剥奪して岳飛を追封したのも、行軍の計を立てて北伐に執念を
燃やしたのも、結局は衆望を得んとしたためだ。まあ、その賭けがほとんど裏目にしか
出なかったのは侘冑の能力の限界としても、敗戦の責を負わされ謀殺されるに至ったのは、
衆望はおろか朝廷における人望も零に等しかったからだろう。これはこれで悲劇と言える。


169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:23:58 ID:J3benrf30
■賈似道■
恩蔭により官途に就いた点は韓侘冑と共通する。
しかし、似道は侘冑と比べて卑しい出自であった。それが逆に異才を育んだと言えるかも
知れない。こういう人物がさしたる障害もなく、若くして高位に上ったのは、
既に南宋の政治秩序が紊乱していた証左とも考えられるが、とにかく一定の才覚はあった。
いわゆる「賈似道の公田法」は大土地所有者から安価で土地を買収する政策で、
その企画力と問題把握能力は評価されて然るべきだろう。ただし、その反面、法の実行に
あたって配慮を欠いたため、当初の目的を十分に果たせなかった点は、無学ゆえの思慮の
至らなさと言うべきか、朝廷の権力の限界と言うべきか。
とまれ、似道が南宋の亡国を早めたという指摘にはさほど合理性がない。
別の時代に生まれていれば、一定の政治的成果を挙げ、名臣と讃えられたかもしれん。
まあ、平時ではそもそも宰相にまで上れたような経歴の持ち主ではないのだが…。

■蔡京■
つまりこの私、蔡元長だ。
福建の豪農に生まれ、若くして進士に登第し、時の宰相王安石に才を買われて抜擢され、
その下で改革に邁進した。ひとたび朝廷の方針が変更され改革主義が後退すれば、
心裡に理想を抱きつつ身を潜め、ついに権力を得るや、かかる理想を実行すべく粉骨砕身し、
破綻した財政をたちどころに回復せしめ、兵を精強たらしめ、民間の負担を軽減せしめた。
進士出身ながら、才ある胥吏を積極的に抜擢し、官への途を開く制度も整えた。
塩税を抜本的に整備し、公正かつ安定した税源として確立もした。
書をしたためればいにしえの王羲之に比せられるほどの大家と尊ばれて、
官民こぞって私の筆跡を模範としたものだ。詞余、雅楽の発展にも尽くし、北宋院体画の
確立にも大きな役割を果たした、まさに中国文化史にその足跡をとどめる巨人とも言える。
これほど総合的な才能を持ち合わせた政治家が歴史上果たしてどれほど存在したものか。

───と、我ながら恥じ入るほどに自画自賛してみた。
それほど大きな誤りはないと思うのだが、諸君がこれと同じ内容を他人に話すことは勧めない。

>393(北宋時代、孝明皇后の異母弟のは素行不良のため官職を追われていた)
王継勲は孝明皇后(太祖皇后)の同母弟だった───と、史書にはある。
まあ、それ自体は瑣末なことだが、とにかく継勲は素行が不良であった。
孝明の死後、その悪事が公に露見し、太宗は衆意に応えてこれを斬ったという。
市中の少年少女を拐し、遂には食人に及んだというのも、概ね史書の記すとおりだ。
まあ、この程度の小物にまつわる逸話など、いちいち事実性を検証する必要があるとも
思えないが、太宗の即位にある種の簒奪色を認める立場からは、
先代の外戚であった継勲の死を、政治的な動機による粛清と考えることもできる。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:02:25 ID:ys76oEii0
>>159
ほんとにね…

コピペ作業は乙だが、そろそろやめて自身の言葉で語ろうや。
残したいなら、サイト立ち上げるとか。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:08:37 ID:J3benrf30
843 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/09/15(金) 19:40:58
>723(蔡京が秦檜の立場だったら、やはり岳飛を殺して金に臣従した?)
北宋が金に滅ぼされたのは単に童貫らの戦略上の失敗で、首都を孤立させたまま
敵の直撃に晒してしまったのが原因だ。国力や軍事力の差に起因するものではない。
そもそも戦禍を被ったのは河北と山西の一部のみで、他はまったくの無傷だった。
宋は徽宗朝末期であっても、内部から政権が瓦解するほど衰退してはいなかった。
南宋が150年以上存続したことじたいがその証左だ。
よって、少なくとも高宗時代の初期であれば、南宋が金を撃ち華北を奪還することも
まったくの不可能事ではなかった───というのが私の一貫した考えだ。
岳飛が飛び抜けて有能な将軍であったとは思わないが、水準程度の能力はあった。
軍閥単位で無統制に戦闘を行うだけでは自ずと限界があっただろうけれど、
高宗はじめ臨安の首脳部がもう少しまともな指導力を発揮しておれば、
南宋の歴史は違ったものになっていただろう。

けれど、秦檜個人の立場からすれば、対金戦争を続けることにメリットがなかった。
檜が金の和平派と気脈を通じていたというのが事実であるとないとに関わらず、
軍閥勢力の台頭を抑え、兵権を中央に帰して統一しようというのは、
宋代の政治家として至極自然な考え方だ。よって私が秦檜の立場であっても、
基本的には金との講和を目指したであろうと思う。

ただ、私であればもう少し先まで事態の推移を見守ったかもしれない。
実は岳飛がどの程度まで奮戦し、どの程度宋に有利な戦況が展開されていたのか、
はっきりしたことは不明なのだが、一般に語られているような快進撃で金の心臓部を
突くほどの勢いであったのならば素直に任せてよし、仮に失敗したとしてもさほどの
デメリットはなかったと思われる。どのみち金には淮河以南を征服する実力がないのだ。

戦況が宋に有利に展開しているうちに講和を打診することは、
確かに誤った考えではないとしても、ああまで性急に事を運ぶ必要はなかった。
また、軍閥を放任することで唐末のごとき中央の統制が及ばない群雄割拠の
状態が固定化するとも考えにくい。仮に軍閥がそれほどの実力を有していたのなら、
そもそも岳飛を殺したところで、兵権の回収は困難だったろう。


172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:10:06 ID:J3benrf30
842 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/09/15(金) 19:40:16
>719(北宋の神宗て、結果的に名君と呼べる皇帝なんですかね?)
少なくとも新旧両法の党派抗争の責任を神宗に負わせるのは誤りだ。
朝令暮改で国内政治を混乱させる原因を作ったのは、
明らかに宣仁太后の仕業であって、神宗には何らの非もない。
姦臣を抜擢し祖宗の法を退けた暗君であるという評価も、
所詮は後世の朱子学者の筆による歪曲であって、現代では殆ど修正されている。
神宗は聡明で決断力に富んだ名君であった。早逝したことが悔やまれる。

ただ、残念なことは武功への焦慮が過ぎて、軍事面での失敗を繰り返したことか。
西夏、遼、交趾、吐蕃そして四川の苗族討伐───と、
四方に兵を起こしながら悉く失敗し巨額の損失を出した。
しかし、それでも失意することなく鋭意政務に専念して怠らなかったのは立派だ。
齢を重ねれば熟慮と威厳を備えた名君として君臨しえたものと確信している。

>720(前漢の高祖、劉邦て若い頃は今で言うところのニートだったんですかね?)
家業に励まず放蕩無頼の生活を送っていたというから、まあ、誤りではないかもな。
高祖の具体的な出自や経歴は不明な点も多いが、亭長の職を得て名を売ったことや、
勢力家の娘を娶った点から考えれば、まったくの貧民ではなかっただろう。
ニートというのは無職でも生活できる程度に金銭的余裕がある者をいう。
したがって、そちらの意味でも若き日の高祖はそれに近いものがあったかも知れん。

