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中国史上の謎の事件人物について語る

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 19:16:52 ID:ejLbCmVW0
長い中国の歴史上には、真相が謎に包まれた人物や事件がたくさんあります。
 そんな、中国史上の謎について語りましょう。

(例) 千戴不決の議(宋朝の太祖趙匡胤の死と、弟である太宗趙匡義による帝位継承の真相)

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 23:07:32 ID:IZtifpwf0
謎ねえ、やっぱり死の真相に関わる謎が多いかな。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 23:20:00 ID:gADhc+e3O
楽毅が斉を滅ぼさなかった件

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 00:42:54 ID:d+ryr6dJO
漢の恵帝の後を継いだ皇帝は諱が不明
(一般に「恭」とされるが実は根拠はない。史記・漢書やその注には書かれていない)
彼はまた恵帝の実子ではないと思われがちだが、その根拠もなく、恵帝の実子と思われる
なのに間違いが通用しているのが謎

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 17:16:01 ID:rEP+geB50
中国史上の謎と言えば、

・曹魏明帝(曹叡)の父親は本当に文帝(曹丕)なのか
・北魏孝文帝と馮太后の関係は、義理の祖母と孫ではなく、
 実の母子だったのではないか

とかもあるな。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 01:10:39 ID:zzI2Diy4O
>>5
それなら秦始皇帝の出生が一番有名だね

マイナーなところでは漢の昭帝は霍光の子供だって話がある

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 09:05:10 ID:ObInEwQx0
近いところで言えば清の順治帝の出家説
乾隆帝の出生についても母親が漢族とかいろいろあるらしい

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 13:47:06 ID:zzI2Diy4O
出生と言えば晋の元帝もあったね
信憑性は始皇帝や魏の明帝より更に怪しいと思うが

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 16:05:04 ID:0qadWPfZ0
>>7
乾隆帝漢族説は信憑性はほとんどないようだけど、
順治帝出家伝説はどうなんだろう。

そういや明の建文帝も出家伝説みたいなのがあるね。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 23:43:34 ID:fUciDyvr0
謎といえば老子

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 18:41:21 ID:2S0yxpz10
>>9
格別、仏教信者でもない康熙帝が五台山に何度も行幸しているのが不思議ですね。
建文帝に関しては雲南に逃れて、そこの寺廟に隠棲して正統年間まで生きたという説から
泉州経由で東南アジアに渡航した説まで幅広くありますが、仮に生き延びたとしても
永楽帝の東廠・錦衣衛の追求から免れたのかという反論もあります。

>>10
老子が釈迦になったという『化胡説』が後漢からありますな。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 16:00:50 ID:3XMnymf40
李自成が実は生き延びていたという伝説もあるね。
やはり出家したとか。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 13:42:29 ID:33ShAuPe0
金庸の武侠小説はこういうネタをよく使うな。

李自成が実は生きていた → 雪山飛狐
順治帝出家 → 鹿鼎記
乾隆帝は実は漢人 → 書剣恩仇録

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 16:32:26 ID:JQ1cFxZz0
金の章宗も徽宗の外孫とかいう噂があったけど、
完全にガセ。
異民族でちょっと出来がよかった皇帝を漢人と
言い張るのって伝統的なのか?

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 23:56:23 ID:Wp3sCcEh0
雍正帝の死も暗殺説とかがあるね。

本当は過労死みたいなもんだったらしいけど。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 23:48:02 ID:RgHqYmkc0
雍正帝が親王時代に、少林寺に入って武術修行したって話は、
実際に伝わる伝説なのかな。
それとも映画や小説のネタなのかな。

17 :24史:2007/02/21(水) 00:43:33 ID:NQN/kVEZ0
不知道你们知不知道秦始皇的身世之迷呢?这在中国是家喻户晓啊!起至吕布韦“奇货可居”的故事。

宋太祖趙匡胤 “烛光斧影”之迷 野史是说被弟弟趙光义联合宦官用斧头杀害的。
顺治出家说是因为爱妃死了,其实是子虚乌有,最大可能是生病早夭。
乾隆的身世说是和海宁陈阁老有关,是雍正皇帝政治斗争的产物,大抵也是意淫的。
还有明建文皇帝朱允文,被叔叔造了反,战后因为没找到尸体,就有人传说他没死会杀回来的。
还有雍正皇帝说是被吕留良的女儿吕四娘暗杀,连头都被割去了,其实他最大的死因可能是服丹中毒。



18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 14:57:03 ID:eu48hN5y0
蒲将軍謎じゃね?

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 02:24:27 ID:CeEZ6TQDO
蒲将軍くらい不明な奴、あの時代にはいくらでもいる
樅公だってあれだけ鮮烈な死に様が記録されてるのに本名不明だぜ

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 15:21:49 ID:4QJww6sP0
4000年最大のミステリー張良の処女膜を破ったのは誰か!?

項伯  ⇒ あのストーカーぶりから見て、超本命といえるだろう。
蒼海公 ⇒ 張良の体が目当てだった可能性高し。
劉邦  ⇒ 宦官の膝で寝ているような人だからねぇ。犯りそうだな。
呂后  ⇒ 女性でありながら巨大なイチモツを持つ烈女

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:57:28 ID:bj6yZ9qX0
乾隆帝漢人説は誤解

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 21:58:02 ID:ytTibeqn0
>>13
福康安が乾隆帝の私生児というネタも実際にある伝説みたいだね。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 15:10:12 ID:3EZHpqgI0
ろうあいのチンポはどのくらいのサイズだったんだろう?

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 16:57:25 ID:oh0qatE1O
始皇帝は本当に呂不韋の子供なのか

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/19(月) 22:47:53 ID:iua/T2O90
始皇帝が呂不韋の子という話は、当時かなり一般に広く流れた噂らしいね。
六国を滅ぼした秦への恨みから来る中傷の可能性もかなりあると思う。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 18:09:25 ID:5Tn7AakC0
でも始皇帝の場合、始皇帝自身もそう思ってたんじゃないのかな、と思う。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 21:51:00 ID:Rl8qGuY8O
家臣の何某が自身の妻なり愛人を、皇帝などの時の権力の頂点の人物に
譲ったり、奪われたりした場合、その女との間に出来た子は
必ずと言っていいほど、その出生を疑われる。

基本的によくあるパターンだから、あんまり気にしないで良い。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 22:30:28 ID:TWefrrm6O
曹叡も同じパターンだな

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 22:38:17 ID:GVhBkfzt0
>27
でも史記に書いてあるとおりなら、始皇帝の母親、いろんな意味で無茶苦茶
だからなぁ〜w
あんな母ちゃんなら、出生疑われてもしようがないと思うよ。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 01:47:41 ID:hw5oNMCnO
>>29
疑わしいと、事実との差はでかい。

始皇帝の出生に関しての疑惑は、戦国策には記載されておらず、
戦国策を参考にしていることの多い史記が、なぜこの説を記したのか?
その根拠とした資料も分かっていない。

歴史上、悪人とされる人物は、悪意を持って書かれことも多く
始皇帝の場合もその類である可能性は高い。
現状では史記、漢書に書かれている説ぐらいに思うのが賢明だと思う。


早い話は伴野朗はバカだって話。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 06:16:32 ID:a9pt34lE0
お前〜それでも皇帝か〜お前のとーちゃん(元)商人だ〜

いいかげんにしないと本燃やして儒者穴に埋めるぞ!