>721(北宋太祖の石刻遺訓は実在したんですか?)
太祖が周室の保全を遺訓としたのは事実だ。
が、これは代々の天子が秘儀を以て伝えたわけではなく、
公的な事実として私たちにも開示されていた。
言論の咎を以て士大夫を殺さず──というのも、確かに事実上の慣習としてあったが、
太祖の遺訓とは些か考えにくい。どちらかといえば太宗の考えそうなことだ。
いずれにしても石刻遺訓の話は正史に記載のあるものではないし、
また、そういうものが存在したとすれば私たちの耳にも漏れ聞こえたはずだ。
一概に否定するほどの根拠はないにせよ、後世の創作ではないかと思う。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:10:27 ID:J3benrf30
>691(読書好きの北宋太宗)
太平御覧は、当時北宋に降った南朝諸邦の遺民を書物の編纂に任じ、
太宗みずから指揮監督することで、反宋感情を抑圧する目的を有したとの説もある。
太宗は当代を代表する教養人の一人であったし、よく文臣を手なずけた明君だ。
能力面では兄の太祖に劣らない───というより、明らかに勝っていただろう。
にもかかわらず、今日に至るまでその実績に相応しい評価を得ているとは言い難い。
これは言うまでもなく、その即位にまつわる疑惑に端を発している。
実際、太宗が簒奪かそれに近い形で天子の位を襲ったものかどうかは不明だ。
しかし、唐の太宗の兄弟殺しと比較して、趙匡義の場合は疑惑が疑惑のまま後世に
語られたため、学術への理解も文尊武卑の態度も、すべて知識階級の不満や批判を
余所へ逸らすための方策ととられる面がある。まあ、不運といえるかもしれん。

836 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/09/15(金) 19:36:13
>692(でも南宋末期の呂文煥を逆臣と呼ぶのは酷でしょ)
いくら酷であろうと、南宋にとっては逆臣でしかないだろう。
まして呂文煥の場合はのちに元将として逆に宋を討っているのだから、
背景にどれほど感涙きわまる物語があったにしても、反将は反将だ。
なにせ時代は朱子学思想一色だったのだからな。たまたま比較の対象として
賈似道という名高い姦臣がいるため、後世においてはあまり非難されぬものの、
存命中は肩身の狭い思いをしたことだろう。少なくとも文天祥と比べれば、
朱子学者の目には許されざる大悪と映ったに違いない。

>709(中国史で名将を挙げるとしたら、真っ先に私ですな)
徐達は思慮の深い慎重な人間で、朱元璋の命令を忠実に実行した。
逆に言えば、独断で何かを為すには向かない、正攻法を守る武将だったようだ。
それゆえに猜疑心の強い朱元璋からの信頼も厚かったのだろう。
徐達と比肩しうる朱元璋の部将としては常遇春がいるが、
こちらはやや性急な猛将としての性格が強い。
徐達は確かに名将とされているし、それに相応しい功績も一応はあるけれど、
やはり朱元璋の成功は朱元璋自身の能力による面が大きかった。
徐達も常遇春も冷静に考えれば平均的な能力の持ち主でしかなく、
むしろ朱元璋は軍事面において人材に恵まれなかったのではないかとの見解もある。
劉基にしてもそうだ。中国史において最も有名かつ優れた軍師として讃えられつつ、
よくよく考えればそれほど有益な進言をしたとも思えない。

>710 ココテムル
ある酒宴の席で朱元璋が「今の世で最も怪傑と呼ぶに相応しい武将は誰か?」と
尋ねると、満座の臣下たちはみな常遇春の名を挙げた。しかし朱元璋ただ一人が
敵であるココテムルを推し、その勇武を賞賛した───という話が野史に見える。
これが正確な事実を伝えているのかはわからんが、朱元璋が次男秦王の妃として
ココテムルの妹を娶わせたことからすれば、案外真実性のある話なのかも知れん。
政治的野心よりもただ戦闘に明け暮れることを好んだところからしても、
まあ、猛将という評価が妥当なものだろう。


174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:10:50 ID:J3benrf30
741 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/06/14(水) 03:16
>682
>遊牧生活を送る連帯集団は支配権志向をを強めて都市に拠点を置く国家を
>征服し新国家を形成する。 しかし文明の発展と共に初期の連帯意識を失い
>新たな連帯集団に征服される。
遊牧集団がその存続上必然的に支配権志向を強めるという点が若干怪しい。
確かに天災その他の事情で食糧備蓄が欠乏した場合に、外部社会からの
略奪を行うため、内部結束を強めるケースはあるが、多くは一過性のものだ。
遼が中国内部にまで支配を及ぼす征服王朝を築いたことは、遊牧社会に特有の
性質に基づくものではなく、あくまでも農耕社会───中国との地理的近接から、
本来の遊牧社会には存在しない特殊の性質を帯びたためと考えられる。
金・元の二つの王朝はかかる性質を受け継いだに過ぎない。
もっとも、遼・金・元は相当に巨大な社会を形成した政権であるといえるから、
その性質にも一定の普遍性を認めることは可能だが、遊牧社会が遊牧社会で
あるがゆえに当然備わる性質と混同するのは、いさかか極端な見解といえよう。

>689(では、阿片については、どのような取ればよかったのでしょうか)
質問の趣旨がいまいち解り難いが…。
まず、前提として黄爵慈らの唱えたアヘン厳禁論も、許乃済らのアヘン弛禁論も、
結局は法による直接の規制でアヘン貿易にまつわる弊害を解決しようとしていた。
どれほど厳格な運用がなされたとしても、法規制の効果には自ずと限界がある。
厳禁論者の主張するようにアヘン吸引者への取締を強化するにしても、
弛禁論者のいうようにアヘン売買の決済に銀を用いることを禁止したにしても、
そもそもはじめからアヘン売買が密貿易で行われている以上、規制の効果は薄い。
厳禁論と弛禁論の争いは、互いに互いの実効性を攻撃するものであった。
どちらがより合理的な主張であったかを今になって決するのは難しい。
が、どうしたことか厳禁論が力を強めて、弛禁論が立ち消えたのは歴史的な事実の示す通りだ。

よくわからないのは、もともと厳禁論者の中にも直接的な法規制の実効性を疑う声が
あったにもかかわらず、清朝政府の意見が、さらに効果の薄いと思われるアヘン輸入
そのものの禁止に傾いたことだ。単に道光帝が林則徐の熱意に打たれた───
とすれば何やら聞こえはいいが、結果論からすれば明らかに悪手であっただろう。

ただ、アヘン戦争は、清朝が英国側の事情にほぼ一方的に翻弄されたもので、
清朝の側からどんな手を打ったところで意味がなかったとも言える。
英国議会の中にも武力発動には反対の声が強く、対清出兵案がわずか九票の
寸差で可決されたことはよく知られている。その意味では林則徐の暴走を許しつつ、
戦争が回避される可能性が絶無だったとまでは言えない。

幾度も述べたように、アヘン戦争の敗因は中国社会が近代化に立ち遅れた点にある。
いわば運命的なもので、仮にアヘン戦争という形をとらなくとも、別の機会にやはり
西欧列強の実力の前に屈する結果となっていただろう。であるからこそ、
結果はどうあれ、半ば自棄になって意地を貫き通した則徐が英雄視されるのだろうな。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:11:15 ID:J3benrf30
476 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/04(土) 10:41
>439(同じタイプの政治家なのに成功者として後世に認識されている張居正について
    失敗者の観点から語ってくれ)
一般に税制の大改革者として語られている張居正だが、所謂「一条鞭法」が居正の発案で
あることを示す明確な証拠はない。一応説明をしておくと、一条鞭法とは、従来成人男子に
課していた労役を、貨幣納(銀納)に変更したものだが、史家はこれをやや過大に
評価しすぎるきらいがあると思う。労役は人民にとって重い負担であり、その解消の必要は
既に宋代から唱えられていた。王安石(と私)の改革においても主要な課題と位置づけられて
いたことは言うまでもない。いったい労役といえば不当に人民を使役する懲罰的処遇という
イメージが強いが、前近代においてはスタンダードな課税方法であった。
これをやめて貨幣納に切り替えるためには、少なくとも貨幣経済が国内の隅々にまで浸透
していなければならず、元来農本主義的な社会である中国においては、難しい課題だったのだ。
労役が完全に廃止され、地賦(財産税)と一本化されるのは清代中期になってからのことだ。
言ってみれば一条鞭法は時代の過渡期に現れた折衷的な税制と解されるわけで、
確かに観念上は重要な意義を有するが、どの程度有効に機能していたかは極めて疑問だな。
なんといっても、万暦以降、明王朝の軍事費は爆発的に増大し、一条鞭法の上に様々な
労役が課せられていたのが現実だ。これではそもそもの立法趣旨が没却したと言わざるを得ない。
結局のところ、張居正のした財政は、全国の土地の検量を改めることで税収を増やし、
歳出を抑えることで予算全体の調和を図るという、旧来的な手法の域を一歩も出ていない。
つまり、財政構造の再編成にはほとんど手をつけていない、ないしは結果を出していないわけだ。
それであれば、そもそも財政を圧迫する最大の要因である軍事費の削減に軸足を置いた
私の改革のほうがまだしも有効なものであったと言えるだろう。
ああ、一つ付け加えると、私にあって、張居正に欠けていたものは、柔軟性ないし協調性だ。
居正は陰気で意固地で、自らの理念に固執して他人の言に耳を貸さぬ傾向があった。
その点は王安石に似るとも言えるが、居正には理想はあっても、清貧さがなかった。
他人の腐敗には厳格で、自らの私欲を抑えることを知らぬのだから、人望を得られるはずもない。
死後名誉を剥奪される結果に陥ったのも当然のことと言えよう。
私は大衆人気はなかったが、周囲の人間からの人望はあったよ。私利私欲の追求に熱心である
以上に、他人の不正に寛大だったからな。政治家に求められる柔軟性とは、つまりそういうことだ。

490 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/11(土) 13:28

>480(北魏の孝文帝の極端な漢化政策をどう見ますか?)
鮮卑族はもともと、塞外で半農半猟の生活を営んでいた民族だった。
半農半猟とはつまり、農耕生産力の不足を狩猟ないし牧畜で補っていたことを意味し、
機会にさえ恵まれれば、農耕主体の社会へとシフトしやすい性質を持っていたわけだ。
言い換えれば、漢化しやすいということで、この点が純粋な遊牧民である匈奴やテイ族とは
決定的に異なっていた。匈奴の前趙政権や、テイの前秦王朝の漢土における支配が長続きせず、
最終的に北魏が台頭できたのは、以上のような理由からと考えるのが妥当であろう。
北魏は中国への入寇以来、概ね一貫して漢人の貴族社会との調和を図ってきた。
それは太武帝しかり馮太后しかりで、孝文帝の漢化政策もその延長線上に起きた出来事に過ぎない。
表面的な歴史の経緯だけを観察すれば、なるほど孝文帝の漢化政策が極端化を呈したことで、
保守勢力の反発を招き、六鎮の乱を経てついには政権自体を瓦解させたように映る。
ただ、これは漢化政策そのものが行き詰まったのではなく、単に皇帝権力の限界が露呈したものと
考えるべきだ。何となれば、その後に成立した反動政権である北周、北斉の両王朝も短命に終わり、
漢化した鮮卑族の完成形ともいえる隋が中国を統一したのだ。
まあ、北魏政権の維持という観点からのみ論じれば、確かに孝文帝は些か性急に事を運びすぎた。
端的に言えば、北魏の天子には、反対勢力を強硬に抑圧して革新的な政策を推し進められるほどの
実力が備わっていなかったということだな。


176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:11:42 ID:J3benrf30
491 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/11(土) 13:29
>482(蔡京さんのチンギス史観を教えてください)
これまで一貫して主張してきたとおり、私はチンギス汗とその後継者たちを全く評価していない。
何となれば、蒙古帝国は中国ないしイスラム世界の一時的な衰頽に乗じて勃興したのみで、
特段の評価を与えるべき先進性を含有していなかったからだ。
ただ、それはそれとして、蒙古帝国の出現は、世界各地に色々の作用を及ぼした。
蒙古帝国がイスラム勢力を圧倒し、洋の東西を結ぶ交通路の中心に割拠したことで、
東西交流はかつてない活況を呈した。それは宋の支配下において完成した先進的な中国文化を
西洋へと伝播させ、13世紀以降、イタリア・ルネサンスを開花させる役割の一端を担った。
また、ヨーロッパと西アジアの宗教的対立を解消させた働きも見逃すことはできない。
まさに蒙古の大征服から最も大きい恩恵を享受したのは西洋社会であると言えるだろう。
翻って、蒙古帝国が中国社会に与えた影響は悲惨なものだった。元朝の後に出現した明王朝は、
漢族の政権でありながら、宋の復古ではなかった。それはどこまでも蒙古への反動でしかありえぬ
排他的かつ閉鎖的な政権で、中世以来開拓された西へ向かう交通路を遮断せしめ、
中国社会を世界から孤立せしめた。およそ文明というものが他文化圏との交通を前提として
相乗的に発展するものである以上、鎖国はある種の自殺的行為と言える。
いずれにしても、蒙古帝国の興隆が後世に及ぼした作用の中で、チンギス汗があらかじめ意図して
いたものは一つとしてない。チンギスは本能の赴くまま殺戮と略奪に興じたのみだ。
禽獣は禽獣であり、後世にいかな影響をもたらしたといえど、殊更に賞賛すべき点は何一つない。

492 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/11(土) 13:30
>486(五胡十六国時代で一番の英傑は誰だと思いますか?)
基本的に英傑不在の時代であったといえる。
まあ、強いて言うならば五胡十六国の動乱に終止符を打った、北魏の道武帝なり太武帝なりが
時代を代表する英傑ということになるか。ただ、上に述べたように北魏の成功はその特徴的な社会と、
早いうちに漢人と調和して統治基盤を整備し終えたことがプラスに作用した結果に過ぎず、
誰か一人ないし数人の英雄的資質に還元できるような出来事ではなかった。
指導者個人の力量に依存しすぎた前秦は、一個の失策を原因として短期間に瓦解した。
英傑的と呼べるような指導者の個性は、かえって社会全体の調和を妨げる悪弊となりうるものだ。