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 14:30:59 ID:hw5oNMCnO
始皇帝=大日本帝国
出生の秘密=南京大虐殺

に変換してみて、それでも始皇帝が呂不韋の子供であると思うなら、
それは各自の信念の問題。

漢成立後、始皇帝の出生に関しての記述を、残せる人物も残せる期間もあったのに
それを裏付ける資料もなく、司馬遷自身が史記において、
呂不韋伝には疑惑を提示し、始皇帝本紀には記しておらず、
出生の秘密に関しては、その回答を得られず、両説明記した可能性もある。

仮に呂不韋が父である確たる証拠があるも、はばかったのであれば、
漢書にはその説が明記されており、定説となっていなければおかしい。

資料が発見されれば確定する話。
南京大虐殺を信じる人と同じで、信じたければ信じればいい。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 14:48:33 ID:cMlRTPq00
確定する史料なんか出て来ないと思うけどね。
だから未来永劫語られ続けるんだろうな。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 15:06:39 ID:hw5oNMCnO
>>33
孫武の兵法書が出土したのはご存知か?

資料がないのなら呂不韋のガキじゃないんだろ。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 21:29:13 ID:2Pf3t28c0
>>32
馬鹿ウヨはこの板に来るな。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 00:32:37 ID:MKWqNtD40
>>5
関連するけど、その曹叡が後継として秘密裏(?)に養子にとっていたという曹芳。
一体だれの子供だったのかねえ?

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 00:43:41 ID:+4w+3vDXO
>>36
あと、なんで年上の秦王が立てられなかったんだろうね

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 14:00:37 ID:NpU1h8sX0
>>32
そうは言うが、呂不韋が始皇帝の父である、なんて証拠は古代ではどうしようもない気がするな。
南京大虐殺の問題に例えるのはちと無理があるのではないかと。

現代の話ならば両親の血液型との不一致とか、
DNA鑑定とかで親子かそうでないか物証ができるけども。
曹叡みたいに始皇帝の誕生日(月)とかからでも明快に否定が出来ん以上はまさにどうしようもないと思うなぁ。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 06:32:52 ID:RWXNA9VJ0
誕生日って言ってもマジで早産って場合もあるからなあ。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 21:45:28 ID:houtODqj0
あれ?
始皇帝って腹の中に12〜13ヶ月いたんじゃなかったっけ?
漢方の秘薬で。


・・・まあ、そんな薬が実際にあるかどうかは知らんが。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/18(水) 21:13:37 ID:DWM6F6Os0
でも出世の疑惑があるなら、そもそも秦王になれなかった気もするな

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 09:38:29 ID:93G9qhSL0
>>22
異常なほど寵愛の度合いが深かったからね。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 22:00:18 ID:Wbk8kyvbO
>>38

あのなぁ……古代がどうの、DNAがどうのの話じゃないんだよ。
史記を書くときに司馬遷が、参考にしたとされる資料は分かっている。
そこには呂不韋が父であるとは記されていない。
だから必ず、知られてない資料があったはずなんだ。
だが、ならば何故、始皇帝の出生だけその資料を採用したのか?
その疑問にも答えがない。

史書に明記されており、本来ならその説は確定していておかしくない。
なのに疑惑止まりなのは、それなりの理由があるわけだ。

古代のことだから――というならば、じゃ、
なんでその時代のことが現代に伝わってるんだ?
それなりの証明が、できるものがあるからだろ?

ある出来事に対して、信頼できる資料や証言を無視し、
憶測や、本人にとって都合の良い話だけを集めて、ナニかを構築しても
客観的な事実にはならない。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 19:20:40 ID:O0RqGdlf0
>>36
曹芳に関しては曹彰の孫という説が有力らしい
なんにしろ前王朝の隠しだねとかどこから拾ったとかではなく皇族ということで異論はないらしい

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 00:51:31 ID:0qtGXjD50
>>18>>19
「鍾離昧=蒲将軍」説
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%BE%E9%9B%A2%E6%98%A7

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 01:17:36 ID:wEnriDF+0

蒲将軍について何か確定した訳でもないし
鍾離「昧」の名前や出身地がさらに謎になってしまった・・・

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 08:36:35 ID:aLTo8uEb0
明末三大怪案

48 :国重高暁:2007/05/18(金) 15:23:06 ID:X970mx6l0
甘夫人の父。
劉禅の外祖父として、権勢を
ほしいままにしたはずなのに……
未だ姓名不詳なのはなぜなんだ?

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 01:39:45 ID:e8RnJnU40
その時点で一族が耐えてたか蜀の領内にいなかっただけじゃね

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 01:50:12 ID:+VfEoaPuO
沛の人間だからな
一族が同行してたとしても長坂等で脱落していても不思議ではない
そもそも妾だったし、一族は同行してなかったかもしれん

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 09:17:51 ID:ok2nxA5M0
>>47
紅丸って結局何だったんだろうな。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 09:40:24 ID:llfI/jNi0
宋の太祖の死と太宗の即位
千載不決の疑い

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 20:29:27 ID:fy/jY60B0
>>10
確かにそうだな。
老子が実在の人物ではなかったという説もあるみたいだし。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 03:10:06 ID:+04KNHSE0
>>47
挺撃案は、やっぱり鄭貴妃一派の陰謀なんじゃない?
紅丸案は、泰昌帝が死んで誰が得をするか・・・・・・

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 22:57:49 ID:UFabgQR20
案外、紅丸は関係なかったのかもね。


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 12:36:18 ID:Dx2XptzeO
オイラは徐福だな…

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 13:08:00 ID:o0Q29gLA0
虫し髯公

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 13:12:41 ID:yXsV4tzX0
始皇帝が秦の王族の血を引いていないと言う説があるのは、
>歴史上、悪人とされる人物は、悪意を持って書かれことも多く
だけでなく、あんな優秀な人間が単なる王族だと言うだけの
凡庸な人間から生まれるはずがないと言うのも入っていると思うな。

エカテリナ二世も実はプロイセンのフリードリッヒ大王の隠し子だという説もあるらしい。
あれだけの女傑が、あんな凡庸な両親から生まれるわけがないと言う点から。

二人は相当仲が悪かったがね。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 12:34:38 ID:Tgm7FhD50
平凡な歴史的事実よりおもしろい虚構のほうが民間に流布しやすいからね。