>517(もし煬帝が高句麗遠征をやらなかったら隋王朝は長く続いたんでしょうか?)
律令の整備といい、運河の再編といい、長期政権を打ち立てるだけの基礎的諸条件は、
まずまず整っていたと言えるだろう。唐が曲がりなりにも三百年近く存続した要因を
太宗の個人的実力に求めるのも一理あるが、隋の整備した諸制度を
ほとんどそのまま受け継いだことによるメリットは無視できない。
もっとも、これまで何度か述べたように、唐は極めて人民支配の実力に欠けていた政権で、
玄宗以降も存続しえたことは殆ど奇跡とも言える。たとえ煬帝が天子として立たず、
隋の天下が継続していたにしても、唐に起きたのと同じ奇跡を享受できたかどうかは疑問だ。
常識的に考えれば、隋が数百年単位で統一を維持するのは困難だったと思われる。
また、煬帝の評価も案外と難しい。暴君色の強い人物だったことは間違いがないにしても、
政権瓦解のきっかけとなった高句麗遠征が、明らかな政治的誤判断だったと言えるか否かは
幾許か議論の余地があろう。何といっても太宗ですら同じ轍を踏んで、痛い目に遭ったのだ。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:13:17 ID:J3benrf30
541 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/03/18(土) 17:42
>520(中国史上最高の名君親子が遊びに来たぞ)
朱元璋がある種の天才であったことは間違いない。少なくとも軍人としての能力は世界史上
最高のものを持ち合わせていたと言えるし、政治家としての実行力は唐の太宗に匹敵する。
また、政務への執着心は清の雍正帝とも比肩しうる。永楽帝の場合は、軍事的な面に傾斜
しがちだが、それでも水準以上の能力は備えた人物だったとして差し支えなかろう。
ただ、個人としての能力が優れているから直ちに名君と評して良いか否かは些か疑問だ。
たとえば秦の始皇にしても、煬帝にしても、あるいは徽宗ですら、それ相応な智慧や才覚には
恵まれていた。名君の名君たる所以は、国策に誤りのないよう指導監督するところにあり、
別段超人たることを要しない。たといあやめも分かたぬ白痴狂疾の類であっても、
名臣の輔弼を得て誤謬なかりせば即ち名君と評して何ら問題となるところはないだろう。
ま、私の個人的な見解として、明王朝の国民主義的、あるいは排他的、閉鎖的な性格が
後世の中国社会に及ぼした悪影響を極めて重要視しているため、必然的に朱元璋父子への
評価も低いものになっているが、それも所詮は一方からの批判に過ぎん。
実際のところ、明清を唐宋の発展形として位置づけ、中国社会の極盛期と考える向きも
少なくはない。そういった観点からすれば朱元璋も永楽帝も世界史上稀に見る名君となろう。


569 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/04/04(火) 16:34
>544(明代における朱子学の停滞は、永楽帝による方孝孺とその学派への弾圧が原因?)
方孝孺の一党が粛清されたことで、朱子学の理想主義的な面が骨抜きになり、
変わって統治機構との一体化を促す世俗的な性格が顕著になった───とは言える。
『性理大全』に代表される永楽以降の朱子学が、ただ科挙受験用の技術と堕して、
内省的、思弁的な哲学としての性質を失したという点は、後世しばしば指摘されるところだ。
もっとも、朱元璋の極端・過激な儒教政策がそのまま継続したものと仮定しても、
明一代を通じて朱子学がさらなる発展拡大を遂げ得たかと言えば、それは些か怪しい。
そもそも朱子学は実際の政治には何の役にも立たんのだ。朱子学に基づいた社会改革を
目指した南宋理宗の政治が悉く頓挫したことを考えれば、朱子学派は高尚な議論を
弄ぶのみで、およそ天下の政治を損なうものである───とした韓侘冑の指摘こそ正鵠を
射たものと言えはしまいか。この点、朱子学は本来重農抑商の色彩が濃い思想であるから、
明王朝の農本主義的な国策にこそ合致し、南宋の例と比較すること自体が誤りであるという
批判も一応可能ではあると思う。しかしながら、朱子学が備えた弊害とは、現実の社会問題を
直視せず、いたずらに空論に傾斜してあらゆる変革を嫌うところにあるから、かかる批判は
妥当なものでないと私は思う。そうすると、永楽帝の出現如何に関わらず、陽明学派のような
朱子学への批判意見が生まれたことは至極当然のことと言える。

>545(北虜南倭の禍ですが、蔡京さんならどんな手段で対処しますか?)
北虜にせよ倭寇にせよ、その根源的な要因は明王朝が国策として民間貿易を禁じたことにある。
まず北虜に関していえば、そもそも遊牧社会は中国市場に依存せねば自立的な経済を
営むことが極めて困難であり、中国側の認容する朝貢貿易のみでは社会の維持に必要な
経済的利益を得られなかった。そのため中国への侵入と略奪を繰り返したのであって、
原因さえ取り除けば衝突は止む。なにも全国を挙げて北方社会との通商を推進せよと
いうわけではない。ただ馬市を開いて現地人同士の交易を認めるのみでいいのだが、
嘉靖帝をはじめとする保守排外的な勢力にはそれを理解できなかったようだ。
倭寇についても基本的な部分は同様だ。結局、朝貢貿易の恩恵を受けるのは、
日本の支配者階級とそれに結びついた一部の特権層のみで、末端の商賈(無論これは中国人を
含む)は違法な密貿易を営むより他ない。実際のところ、明代においては私貿易を事実上
黙認していた時期があり、その期間には倭寇の出ることもなかった。まさに「貿易通ずれば倭寇は
商人と化し、禁じられれば商人は倭寇と化す」状態だ。別に祖宗の法をいたずらに侵せとは言わん。
しかしながら、法はその適用にあたって、現実の利益と調和した節度を守るべきだ。


178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:13:59 ID:J3benrf30
582 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/04/11(火) 03:30
>555(僕ちんの帝位が…。叔父ちゃんにけんか売るんじゃなかった…)
喧嘩を売ったこと自体は誤りではない。
朱元璋は唐代における藩鎮の意味を誤解して捉えていた。
朱元璋が皇族の諸子を封建して辺境防衛に当たらせたのは、唐代の精神に倣ったためで、
藩鎮の存在が塞外民族の侵入を防ぐ役割を果たす───という考え方に基づく。
しかし、唐代の藩鎮はそのように合目的的に創設された制度ではない。
あくまでも朝廷の統治基盤が弱小であるために生じた弊害だ。
言ってみれば藩鎮の存在は統治機構全体の中では異質なものであり、
たとえその運用を天子の血縁者にのみ委ねたとしても、本質としては変わりがない。
不要かつ不当な制度は当然に修正を加えるべきで、建文帝が諸王の粛清に乗り出したことは
至極妥当な行動だったと言える。むろん明の政府にはそれを可能にするだけの実力もあった。
にもかかわらず、朱棣の簒奪を許す羽目になったのは、純粋な戦略的ミスによるものだ。
そしてその背景にあったのは建文帝の優柔不断だ。そもそも、統治機構の確立した近世の
中華王朝において、内部的な簒奪が成功すること自体が奇跡なのだからな。

585 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/04/11(火) 03:34

>572(遊牧民史研究家の杉山正明は北宋を契丹の属国と断言していますよ)
宋は遼の圧倒的軍事力の前に政治的従属を強いられた───というわけではない。
そもそも遼は単独での存立すら困難なほど経済基盤に乏しい政権で、
宋に対する軍事的優位は戦術的優位に過ぎず、ひとたび局地戦に敗北を喫すれば
たちどころに崩壊しても何ら不思議ではなかった。セン淵の盟約が結ばれることなく、
11世紀以降も宋遼間の交戦状態が継続したとして、遼が中国全土を併呑した可能性は全くの零だ。
中唐以降の中国では兵農一致型の兵制が崩壊して、軍事コストが莫大に膨張した。
長期にわたる戦争状態は、たとえ最終的な勝利に終わったとしてもマイナス収支しか残さん。
それに比べればセン淵の盟約で約定した歳幣など、まったくのはした金だ。
結局、セン淵の盟約は両国間の国力や経済規模があまりにも隔絶していたために生じた、
極めて特異な外交関係であるといえる。また、遼は宋から受けた歳幣を国内経済の発展に
投資することが出来なかった。すなわち燕雲十六州を中心とした州県部においては、
中国から物資を購入する為の支払いに銀と絹を使い尽くし、北方の部族制地区においては
ウイグル商人を介して、西方社会に財貨を流出し続けた。結局、中国に経済的に従属することで、
中国本土より百年遅れた社会をかろうじて維持したというのが、遼王朝の本質だ。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:58:47 ID:TIHIz2DX0
この人の明嫌いは異常w

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:05:03 ID:BfTUmOpS0
>596(李氏朝鮮が静かなブームだけど、国家としての歴史的意義はどんな物なんですか?)
20世以来しばしば指摘されてきたように、李朝社会はその停滞性と他律性を大きな特徴とする。
特に商業分野での不振が著しく、市場経済・貨幣経済が未発達のままで、首都ソウル以外には、
万単位の人口を擁する都市がほとんど存在しなかった。
その理由はいくつか考えられるが、最も大きな要因は朱子学的国家観に基づいた極端な重農
抑商主義にあっただろう。同時期に成立した明王朝の影響を強く受けたものと考えられる。
ただ、明王朝では商業抑制策がうまく機能せず、結果として朱元璋の忌み嫌った貨幣経済が
発達することになった。これは中国では既に市場経済が社会に根を下ろしていたためだ。
中国の支配者層である士大夫階級は、多くが都市生活者であった。地主ではあったものの、
封建的な土地支配ではなく、市場を通じての売買により所有権を取得した。日用の必需品も
すべて市場から調達している。すなわち、市場がなければ生活を営むことができなかったのだ。
対して李朝社会の支配者層である両班は、ほとんどが農村に居住し、大勢の奴婢を使用して、
ある種の荘園経済を営んでいた。荘園は自給自足の社会だ。荘園主は自ら所有する土地から
日常生活に必要な物資を調達し、市場における交換を必要としない。
明王朝と李氏朝鮮が、ともに成立段階において重農抑商を目指しながら、かたや失敗に帰し、
かたや成功を収めた要因は、かくのごとく社会支配層の存在形態の差異にあった。
むろんこの「成功」が李朝社会にとって大きな不幸を招いたのは事実だが、
巨視的には明王朝も含めた東アジア社会全体の停滞の一環をなすものであったとも言える。

>608(北宋特に王安石は契丹や西夏に軍事的に圧迫されながら軍制改革に手を
    つけなかったのは何故ですか?王安石の新法も財政・税制改革が主な物だったし)
新法の中にも軍制改革は含まれている。保甲法というのがそれだ。
農閑期の農民に軍事教練を施し、民兵として使用することを目的とした制度だな。
王安石は、盛唐における兵農一致・国民皆兵こそ周礼の理想に合致するものと考えたらしい。
中唐以降盛んになった傭兵の使用は、俸給の支払いに莫大なコストが要求されるため、
財政面からみればこの考えにも一理ある。しかしながら唐の府兵制は、均田制を前提として
はじめて維持可能なものであったから、土地私有を名実ともに公認した宋代社会には
到底馴染むものではない。また、戦争のたび一々農民を徴発して戦地へ動員していては、
農村経済が崩壊する。そのため、既に華北を中心として広く行われていた義勇兵(郷兵)を
正規軍と交代させて国防に当たらせるという手段にとどまった。

北宋政権が金の侵攻により崩壊に至った原因として、軍事政策の不備を指摘する立場からは、
保甲法の成果を否定する見解が多い。とは言え、数字上ははっきりと結果を出しているのだ。
神宗の元豊7年には、仁宗期に比して国軍50万人の増員を得、歳出にして二百万貫の減額を
達成することができた。途中、旧法党政権の時代に一時的な廃止を見たものの、
徽宗期に入ると、>>375で述べたとおり民兵の総数はおよそ700万超にも達した。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:07:04 ID:BfTUmOpS0
658 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:31
>610(もし徽宗が旧法派に同調したら、王安石ら新法派を弾圧した?)
そうであったなら、私はそもそも宰相として登用されていない。
弾圧される側にまわって、歴史の影に消えていただろう。
私が司馬光の下で新法の廃止に力を注いだ一件はあまりにも有名な事実だが、
それはまだ地方官時代のことで、宣仁太后の没後、戸部尚書として中央に入った後は、
一貫して新法の敷衍に努めた。旧法党への鞍替えなど不可能であったし、意味もなかった。

そもそも徽宗が新法を弾圧した可能性などほとんどゼロだ。
徽宗は父の神宗や、兄の哲宗に心酔していたし、この期に及んで旧法党に便宜を与える理由が
まったくなかった。摂政の向太后でさえ、心情的には旧法党に同調しつつ、新法党の大臣を
用いざるを得なかったのだ。宣仁太后ですら一時期は新法の採用を周囲に打診したことがある。
旧法党の述べる主張は何の定見も説得力もなく、司馬光の死後はほぼ分裂状態であった。
党争に敗れたというよりは、勝手に自滅したとみなすのが正解であろう。


659 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:32
>618(蔡京様は、徽宗をどう見ておられたのですか?)
ほぼ貴卿の指摘するとおりだが、徽宗自身は天子になれてやはり幸福だったろう。
あれほどすさまじい奢侈生活を営んだ人間は、中国はおろか世界史全体の上でも稀だ。
…不幸であったなどとは言わせん。

豊享豫大の説を唱えて徽宗に贅沢を勧めたのは私であると一般には言われるけれど、
そんなものは後世の史家の誇張だ。ほとんど破綻状態であった財政収支を修復し、
宋王朝の中興を果たした功績を賞賛こそされるべきで、そこから生み出された富を
欲望の赴くままに食い尽くした馬鹿と責任を連帯させられるなど、まったくの不条理だ。

諸君も徽宗の描いた花鳥図を目にしたことがあろう?
絵画とは写実的であると抽象的であるとに関わらず、画家の精神を反映しているものだ。
単に技巧のみ備えたところで自ずと限界がある。徽宗にしても、天子として人後に落ちぬ
享楽的な生活を送っていたからこそ、ああいった非凡な作品を生み出し得たのだ。
もし一介の親王として生涯を終えていれば、後世に画名を轟かすことはなかっただろう。
その意味でもやはり徽宗は幸福だった。してみれば北辺で孤独のうちに客死したことなど、
なんの同情にも値せん。暗主暴君に相応しい因果応報でしかない。

>619(モンゴル帝国やティムール朝を始めとした遊牧民国家は急速に膨張しますが、
    大抵後継者選びの段階で内紛おこして帝国分裂→衰退・崩壊・土着化しますね)
遊牧社会というものは経済力にまったく乏しく、非文明的で停滞を生じやすい社会だ。
余剰生産物もほとんど生み出さぬし、各氏族・部族は互いに孤立して連絡を持たず、
自然環境に翻弄されながら未開の生活を営む───というのが本来的な姿だ。
一般に抱かれる粗暴で攻撃的なイメージは、あまり正しいものとは言えないだろうな。
確かに天災などの事情により食糧備蓄が欠乏した場合、各部族・氏族が結束して大規模な
略奪行動を起こし、ついには巨大な遊牧国家を形成するケースもある。
匈奴や突厥がその好例だが、世界史全体としては極めて特殊の事例と言えるだろう。
必要に迫られたための臨時・突発的な結束であったからこそ、定見もなく無秩序に膨張して
中国内地に確固たる支配を及ぼすこともなく崩壊しているのだ。