始皇帝に関しては、もしかしたら顔が呂不韋そっくりだったのかも。
誰が見ても「あ、こいつ呂不韋の隠し子じゃねえか!」とか。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 20:53:27 ID:80DYo/dzO
>>59
なら、そのことが記述されるだろ、常考。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 23:09:36 ID:ga6OfwMQ0
幼帝の死ってのも結構怪しい事案が多そうな気がする。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 12:36:40 ID:qjlgZlIF0
劉備軍閥と孫権軍閥とが同盟を結んだとき、
孫権の妹が劉備の嫁になったということだが、
その女人の名前。

つーか、名前が明らかな女性って少ないよな。
日本においてもだけどさ。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 19:03:02 ID:ljEEzP8g0
日本とか中国は名前についての迷信みたいなのがあるし。
特に中国なんて苗字と姉妹の順で呼べば本名なんかわからなくても
十分通じるしな。

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 00:08:14 ID:LFUjPXWy0
>>62
特に漢代以前は、男とも女とも分からないような名前が多かった。

近世以降なら、明らかに女と分かる名前がほとんどになるけど。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 23:49:34 ID:wYb2YrgjO
謎と言えば漢の恵帝の後を継いだ少帝の名前

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 00:55:15 ID:IKEG7yLo0
>>54
魏忠賢か!

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 17:19:33 ID:dmT7RfBN0
李文忠の死因

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 19:22:40 ID:pr6sDNCF0
作者不明の老子

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 19:46:37 ID:3rwxl/LhO
>>67
> 李文忠の死因


普通、徐達と劉基も含めないか?
この2人の死因にも疑惑がある。何故に李文忠だけ?
って思ったが、劉基スレで李文忠のみ名前が挙がっていたからかw

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 22:35:47 ID:50VnLabT0
北宋の靖康の変後の、欽宗の最後も気になる。
はっきりしたことは分かっていないし、
野史では、完顔亮に処刑されたなんて説もあるらしいし。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 22:36:23 ID:50VnLabT0
>>69
朱元璋の周辺は、明確に粛清された分を除いても、
怪しい死に方をした奴が多そうw

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 23:19:28 ID:ZRQ0ZsfJ0
漢の文帝の周りに怪しい人死に多いよね

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 17:47:43 ID:QBrCjegB0
徐達や劉基に至っては疑惑じゃないでしょ。
疑う余地がないくらい。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/12(水) 09:59:00 ID:4OZJbs3t0


75 :范蠡:2007/12/12(水) 15:45:43 ID:V8VtxpKWO
長安を攻撃した馬超も謎。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/12(水) 21:53:32 ID:9rE56MKMO
>>73
なんで、あの時期に劉基を粛正したんだ?あの時にやるメリットがない。
後年の大粛正の時に、言いがかりをつけるのに役立ったぐらい。
その為だけに殺したのか?

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/12(水) 23:18:06 ID:95sD4nca0
「馬鹿ウヨ」が「馬謖ウヨ」に見えた俺が来ましたよ

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/12(水) 23:25:19 ID:AkdqR+rE0
>>70
遼の最後の皇帝と一緒に処刑されたなんて話になっているね。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 20:05:47 ID:Xc0q6pBB0
>>76
ちゃうわw
劉基は病死だからだよ。疑う余地なく病死!

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/23(水) 10:34:26 ID:pYM98ntJ0
靖難の変事における建文帝生存の可能性

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/23(水) 13:54:53 ID:pwZwMZxj0
>>80
海外に逃げたとかいう噂があって、その真偽を探るために、
それで鄭和の艦隊を派遣したとかいう俗説があるな。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/24(木) 23:16:38 ID:AEFlk7VjO
>>79
劉基は病死だけど、徐達は?

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/24(木) 23:18:50 ID:HB7EyYdu0
漢の文帝の正妻と子供4人が次々死んでいるのも謎の事件だと思う

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/24(木) 23:48:59 ID:zgzTKi090
でも、昔って次々にばたばた死ぬって珍しくないからなあ

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/24(木) 23:53:12 ID:HB7EyYdu0
>>84
皇帝に即位する直前ってのがね

あと皇帝の有力候補だった斉王、その弟で呂氏打倒した劉章、劉氏で自分を支持した劉沢、叔父の劉交、呂氏打倒の首謀者陳平がみんな即位から3年以内に死んでるのも偶然なんだろうな

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 11:12:41 ID:1je5sL0v0
徐達は重い病を得て臥せてたのだから、病死でも不思議じゃない。
明祖からの見舞い品に毒が盛られていたと疑う余地はあるかもしれないが、
むしろ明祖のことだから粛清ということにしたいという願望が反映されて、
そんな話になったのでは、と。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 12:53:44 ID:a9mh5T+b0
秦檜も結構謎だよな。
金軍に北方まで連れて行かれる以前は硬骨漢みたいなのに・・・。

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 20:26:02 ID:xFgjqrHr0
>>87
秦檜には自分内での行動規範みたいなものがある気がする。
最初は他の主戦派と同じようにどっちかっつーと机上の空論的な論理で徹底抗戦主張してたけど、
実際に金国内に行ったら、これを完全に撃退するなんて無理って現実に気づいて、
宋朝をできるだけ残す方面で動いたとか。
実際宋金戦争が長引いたら、秦檜を売国奴呼ばわりする余裕もないぐらい国土が疲弊してっただろうし。
岳飛の動きは「せっかく和平交渉してるのに、空気嫁DQN」て感じだったろうなと。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 20:40:45 ID:a9mh5T+b0
>>88
俺も和議締結までなら弁護できるんだが
その後はちょっと弁護できない。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 20:44:08 ID:MRmKVysK0
そこまで秦檜が自分の意思で能動的に政治を左右できるもんじゃない。
当然、誰かの意向が影響しているのだろう。
皇帝にとっては、岳飛も秦檜もトカゲの尻尾だよ。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 21:00:04 ID:a9mh5T+b0
>>90
>>89でも書いたけどその後の独裁体制を敷いたことが不可解

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 21:04:38 ID:xFgjqrHr0
叩かれるかも知れんけど、
日本の終戦にも似てる気がするんだよね。
あそこで岳飛みたいなヤツが出てきて、上の意思にも従わずに
下を煽って徹底抗戦主張した場合どうなったかと思うと、ちっとは弁護してもいいかなと。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 21:13:20 ID:MRmKVysK0
皇帝にとっても後ろめたいことが多く、あまり掣肘できなかった、などという話は多い。
皇帝の信任を得て、その黒い部分を担っていたのならば、後々それを有効利用することも
まぁ、政治にかかわる者なら、大なり小なりやるんじゃないのかな。
それほど不可解なこととも思えないけど。弱みを握っちゃえば、より能動的に動きやすいからねぇ。
だからといって、それが為政者の当然あるべき姿、などととは口が腐っても言えないが。
これは諦観で、為政者とはしょせんその程度のもの、ということ。弁護しているわけではないよ。
実は自分は逆に、和議締結までの方が、より弁護できない。する気も無いけど。