まあ、そう考えれば遼王朝は例外ということになってしまうが、
遼を立てた契丹族は、本拠地が万里の長城に外接して、唐との往来が盛んであったため、
遊牧民としては文化的にも政治的にも成熟していたのだろう。
かといって、契丹も遊牧社会には違いがないから、全く無抵抗に中国文化を受容もせず、
遊牧民と農耕民を分割して支配するという、特殊な統治機構を作り上げた。
意図してのことではなかろうが、結果としてこれが巧くいき、それまでの遊牧国家とは全く
性質を異とする画期的な政権を誕生させたわけだ。
金(女真族は遊牧民とは言えんが)にしても、蒙古帝国にしても、基本的には遼の方式を
踏襲したからこそ、一定の支配力を以て中国内地の統治が可能であったのだろう。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:07:41 ID:BfTUmOpS0
660 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:33

>625(司馬光や蘇軾の墓を暴いて屍を晒して辱める事を思いつきませんでしたか?)
宣仁太后が歿して、哲宗の親政が開始された直後からそういう動きはあった。
中心人物は新法党の宰相章惇と、私の実弟卞だ。この二人は新法党の最過激派とでも
いうべき立場で、旧法党への復讐に手段を選ばなかった。
司馬光の贈諡を奪って追貶し、宣仁太后の推薦になる皇后孟氏を廃し、
遂には宣仁太后自身の陵墓を庶人のものに変え、追罰を与うべしと上奏するに及んだ。
皇后の廃位には同意した哲宗も、宣仁太后の追廃は許さず、奏状を床に叩き付けて
惇卞両名を罵倒した。もっとも、この件で章惇なり蔡卞なりが処罰された事実はない。
母后の向氏に泣きつかれたため、表面上のパフォーマンスを演じただけだろうな。
ただ、その後章惇が世論の激しい批難を浴び、哲宗歿後直ちに失脚したのは
明らかにこれが原因であった。悪人ではなかったが些か直情的すぎたと言えよう。

そういった事情が過去にあったため、私が旧法党への弾圧を加える際もある程度の
慎重さが要求された。墓を暴くとなればたとえ姦党のそれであっても世論の反発が恐ろしい。
なので姦党碑を立てて旧法党員の名を明示し、彼らの著作を処分して、
子弟の任官と京師への立ち入りを制限するくらいがせいぜいの限界であった。
弟などは「生ぬるい」と噛み付いてきたものだが、感情論だけで政策を決定しても意味がない。
全体としては妥当な判断をしたものと自負している。


662 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:35
>630(北宋の障壁である尚文卑武の基本政策を改めようとしなかったのは何故ですか?
    結局、それが南宋まで尾を引いて王朝の衰退を早めたし)
尚文卑武の気風自体は中国社会に伝統的なもので、宋代のみに見られる特色ではない。
ただ宋代の場合は、実際の政治機構に反映された面が大きかったというだけの話だ。
いずれにせよ、そうした文官上位の統治傾向が宋の衰頽を早めたという認識は誤りだ。
軍政と財政の中央集権化に成功し、国家権力が何者の掣肘も受けなかったからこそ、
五代以前の王朝とは比較にならない確実な支配を可能にしたのであって、
そこには文官による軍隊の統制が不可欠の要素だった。
いったい宋は脆弱な政権と考えられることが多いが、実際には軍事面でも経済面でも、
唐はおろか前漢の最盛期をもはるかに凌駕した。中国史において300年を超えて政権を
維持した王朝は宋のみだ。唐王朝は多くの優れた政治制度を生み出したが、
それを実行に移すだけの実力に欠けていた。古代から中世にかけての中国文明を
集大成させて、まったく新しい社会を切り開いたのが宋であるといっても過言ではなかろう。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:08:00 ID:BfTUmOpS0
663 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:37
>635
>唐は南部の穀倉地帯を押さえられて滅びましたよね?
間違ってはいないが、既に唐末は中央の権力がまったく地方に及ばなくなっており、
単に江南への支配が及ばなくなったため政権が崩壊したというようなことではない。
そもそも唐王朝が、黄巣の乱のような大乱に遭ってなお無事でいられた筈もなかった。
食糧供給の問題に目を向けるなら、むしろ穀倉地帯そのものを失ったことよりも、
運河による輸送ルートをズタズタに破壊されたことの方が深刻であった。

>それまでに存在した北にある政権は南部を南朝に押さえられたままでも
>ある程度存在できたのになんで唐はそれですぐ滅びちゃったんですか?
初唐あたりを境に農業生産の中心が関中(陝西省南部。長安も入る)から江南へと
シフトしたからだ。史記が「中国の富の十分の六は関中にあり」と述べたとおり、
秦漢両王朝はまさに関中の富を背景にして中国全土を統一する政権を築いたが、
唐代においては国都の食糧供給を関中の農業生産力のみでは賄えなくなり、
新たな穀倉地帯として江南地方の開発に着手した。同じく長安に都した前漢と比べ、
唐の国都維持にかかるコストは遥かに割高だったということだな。
江南の農業生産地としての価値が高まるにつれ、関中の地理的意義は失われた。
五代の混乱期における少数の例外を除けば、唐以後関中に都した政権はない。
今日の陝西省は中国の中でも見るべきところのないごく貧しい地域だ。
一方江南は中国経済の中心として繁栄を謳歌している。
こうした構図はまさに唐代に端緒が開かれたものと言える。


>637 トゴンティムール
>気がついたら大都放棄だよ。今更、田舎のモンゴリアになど帰りたくないな
そう思うのであったら、形ばかりでも抵抗を示してみればよかったのではないか?
元王朝の終焉には何の悲劇性もない。抗戦するでも、降伏の条件をめぐって折衝を
繰り返すでもなく、まるで数年かけてあらかじめ準備していたかのように、
手際よくあっさりと北地へと逃げ去ってしまった。
ま、潔い態度と言えばそれまでだが、明の側でもさぞ拍子抜けしたことだろう。
所詮蒙古人は漢地を支配する上で必要とされる度量も定見もなかった。
そなたの治世を好例として、漢化政策に力を入れた時代もあるにはあったが、
それもごく表面的な調整を図ったにとどまり、漢人と蒙古・色目人の間の根本的な
融和をなすようなものでは到底ありえず、すべて場当たり的な弥縫策の域を出なかった。
邪教に傾倒して怠惰な淫蕩生活を送るだけなら、中国に居住する必要もあるまい。
寺院の中に篭っていれば、モンゴリアの冷たい風を肌に受けることもなかろうよ。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:11:05 ID:BfTUmOpS0
685 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/24(水) 23:37
>639(蔡京の生きてた頃の宋て世界でも最高水準の航海技術持っていたのに
    何故、海外進出を国家プロジェクトで行わなかったの?)
具体的な必要性がなかったからだ。中国製品の需要など世界中いたる所に存在していたから、
新規に市場を開拓する必要がない。また、陸上の交易路(例えば旧来のシルク・ロード)は
西夏の出現により衰えたが、南海貿易に要する海上交易路を阻むものは一切なかったため、
やはり新規に航路を開拓する必要はまったくなかった。
宋代の貿易港としては泉州(ザイトン)が有名だ。泉州に市舶司を設置し、
外国船の直接寄航を認めたのは哲宗の元祐二年のことで、これは宣仁太后の治世にあたる。
こと海外貿易の奨励については、新旧両法党ともに積極的だったのだ。
南海貿易から得られる関税は、徽宗の代でおおよそ国家財政の二十分の一を占めた。
むろん貿易に従事したのは外国商人ばかりではなく、中国商人も目覚しく南海・中東諸国を
往来していたので、当時の航海技術は十分に反映されていたと言えよう。