94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 21:30:09 ID:a9mh5T+b0
今の時代の感覚で言ってしまえばそんな感じだろうけど
宋は徹底した皇帝への集権体制とその支配下での文民統制と言う特色があって
靖康の変の後に高宗がなんだかんだ言ってもある程度の主導権を持っていたのは
そうした意識が文官たちに浸透していたからことが理由だと思う。
実際に金との国境が定まりかけてから南宋の政治責任者たちは
財政的にも軍事的にも中央集権体制を目指す方針を一貫して取っていた。
そんな中でかつて社稷の臣とも言える言動をしていた秦檜が
皇帝を差し置いて独裁するということは非常に理解しがたいと思う。

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 22:07:34 ID:MRmKVysK0
>>94
なるほど。
でもどうだろう。そこまで、高宗の皇帝権力が強化できていたかどうか。
一旦崩壊の憂き目にあった国は、大義や名分や制度よりまずちからが重きをなす場合が多い。
高宗はたしかに、あるていど自ら戦を監督する親征はしても、前線はほとんど
崩壊から各地で抗戦していた衆をもってしている。
制度はどうあれ、人民の意識のなかに、絶対者たる皇帝の重みが若干薄らいでいたとは
思えないだろうか。
神宗の時代でさえも、皇帝の一言が臣下を掣肘できなかったのだから、高宗が自ら
その実力と存在感を示さなければ、皇帝といえども発言力は相対的に低くなるものだ。
それに秦檜は権勢を維持するのに、なかなか周到だったから、根の深いそういうものは
制度上では独裁君主ではあれど、なかなか抑えにくいものじゃないかと。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 22:07:41 ID:UdJiREB60
>>92
叩く気はないけど、
終戦時の日本とアメリカほどの国力差が宋と金の間にあったかっていうと……。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 22:19:03 ID:MRmKVysK0
>>96
そもそも岳飛には、旧帝国陸軍のように天皇の意向すらも曲げる、というほどの権力は
なかったので、そういう対比は愚かしいと思うんだよね。
それに日本の場合、一億総玉砕を提唱しており、また南宋軍とは真逆に負け続けていた。
南宋は曲がりなりにも、河南に食い込むほど勢力を盛り返していたのだから。
それもこれも、各々の局地勝利の賜物なんだろう。
と言っても、金といえども、なにも雲霞のごとき大軍、というわけではなかったんだけどね。
ま、その辺りが両国の最大戦線で折り合いのつくあたりだったのだろう。



98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 22:19:48 ID:MRmKVysK0
ごめん、>>96じゃないな、>>92さんのほう。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 22:48:14 ID:xFgjqrHr0
往生際悪くてスマソ
実力伯仲だからこそ戦争が長引くって事だと思うから。
和平と独裁のお陰?で結局モンゴルが出てくるまで、
南宋は金に対して政治的には負けだったけど、文化と経済は結果的に勝ちだったんだよ。
あえて主戦派を切ったという事で意味あるとは思う。奸臣、売国奴って言い切れないと思う。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 23:08:10 ID:UdJiREB60
>>99
売国奴はともかくとして奸臣はあながち間違いではないんでは?
少なくとも公正無私とは正反対なんだし。

結果的には和平は良かったのかも知れんが、
岳飛を無実の罪で謀殺しておいて自らは死ぬまで我が世の春を謳歌したのでは、
後世の批判は免れんだろうよ。

秦檜本人がどう考えていたかは知らんが、
あくまで政治的な信念と理念が基にあって和平を推し進めたのではなく、
自らの利益誘導の政策の結果として和平に利があったと取られても仕方ないんではないかなあ。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 23:22:04 ID:a9mh5T+b0
>>95
皇帝の権威が揺らいでいたのは事実だけれど
当時の最高実力者の趙鼎の政治構想の不採用や
高い評価を得ている李綱と宗澤の防衛構想の失敗の理由が
高宗の許諾を得られなかったという一点にあることは
当時の文官の皇帝に対する意識を象徴しているんじゃないかな。

個人的な憶測ではあるけど文官は武将たちに対する優位を保つ為の
皇帝の必要性というか利用価値を共通の認識として持っていたと思う。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/11(火) 22:15:35 ID:h0PDjSLB0
>>99
売国奴ってのは、単に講和の条件に、取り返した河南の地を提供したからでしょ。
一応、京師を含む北宋の中心地なわけだし。
日本が中国あたりに攻め込まれて、半ば奪われてしまい、それをいくらか取り返したけど
もう戦争する余力が無くて、講和の条件に取り返した関東一帯を差し出したようなもの?
日本の首都は大阪なりに移って、空前の大繁栄を得た、とかいうシナリオ…w

まぁ、関東出身の人らは、そのときは悔しいだろうね。
そのはけ口を、講和を主導した人物に向ける、とそんなところじゃないの?
あと、その秦檜亡き後は、そういう悪玉にしたて政治宣伝にも利用する、とか。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 00:41:02 ID:sKLUiMetO
中国が日本に攻めてきて、関東を支配下に置いた状況なら、
地理的に考えて、大阪も占領してるだろ、JK

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 01:39:55 ID:/erKp1SC0
秦檜についての謎といえば、昔から疑問だったんだが、孫のために陸遊を落第させたって
どこまで信憑性のある話なんだ?

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 06:59:58 ID:X804Gmw2O
>>103
北陸〜東北から上陸したら?

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 08:31:30 ID:QJP5Y7zi0
>>103
侵攻方向など問題ではないだろうが、どういう政治的状況かってことだろ。JK
別に中国でなくてもいい。ロシアでも宇宙人でも(ry

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/15(土) 03:45:03 ID:n/NGMliwO
>>106

侵攻方向など問題だぞ。

>>102は、当時の中国を再現させようとしてるんだ。
だから開封を東京に、臨安府を大阪に見立ててる。
沖縄辺りからの侵攻だと、
首都陥落→第2の首都ともいえる都市での繁栄が、忠実に再現されない。
おそらく、状況が違うとかいった批判を避けたかったんだろ。

つーか、野暮なツッコミなんかに、レスすんなよwww

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 11:08:32 ID:HdRNVVjL0
そもそも大阪なんて首都移転しないしな
東京やられたら次は名古屋だろjk

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 13:17:42 ID:oo6+CbIy0
>>108
名古屋でもいいんじゃない?どっちにしろ、首都圏は敵国の手に落ちるってことだろjk
そのとき、平和のためだやむをえない、と関東差し出すのが民主党とか共産党で、
いやダメだ、今が好機、取り返すまで兵は退かん、というのが安部タソ以下ry
前者が秦檜で、後者が岳飛や劉錡だな。役割として。違うか?

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 13:26:04 ID:oo6+CbIy0
ああ、それから、宋は開封やられてから、一旦南京應天府に依拠したんだ。
南京って今のナンキンじゃないぞ?宋州のことだからな。
そこで、金陵(これがナンキン)、杭州、はては海上まで逃げ散らかされていたのを
最終的に岳飛らが保持した杭州に拠ったんだ。

かりに日本の東北方面からどこかの「敵」が攻めてきたとき、九州あたりまで政府のお偉いさんたちは
逃げ出したということになる。もしかしたら、沖縄まで逃げちゃった人もいるかもねw

って、こんなレスも野暮かな。まいいや。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 15:26:09 ID:UhR5ISQK0
>>119
後者は岳飛というよりは、そのまんま南宋政府だろう。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 15:26:09 ID:UhR5ISQK0
>>119
後者は岳飛というよりは、そのまんま南宋政府だろう。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 15:40:32 ID:oo6+CbIy0
なんで?政府は宰相たる秦檜の主導じゃないか。
それに全権を与えたのは皇帝たる高宗。
危ないときには岳飛に頼り、邪魔になると秦檜を通して殺させたのが皇帝。違うか?

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 21:51:48 ID:Tkr1z9qn0
>>104
独裁の反動であの時代の史書はあること無いこと書かれてるから信じていいものかw
そういえば秦檜は岳飛の子孫を援助してたけど
科挙受ける為の費用とかは出さなかったんだろうなw

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 22:36:56 ID:oo6+CbIy0
たしかに、秦檜についてはプラスα、悪名を追加させようとする意思が強い。
でも、自らの閥を形成するための作為が働いていたり、科挙の合否もそれに沿っていたらしいことは
まぁ、あったようで、十分権勢欲の権化みたいだけどね。
そういえば、いいなりな高宗も、一度、秦檜の孫を状元にさせず、降格させたことがあったらしい。
ささやかな抵抗と言えるかな。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 01:15:05 ID:/e1kUKYrO
>>109

無理に日本にたとえない方が良い。
売国奴に国を任せるのも危険だが、国難にあたり
無能以下のバカボンボンを担ぐのは、もっと危険だ。
アメリカに基地として自国の領土を提供し、核の傘下に護られてる今の日本は、
十分に南宋を再現してると思うんだが。


>>113
そこまで高宗に、明確なビジョンも、支配力はなかったと思うが。

勝ちすぎても、領土回復、徽宗/欽宗奪回までは望まない。
当然、それを目標とする将軍たちは疎ましい。
だからといって、彼らの死までは望まない。
願いと、ソコから導き出された結論のギャップに、高宗自身が戸惑ってたと思う。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 08:42:17 ID:vMJ0GiXD0
>>116
たしかに無理に日本に例える必要はないが、そのほうがわかりやすくなるのも事実。
日本に例えられない理由は、とりまく政治状況、そこで生きる人の根ざす判断基準や
社会正義、習慣の相違、政権の土台、立地条件などなどが根源的に違うからだということは
まぁ、わかっているつもり。

>>十分に南宋を再現してる

十分とは思わないが、近いものではあるね。言われてみれば。
ただ、大戦前あるいは中の、鬼畜米英の掛け声が、今は中韓に変わっているから
北宋の提唱した「金は蛮族」、というのを理解するのは、今なら米よりそっちかな、とか。

>>明確なビジョンも、支配力は

それが自分も疑問ではあったが、上で、皇帝権力のそれなりの維持を唱えている人がいたから
より主体的な指示を、高宗の側で行ったとも思えてきてね。

>>高宗自身が戸惑

厳しい意見だけど、そんな優柔不断は「皇帝」という地位にあるものとしては、ものすごく罪かな。
でも秦檜が帰ってくるまで、高宗は親征までして、旧領の回復を願い、岳飛ら軍閥を酷使
し続けていたんだ。その中で岳飛が目だって役に立っていただけ。だからよく使った。
明受の乱で、武人連中や自分の立場に危ういものを感じて、和平に傾いたとは思うが
秦檜が重用されていく必然性はなんなのか、そこはもひとつ疑問ではある。
和平論者は別に秦檜だけではなかったわけで。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 10:04:38 ID:u9T2NLt40
>>114-115
試験結果に手を回すことができたのなら、孫以外の秦一族は?権勢欲が強いのなら、
自分の派閥以外の受験者をすべておっことせば将来にわたるまで政府内は自派閥で
独占ができる。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 10:59:36 ID:vMJ0GiXD0
>>118
いや、そこまであからさまな強硬手段をとると、いっとき独占はできても維持は難しいだろう。
多くの嫌悪を買うやりかただからね。自分の派閥と言っても、百官すべてをシンパにするなど
普通無理な話で、大方は権威をおそれて発言しない、とかだから。
だからこその政治力だと思うがな。
そういう意味で、秦檜は天才。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 13:18:34 ID:KTZrgpKh0
>>117
秦檜は親征以前にすでに帰国して対外講和政策を主張していた。
国内の治安回復などを主張した呂頤浩と権力争いをしていたが失脚している。
親征の目的については高宗自身の言動から皇帝の統帥権の確立にあったことが窺える。

細かいツッコミで申し訳ない

軽く燃料投下のつもりで高宗の擁護をしてみると
高宗は南宋政権を金軍から護るために軍閥を利用して
北宋政権を継承するために岳飛を殺し兵権を奪った。
対金政策が弱腰で失地奪回の意思があまり見られなかったのは
確かに徽宗・欽宗の帰還に伴う弾劾を恐れたからでもあるが
当時唯一の皇族だった自身の死がそのまま宋朝の滅亡に繋がる状況にあったからでもある。
岳飛殺害の理由は不穏な言動、特に講和直前の戦いで高宗の命を無視したことがあり
全軍を統帥する者としては除かれてしかるべき存在だった。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 13:51:08 ID:vMJ0GiXD0
>>120
そうだったかな。時系列を確認しなかったのは軽率だった。
それにしても、秦檜の二度目の当局以降、急速に信任を得たのは、高宗の心変わり
つまり、戦略の変更が大きく作用したわけだけど、その信任の得かたがすごいなと。
高宗の弁護は自分もわかっているけど、天秤にかけたとき、権力者の欺瞞がより強いと感じてしまうんだ。