>641 アフマド
>南宋が大量に残した負債を俺が処理しなけりゃ大混乱になっていただろう
言うまでもなく南宋の通貨は銅銭であり、税金も銅銭での納入を原則としていた。
いくら政権が交代しようとも、銅の価値自体は不変だ。
よって南宋が崩壊したことで直ちに市場経済が停止するような事態は生じなかった筈だ。
補助通貨としての紙幣も存在はしており、それは確かに南宋の滅亡とともに機能を
失ったに違いないが、元が南宋の紙幣の兌換に応じたなどという話は聞いたことがない。
したがって「南宋が大量に残した負債を俺が処理」などというのは全くの出鱈目だ。

むしろ負債というならば、元王朝が紙幣一本建ての通貨制度を採用していたために、
その崩壊後、中国社会から貨幣資本がすっぽりと消失してしまった点を挙げるべきだ。
元代は銅銭が鋳造されず、本来は紙幣の発行準備金として
蓄積されていなければならなかった銀も、そのほとんどが西域に流出してしまった結果、
元から明への王朝交代が発生した際、貨幣経済が麻痺同然に陥った。
これこそまさにモンゴル人が中国社会に残した負債と称して差し支えないのではないか。


686 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/24(水) 23:38
>643(林則徐の評価をお願いします)
イギリスを相手にある種の意地を貫いたという観念的な功績のみが一人歩きして、
英雄視されることが多いが、実際には林則徐の強硬で保守的な態度がアヘン戦争を
招いたといえるのだから、賞賛すべき性質の人物ではない。単にg善などとの比較で
まだしもまともな人物に映るというだけで、虚名の英雄に過ぎないだろう。

もっとも、500年近くにわたって鎖国的な外交政策を続けてきた中国社会において、
体制側から自発的に開国論を唱えるような人物が出現したはずもない。
その意味では林則徐の不明も時代の精神を反映したものであり、
彼もしくは道光帝個人を無為無能と責めるのは酷であると言えなくもない。

アヘン戦争後に締結された南京条約の内容を見ると、広州をはじめとした五港を
外国貿易のために開港し、治外法権や外国人居留地の設置を定めているが、
宋代にはこの程度の対外政策は既に実行されていた。してみれば宋代の政府であれば、
この複雑な外交関係を臨機応変に処理できたのではないかと思わないでもないが、
まあ───意味のない推察だな。所詮は近代化に立ち遅れたことが全ての悲劇の原因だ。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:11:26 ID:BfTUmOpS0
>644(何故、中国の士大夫階級は重農主義なんですか?)
儒教がそもそも反商業的なイデオロギーだからな。
とは言え、孔子自身は商業に否定的ではなかったと考えられるし、論語の中にも直接
商人を攻撃するような思想は見てとれない。商業による利殖が儒教の説くところの
「義」に反すると言われ、商人蔑視の風潮が固定化したのは漢代以降のことだろう。
むろん司馬遷のように商人の歴史的役割を高く評価する者も少なくはなかったが、
そうした考え方は儒教が社会倫理として発展してゆく過程で、次第に衰退していった。

士大夫というものは、その殆どが地主だ。
地主階級=士大夫と考えてもさほど大きな誤りではない。
地主にとって、自己の所有する土地で農作業に従事する農民は、財産そのものだ。
農民がその経済生活の全てを地主に依存してこそ、地主の利益は最大のものとなる。
農民が生活に必要な物資を商人から購入することは、農民の購買力が外部に流出し、
地主が本来得られるべき利益を、商人に収奪されることを意味する。
それゆえ地主というものは、農村に貨幣経済が浸透することを好まない。
むろんこうした社会観がそのまま政治に反映されれば、経済発展を妨げる要因となるから、
宋代以降次第に修正されては行くが、そもそも中国が農耕社会であることや、
儒学を根拠としていることから、後世に至るまで一定の説得力を有し続けたことは確かだ。


>654(蛮子の皆さん、突然ですがモンゴル皇帝モンケ・カアンの名において
    ちょっと征服させてもらいますよ)
確かにモンゴルは南宋政権を滅ぼして、中国全土に支配を確立したのだが、
モンゴル流の経済政策を旧南宋領に及ぼすことができなかった。
江南地方では科差、科糧が実施されず、中唐以来の両税法がそのまま維持されたのだ。
宋代に流通した銅銭の回収がスムーズに行かなかったことと、壮丁を人数割りにして
均一の税を課す方式が、漢人の強い反発を受けたためだろう。
中国史上いかなる時代でも、このようなダブル・スタンダードが実施されたことはなかった。
これは政策上の便宜から出たものではない。金王朝と同じで、江南にまで完全な支配を
及ぼすだけの実力に欠けていた結果、妥協をはかるしかなかったのだ。
結局、モンゴル政権に可能だったのは、旧南宋領の漢人を差別的な立場に置いて
精神面での嫌がらせをする程度のことだった。まあ、蛮族らしい姑息な知恵と言えよう。

>656(なんで長安から北京に中心が移ったの?)
宋が南渡して以来、中国の経済的・文化的中心はずっと江南であって、
現代に至るまでその構図は変わっていない。地図を見れば一目瞭然たりうるように、
北京はまったくの辺境だ。運河の終端であることから、孤立した地域ではないにせよ、
独立の経済を維持するには到底困難な都市であったといえる。
明王朝がここに都したのは、あくまでも北辺防衛のための便宜に応じてのことだが、
それにしても食糧輸送の莫大なコストを負担してまで北京に拘る必要性は薄かった。
江南の気質を嫌う永楽帝だからこそ意味のある国都だったと言えよう。
現に永楽帝の死後、あとを襲った洪煕帝は南京への再遷都を決めている。
洪煕帝があまりに短命で、さらにそのあとを継いだ宣徳帝が、祖父に似た武人肌の
持ち主だったためか、再遷都の計画は結局沙汰やみとなったが、
まともな感覚で考えれば、やはり北京を国都とすることは不自然だったのだ。
なお、長安をはじめとする陝西地方が衰頽した経緯は>>663で述べたとおりだ。


186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 01:02:46 ID:BfTUmOpS0
>673(文天祥て結局、大した政治的文化的功績残してませんね)
確かに政治的には何の定見もない無能な人物であったと言える。
もっとも、賈似道時代にはまだ微職にすぎず政権の中枢にいたわけではないので、
亡国の責任を負わせるのは酷であるが、右丞相に擢用されてからも、
勝算の皆無な抗戦論を唱えてみたり、講和使として皐亭山に赴いたにもかかわらず
伯顔を相手に口論を挑んで身柄を拘束されたりと、言動のすべてが場当たり的で、
思慮の浅い人物と苦笑するより他ない。文天祥の精神の根源にあったのは
言うまでもなく朱子学だ。なにせ理宗の科挙で状元(首席)になったくらいだからな。
朱子学が服を着て歩いていたようなものだ。こうした愚直で純粋な生き方が、
後世の人間を感動させたことは確かだろう。辞世となった『正気の歌』も忠烈の
証として高く評価されているな。むろんそれはそれで適切な評価ではあるだろうが、
私個人としては、朱子学の徒らしい幼稚な意地が滲み出た駄文にしか見えん。

>674(蔡京様が1275年の南宋の宰相だったらどういう対モンゴル対策しましたか?)
どうもこうもない。その時点では既に南宋の原状回復は不可能だろう。
文天祥や張世傑を更迭し、恭宗を伴って伯顔の軍門に降るだけのことだ。
むろん陳宜中のように後々態度を翻して、無様な最期を遂げるつもりはない。
元に登用されれば素直に応じるし、いらぬと言われれば静かに隠棲するのみだ。