>>岳飛殺害の理由

殺害されなければならないほどの理由とは思えないもので。特に宋に根付く気風からして。
あの五代でも、従順でない節度使を、いきなり捕らえて殺すはしなかった。
(ほとんどが、その結果反旗をひるがえしたけど…)
やはり、岳飛殺害がまずあって、それを補強する理由として、それらがあげられたのではないか。
高宗に向かって「ぜひ禁軍をもって親征しなさい」とか言っちゃうのも分を越えているけど
その後でさえ、危機があれば岳飛を起用したのは、高宗自身じゃないですか。
気に入らないなら、その場で免職、ではないのかな、と。
そういえば、郷里に帰ろうとした岳飛をぜひにも留めて、国難に当たらせましたよね。
そういうところ、どうしても「気に入らない」になるんですよ。
で、民衆や他に直接関与しなかった人らも、一様に思ったかもしれないですね。
それを糊塗するために、和平による経済発展を前面に押し出してきているのではないか。
たしかにそれによって世界屈指の繁栄をみた。結果はそのほうがいいが、その精神は?
と、なると感情面でしこりが残るのも無理ないことだと思うのですよ。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 19:42:49 ID:u9T2NLt40
>>121
そうですかね?自分は岳飛配下のものたちが朝廷よりも岳飛の命令を上にした、
そのことを岳飛は問題にしなかった。それから二宮の返還を強く主張した。
この辺りから岳飛自身を殺す理由はそう軽くなくあったと思います。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 19:58:08 ID:KTZrgpKh0
>>121
北宋の中央集権体制も結局は藩鎮の跋扈を防ぐ為であったように
皇帝や文官の武将たちへの反感は相当に強かったのだと思います。
実際趙鼎の台頭から金との講和に至るまで政治責任者が代わっても
中央への兵権の回収という一点ではぶれていない。

岳飛の殺される理由としてはあまりに大きな権限を持ちすぎたことにも関係があるのではないでしょうか。
岳飛は長江中流域の人事権や、独自の流通組織を持っていました。
これは他の武将たちにはない岳飛独自の特権だったようです。
各武将はその地域に非常に大きな影響力を持っている中でも
特に岳飛の言動は単に個人レベルの物と切り捨てられないほど大きなものになっており
岳飛から兵権及び財政権を回収するには岳飛の存在すら邪魔であったのでしょう。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 20:30:18 ID:NJVJYtE/0
高宗は人質時代に、自分が敵陣にいるのに攻撃かけてボロ負けしたり、
勝てるはずないのに闇雲に徹底抗戦を主張した頭でっかちの主戦派に対して、
かなりの不信感を持っていたのではないかね。
そこに持って来て、いかに勇将とはいえ見過ごせない岳飛の態度があったから、
>>122>>123の流れになった気もする。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 00:27:39 ID:zTVfGU3a0
>>123
まぁ、その権限を岳飛頼りの念から与えまくっていたのは、高宗自身なんだけどね。
権力者側の言い分と、使われた側の言い分の対比では、民間や官吏たちの心に宿った
心情が、どういうものだったかということで、それを顕すのに、岳飛の英雄化があるということは
さて、どういうことだったのだろうか。と思うわけだ。
政策はそれとしてね。
それで、免職せず流刑にもせず、捕らえて殺す、とするのは結構異例ではないか、と。
同じように反対した劉錡は、とりあえず免職で済んだんでしたっけ。ちょっと自信ない。

>>124
でしょうね。杭州を基としてからは、結構勝ってはいるけど。
口先だけのことよりも、やっぱり明受の乱が一番心に響いているのかな?とか思いますね。
根源的に武将を信じることのブレーキとなり、また自分の立場の危うさを知ったってところ。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 00:54:55 ID:zTVfGU3a0
>>与えまくっていたのは、高宗自身

ふと思ったけど、後白河院の位打ちを思い出した。
そういう意味では、いいように利用された感じもするな。
うまく引き際を得なかったのは、岳飛の政治力の甘さを物語っているとも。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 01:23:44 ID:aLeSe+ru0
>>125
韓世忠や張俊は自ら軍権を手放し、さらに軍事に関わらないようにしたことで信用を得た。
岳飛にはそれがない。

それと
>免職せず流刑にもせず、捕らえて殺す
通常ならそれでもよかったのだろうが、岳飛にはそれが通じなかった。何故なら、朝廷より
岳飛を重んじる岳家軍の存在があったから。
岳飛を流刑にした場合、岳家軍が岳飛を戴いて、暴発して内乱になる可能性があった。
これは岳飛の意思とは関係ない。
内乱を避けるには、岳飛の存在を消すか、岳家軍を解体し、中央に吸収再編することで岳飛の
影響力を消滅させるしかない。しかし、後者の道は岳飛と岳家軍自身が拒否した。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 08:04:58 ID:zTVfGU3a0
>>127
だから、それは権力者側の言い分で、それは理解している。
あくまで可能性、それは秦檜の三文字がすべて物語っているから。
しかし、それならなぜ岳飛英雄伝説ははじまるのか。
権力者側でないのが、権力者側の言い分に、理性は納得できても感情がついていかなかった
結果ではないか?

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 19:09:09 ID:Q8bYvFac0
敵対者を始末する際、絶対に殺してはいけないって言うのがよくわかる結末だね。
殺しちゃったら相手は神格化されて生き続けるから、始末に終えん。
岳飛はあとちょっと好きにさせておいたら自滅してたような気がするね。

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 23:57:07 ID:zTVfGU3a0
>>129
>>自滅してたような気がするね

それは特に根拠があるようには思えないけど、自滅しそうな要因は?
たしかに、岳飛は当初、開封の回復までを目指していたけど、それの目処がつき
(長安から洛陽の線まで回復できたから)勢いにのって(あるいは調子に乗って)
上京までレッツゴーとか叫んでたけど、それをもっての非難は難しいと思う。
ただの鼓舞なのか、本気なのかの判断はすぐにはつかないし。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 03:30:18 ID:mxKZOBqx0
戦果がどうとかじゃなくて、>>123>>127な理由で。
周りの諸将との軋轢とか放って置いたらもっと深くなっただろうね。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 10:46:59 ID:+wKughsz0
>>130
自滅するかはともかく金の人間以外誰一人に良いことはない
最悪の場合には藩鎮体制が復活して五代の頃のように荒れ果てて
おまけに混乱に乗じた金軍の侵攻でボロボロになるかもしれない
たとえ秦檜が失脚したりして政治責任者が代わっても
軍閥から兵権を回収する動きだけは変わることは無いから岳飛との衝突は確実
岳飛は死ぬか謀反するかしなければならない運命だった

ところでID:zTVfGU3a0=ID:vMJ0GiXD0なのか?
少し勉強不足だと思うのだが・・・

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 11:35:47 ID:wZ20KFbp0
>>132
まぁ、勉強不足は否定しない。
しょせん、岳飛の個人列伝読んで、概説書あたりで補強しただけだから。
しかし郷里に帰る岳飛を、危難が迫ったから無理に招致したのは、高宗の側でしょう?
都合のいい話だなぁ〜、と思えるわけだ。

>>金軍の侵攻でボロボロ
金の方に攻められない理由ができていたでしょう、そのときは。
悪夢があるとすれば、それは岳飛が金と手を結ぶことだろう。
ま、そんな気が一片でもあれば、のこのこと出頭はしないだろうけど。

五代の藩鎮跋扈とは、似て非なるものなんだ。前半はほとんど内に向いたちからだったからだ。
しかしいうなれば、大同年間に似ているか。外敵という共通認識があるというのも含めて。
そのときは、蹂躙された藩鎮が、劉知遠を仰いでそのものとに参じ、遼を追い出すことに成功した。
後漢は、遼の燕王・趙延寿の息子という、趙匡賛のような大物でも、謀叛確定するまでは
強硬手段には訴えなかったし、投降後は後周まで用いられた。
李守貞についても、謀叛確定までは手を出していない。
後周については、前王朝の親族という危険な藩鎮の討伐後、郭威はみずから「しかたなかったのだ」
と泣いて百官に陳述してもいる。
結局、監視と警戒はしても、軍事討伐に移ったのは、確定してからだった。
ちなみに、郭威の登極は、本人が殺されずに家族が皆殺しにされた、という背景があるので
もしかしたら、岳飛の別の道だったかもしれない。
そういう意味では、よく前例を鑑みたかもしれない、秦檜は。

そいうのがあるから、単に気に入らないという。
岳飛の公人としての罪はわかってはいるが、そんなことで煮え切らないのは
後世の評が物語っているのではないか? ってところ。
たぶん、相容れないでしょうね。

で、秦檜の権勢の謎から、ずいぶん遠ざかってしまったな。すまんね。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 14:57:16 ID:+wKughsz0
>>133
> 金の方に攻められない理由ができていた
岳飛の排除を求めてきているのだから岳飛がいる限りはそうとも言えない。
金の外交方針の転換は政治責任者の交代ですぐ切り替わるのでグズグズしていられなかったのでは。

> 五代の藩鎮跋扈
私の方こそ五代は不勉強で申し訳ないが敢えて言わせてもらうと
五代との最大の違いはそうした支持基盤の違いが大きいと思う。
五代では趙匡胤も含めて軍事力を背景に権柄を握った人物が多く
それ故に他の藩鎮とのパワーバランスに注意しなければならなかったのだと思う。
しかし完全に藩鎮体制を解体した後の北宋政権の主な支持基盤は士大夫層及びそのバックボーンであった地主層に代わった。
南宋政権成立後も靖康の変の直後にもかかわらず河北などでも科挙が予定通りに実施されるほど信頼を得ていた。
しかも実権を何一つ持っていなかった高宗の唯一の拠り所は彼らの支持のみであり
南宋の政治責任者が例外なく彼らの希望の代弁者であったことは必然と言える。
また彼らや高宗は五代からの反省を基にして樹立された皇帝集権体制と文治主義に浸って生きてきた人間であり
藩鎮への拒否反応は非常に強いと考えてあのような(五代≒藩鎮跋扈≒乱世)書き方をした。
そうした中での岳飛の排除は彼らの利益の確保という側面もあり
岳飛の場合は中途半端に生かしておいても非常に大きな影響力を持っていて本人を殺さなければならなかった。

気に食わないと言われてはそれまでだけど
もしも岳飛があのまま何らかの形で生きていたとしても
現在の評価と同じような評価を得られたかと言えば否定せざるを得ない。
そこで戦前の日本のようにむしろ秦檜こそ社稷の臣扱いするのは勘弁して欲しいけど・・・。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 22:56:13 ID:wZ20KFbp0
>>134
言いたいことはわかっている。
まぁ、こう言っちゃ何だけど、高宗側の言い分、つまり擁護できる材料や理由というのも
一応、了解しているつもり。
体制の脆弱さ、そのときに取られるべき政策、そのほかのこともわかってはいるつもり。
しかし、主張したいことはそんな温度の低い(表現悪い?)ことではなかった。

>>現在の評価と同じような評価を得られたかと言えば否定
が、逆の意味で、彼の人々による評価を物語っていると言えるのじゃないか、と。
岳飛が単なる悲劇の英雄というだけでなく、秦檜にまでもその憎悪の視線が浴びせられるのは
感情の面で腑に落ちないところが多分にあるからではないか?
単なる悲劇の英雄で、祭り上げられるのは多いが、その対極まで槍玉に挙げられるのは少ないように思う。
たとえば王彦章。趙巌や段凝は救いようのない小物だから、秦檜のようにならなかったと言えなくもないけど。

権力者が、いかにそれを国家正義のもとに糊塗しようとも、正当化しようとも
民衆や関わった者たちは完全に納得はできなかった。
そう思う人の意思がかなり強く、多かったのではないか。
だからこそ、岳州が岳飛を思い起こさせるからと言う理由で改名させられたのではないか。
と、いうあたり。
まぁ、アプローチが違うね。別の機会では、自分があなたの主張をしている可能性もあるけど
基本、自分の目線はより弱い立場の人物に主眼を置くようにしている。つもり。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 09:36:39 ID:H0U5awwdO
アプローチの仕方が違うんじゃなくて、根本的に間違ってるね。
視点が弱者に向いてるなんて考え方も勘違いしてる。
イヤ、勘違いというより、自分に酔っているだけだ。

まず、この話には秦檜は関係ない。話の焦点は
『なぜ岳飛は、国民の英雄にまで祭り上げられたのか』
なんだ。秦檜はただ、光に対する影として出てきてるだけ。
岳飛を際立たせるために、秦檜は利用されているにすぎない。

で、岳飛が英雄になった最大の理由は、後に初めて中華が蛮族に支配されるから。
複合的な要素が重なっただけ。

和平により国力が回復し、仮にその後、国内再統一がなったとしても、
岳飛が今のように神格化されたとは思えない。

その辺をどう考えてるんだろうか?
やはり弱者の立場に立つ人ともなると、感じ方が違うのであろうか?

もしそうならば、語るべき言葉すらない。ずっと謎のままでいて欲しい。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 11:30:34 ID:zQKPc29Y0
>>やはり弱者の立場に立つ人ともなると、感じ方が違うのであろうか?

その立場にたって考えてみないと、一生わからんでしょう。
わかる必要がない、というのが根底かな、あなたの場合。
やはり相容れない、氷炭のようなものか。

>>『なぜ岳飛は、国民の英雄にまで祭り上げられたのか』

秦檜死後の政治宣伝が功を奏したのでは。
岳飛が皆に、殺されても文句が言えない、と思われていたなら、ここで名誉回復される必要はない。
しかし、なぜ岳飛が?秦檜が?
元統治下の精神的支柱ともなりえた信仰熱は、岳飛に仮託されたものだとは思うけど、要因は
ほんとうに複合的で、それだけ皆のこころに割り切れていないものがくすぶっていたのではないだろうか。

靖国の英霊を称える人の心が、それを称えない人に理解されないとかその逆とか
身近で考えれば、その辺で類似点を求めることはできそうだけど(そのまんま当てはまるわけはないが)。
まぁこれは例えが悪いか。日本は負けだしても、なかなか和平論に傾かなかったし。
南宋は勝っているときに和平となり、ただ可能性をもって岳飛ならやれる、とか思われているのだろう。
しかし、そういうところはどうでもいい。
あくまでも、殺された、という同情の念が生前の実績に結びついていったと思えるわけだから。