740 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/06/14(水) 03:14

>680(北宋の太宗は兄の太祖を暗殺して即位したという俗説があるけど本当の所はどうよ?)
確かに太祖から太宗への権力交代には不自然な点が多い。
太祖には男子があったから、本来なら彼らのうちの一人が後を継ぐのが当然だ。
太祖が没した直後、年の明けるのを待たず改元した点も不審といえる。
宋の文治主義が完成したのは太宗の時代だ。あくまで軍人的性格の強かった
太祖と比して、太宗の文臣を優遇する態度は極端なものであった。
文臣の歓心を買うため、卑屈なまでの人気取りをした───といっても過言ではない。
こうした所作がすべて、違法な権力奪取への批判を抑える目的から
出たものという主張も、なるほどそれなりの説得力を有している。

しかしながら、いずれも状況証拠ばかりで真相はわからん。
仮に簒奪が事実としても、李世民や朱棣のように公然と行われたのではあるまい。
公然の権力奪取であったのならば、多かれ少なかれ記録が残るはずだ。


187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 02:46:08 ID:LmY6Uawj0
同意できるとこも多いけど、納得できないところも多い

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 04:53:46 ID:qpaWqHKF0
私が納得できないのは
・カエサル・ティムール・チンギスの過小評価 ← 大帝国築いた人間を批判したいだけ
・光武帝の奴隷解放を「誰でもやったこと」と表現 ← 古代中国にとってこれがどれだけ画期的なのか理解しているのか?
・明清は引きこもり ← 鄭和はスルー?
・神宗ベタ褒め ← 私が無知なだけ?中興もしてないのに名君は過剰評価でしょ。
・万暦帝を「世界史上の愚帝」と酷評 ← 少なくとも張居正時代は無難に政務してます。世界史上は飛躍しすぎ

でも朱元璋が明を混乱させた元凶というのは同意。

まあ、あくまで蔡京のなりきりを演じた上での発言だから中の人自身はどう思ってるか知らないけどね

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 06:40:19 ID:Y5JXCS5X0
いいかげん うざい

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 07:06:11 ID:xrhce20S0
この荒らしを全文読む人なんか居ないから↑はみんな自演

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 07:50:58 ID:56b5o//R0
光武帝の奴隷解放をなんか神聖視しすぎてるのもどうかと

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 18:13:13 ID:PMhwGkzY0
推奨NGワード:蔡京 ◆GtkPmKwSp2

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 19:02:07 ID:VqUOd4Eg0
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1165927226/19
削除依頼出した

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 19:10:39 ID:UoOxUOPb0
>>190
いや、一応全部読んだけどねw

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 19:53:30 ID:BfTUmOpS0
>>193
「文章を保存する目的」とかそんなことするメリット俺にはどこにもないし・・・・・・
燃料代わりに投下したのに中身の審議もしないうちから
削除依頼とかツマラン展開にも程がある。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 20:09:30 ID:xtn2HBIO0
自分の尻についた火の燃料になったということだ
アク禁の心配をするがいい

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 20:30:25 ID:BfTUmOpS0
アク禁か……
まあ兎に角残念の一言だなあ……

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 20:31:27 ID:qpaWqHKF0
せいぜい4・5レスで留めておくべきだったな。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 20:43:55 ID:6gmxL4ol0
こうやって中英はどんどん過疎っていく

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 20:44:21 ID:1eM84hgc0
自分は面白かったけどね。ただ、122の自分のレスがわずかの間で遠のいたよな・・
>>195が蔡京本人だったら、また、来て欲しいね。
なかなかの見識だ。興味ある回答でもある。大学の講師クラスの知識もあると思われる上に
彼らの多くのように意味不明な思想にも染まっていない。
しかし、この蔡京。前、名将列伝スレに話題にされていた
『朱元璋は中国史上一の名将だが、皇帝としてはクソ』と言っていた人と同意見なんだよな・・
ひょっとして、同一人物?



201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 20:52:05 ID:xtn2HBIO0
宋代近世論が唯物史観の時代区分論を克服できなかったのに
これを絶対的な真理であるかのように考えているのは全く失当だ
そして時代区分論も中世暗黒説も道路工事利権も
このスレとは何の関係もない

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 21:22:57 ID:qpaWqHKF0
つまり大清帝国最強ってことでFA?

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 21:59:33 ID:BfTUmOpS0
746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 09:53:08
中英の前漢vs後漢・・・スレに湧いた湧いた。

orz

>>200
中国史上じゃなく世界史上とは言った気がする。
まあ、その人の受け売りなので何故そうなのかは分からない。

>>201
道路工事利権なんか張った覚えはないけど、他の二つは関係あるだろうに。
唯物史観以外は科学的思考に非ずという感じだが、
なぜそうなのかを語らないことには、
蔡京 ◆GtkPmKwSp2 > ID:xtn2HBIO0 という感想しか持てないな。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 22:34:22 ID:UoOxUOPb0
絶対真理とは言わないけど、宋代近世論は自分も採る。
中世といえば、閉鎖された支配体制というイメージが強く
貴族主義に代表されると考えると、それを否定し、あるいは
破壊されたあとの社会に台頭した、これまでは政治にさほど
関わりのなかった層から、官吏官僚が多く出たと言うのは
時代や背景は違えど、今の日本的な体制を彷彿とさせる。
そこからやがて、名家のようなものが出てくるのはやむないところ。
どうしても、権力や名誉は自分のあるいは一族の手元に固定したいと
いう欲求が、人間には働くから、制度の範囲内でそうしたがるのだろう。
それが行き過ぎると、民乱等につながるのだけど。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/11(金) 16:34:08 ID:iNK00ifC0
版図という視点から見れば、カスピ海以東の50余国を服属させた後漢もあなどりがたい。
カスピ海まで版図を広げたのは、後漢の他にはモンゴルを除いくとどの国もできなかったこと。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/11(金) 20:46:18 ID:IwcD3HTi0
まあ殆んど班超のおかげだよね

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/11(金) 21:52:31 ID:NkHd9jJt0
中国だけじゃない、ユーラシアに存立した勢力のことを
掘り下げないと、単純には言えないけどね。
唐崩壊以降、少なくとも東アジアでの主人公は、もう中国だけじゃ
なくなっているくらい、大陸には人のエネルギーが充満していたのだから。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 07:40:13 ID:jE51ncGL0
突厥もササン朝ペルシャと組んであのへんで暴れまわっていたきもするが
漢民族を支配した国でってことかね

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 21:46:29 ID:mo1uNbUC0
http://www.shonan.ne.jp/~gurex/china/kan/gokanmap.htm
↑で見ると、後漢の版図はカスピ海どころかアラル海までも届いてない。
それとも烏孫、大宛、康居、奄蔡といった国は漢字による当て字がついてるけど、
漢に服属というか朝貢してたのかな?

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 10:00:37 ID:etJnxurP0
西域への版図なら、後漢より唐の方がずっと範囲広いでしょ
それに唐は、突厥を倒しているんだし

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/21(月) 16:59:45 ID:/e7QT2zQ0
なぜか、後漢ってこの板では過大評価されやすいね
光武帝ファンか三国志ファンかな?

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/22(火) 01:40:13 ID:uHmD9J5b0
日本の東洋史学で(中国じゃどうか知らんが)前漢や唐が過大評価されてることへの反動じゃね?

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/23(水) 15:35:25 ID:GoLDo+Pm0
ちょっと違う面もあるが、班超vs李靖

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/07(木) 21:49:57 ID:Pe1NkliU0
前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

総合なら清。
清以前の時代において発明された技術や文化、経済を下地にしている点。
軍事では最大級の版図を築き大国であった点。
ただその時代の割に、という要素や一部のみ限定(焼き物など)する場合この限りじゃないと思う。

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