わからんけどね。そこまで本格的な研究やその関連書物を読んでいないから、断定は避けてはいるが。
なにかいい資料があったら教えて欲しい。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 11:54:58 ID:GWbW7Lli0
>>137
それこそすでに出ているが、立場と視点の違いだ。

「岳飛は危険だ、殺さなければならない」というのは基本的に朝廷、官僚の視点。
一方庶民からみたら、実際に前線で戦っている武将と後ろに居る官僚に対する味方が違うのも当然。
特に、当時の庶民は政治中枢なんて窺い知れない(マスコミも新聞もないのだから)。ただおこった
事実から推測−悪くいえば、想像をたくましくするしかない。それもできれば自分好みに。
そして皇帝自体はあまり強く非難することは憚られるので、当時庶民からしたら最もよくわかる権力者
である秦檜が非難されることになった。

ところが一方で、政府からも岳飛を顕彰する理由が生まれた。なぜかといえばそれこそ光と影で、
秦檜(死後になるが)が皇帝によって否定されたから。そうなると、官僚たちは秦檜の所業を非難する
必要が生じた。その手段の一つとして、岳飛の顕彰があったわけだ。(岳飛は忠臣だった。その忠臣を
殺した秦檜は否定されるべき悪だ。だから皇帝の判断は正しい)

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 13:37:44 ID:zQKPc29Y0
なるほど、岳飛を英雄扱いしたいために秦檜が論われたのではなく
秦檜を悪にするために、岳飛が必要だった、と?
岳飛の死などたいしたことがなく、それよりも独裁権をむさぼった秦檜の方がより憎いので
ちょうど岳飛を莫須有で殺してしまった秦檜には、それが格好の理由ともなるし
その死後誅した、という話ですか。


140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 17:39:02 ID:KIBKZNDx0
>>139
俺も>>136の言っていることに同意だ。
前のレスで政治責任者が変わっても岳飛は不幸な結末を迎えていたと言う趣旨のレスをしたように
岳飛を好ましく思わなかったのは秦檜だけではなく文臣の共通認識だったのではないだろうか。
秦檜の兵権回収策の原型が第一次宋金和議の前に趙鼎の影響下にある官僚が考案したものであったことや
上に書いたような政治責任者たちの一貫した姿勢にそうした空気があったと思われる。
しかも前者は淮西で起きた兵変の反省から徹底して兵権及びその他の権益を回収しようとするものだった。
そうした空気の中で命令無視などをするカリスマ的な将軍が危険視されていたのは

秦檜=悪の図式に大きく影響を与えていたのが当時の学者系官僚層の存在だった。
秦檜は帰国後に学者系官僚を取り込み道義的見地からの講和及び二帝の帰還を訴えた。
当然高宗は認めず秦檜は失脚することになった。
秦檜は第一次和議にあたって高宗とその周辺の臣や宦官などを取り込み講和政策を推進した。
かつて彼を支持していた学者系官僚は徽宗の死を理由に岳飛ら主戦派と共に金との戦争を支持していた。
秦檜は彼等の反対を金使の書状を高宗に受けさせるのではなく自分の家宰に受けさせる裏技で押さえ込んだ。
以後の弾圧に加えて彼のこうした所業が未来に歴史を伝える役目を持つ学者系官僚の反感を買っていたことは疑いない。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 21:53:51 ID:zQKPc29Y0
なんか話がずれてきたような気がする。
つまり、軍閥が危険と思いながらも、帰郷したい岳飛に抜き差しならぬ権限を与え続けて
最後になって言うことを聞かなかったから、命じて殺させたのが高宗なんでしょうが。
それはわかっていると何度も。
しかしながら、そんなことでは納得しえない感情のやりばというのがあって
それが岳飛を英雄に足る構成要因の多くだったと思っていたわけで。
しかしそれは、秦檜は悪と宣伝するために、増幅されたものだと理解した。

どっちにしろ、臣下をこのように消耗品扱いするのに、疑問をなげているだけ。
それがひいては弱者の立場からの視点だと、酔ってもいる。
そうではなかった皇帝のことを研究しているだけに、なんとかならんかったのかと
筆誅したかったという思惑もあるけど。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 22:58:55 ID:i4Edie560
筆誅って言葉を真面目に使う現代人を見るのは初めてだ

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/21(金) 01:49:03 ID:0VzrePbyO
岳飛と秦檜の運命を左右したのは『時代』じゃないか?
気運というか、時代の流れだと思う。

歴史の表舞台に立たされ、時代の主役となった者の不幸としか思えない。
岳飛を殺したのは高宗であり、秦檜であり、官僚だった。
でも、民衆だって戦いに忌避してたんだ。
極論すれば、民衆だって岳飛の死を望んでた部分はある。
誰一人として、泥沼化してでも国土回復を!!なんて思ってない。
そのためには喜んで死ぬし、不幸になってもかまわない。イヤ、不幸になりたい――なんて思ってない。

岳飛がいればもっと良い生活ができた。幸せになれた。不幸なのは秦檜のせいだ。
そう思いたかったんだ。
自分のことを棚に上げ、悪いことは秦檜に押し付け、
岳飛に任せとけば、何でも良くしてくれるって、他人任せにしてる。

岳飛を良いように利用してるのは高宗だけか?
民衆だって使い減りのしない便利な道具扱いしてるじゃん。

人間はエゴイストで、自分だけは違うとか、良いように思い込む。


なんでそんな事が分からないのか、そっちの方が謎だ。

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/24(月) 23:00:33 ID:+VCpX1A1O
「ああ、俺ってなんて名文を書くんだろう」とか思ってそうな文体だなw

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/29(土) 21:48:06 ID:6VaE5GvF0
なんか知らんが皇帝か朝廷か、最悪だな。
岳飛って単にがんばり損してるだけじゃんか。

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/29(土) 22:55:45 ID:3zYkCpYA0
岳飛は岳飛で遣り甲斐を感じてたから、最期以外は問題ないんじゃね?

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/30(日) 09:02:54 ID:BLyQXALp0
岳飛もある意味で高宗を利用しようとしていただけ。
彼はあくまで徽宗・欽宗の帰還の為に働いていた。
帰還後に皇位継承問題が起こる可能性があるのに
自身の安全を無視して二帝を奪還することだけを唱える人間を
高宗が個人的にも危険視するのは当然だと思う。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/30(日) 11:08:23 ID:5ns6lGnS0
南宋初期の軍閥の領袖たちが全て粛清されたってわけでもない。
朝廷や高宗・秦檜の側だって、始めから何が何でも岳飛だけは殺す、なんて考えていたわけでもない。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/30(日) 14:24:32 ID:59A3s5zS0
金からの要求があったんじゃなかったっけ?

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/30(日) 15:17:45 ID:BLyQXALp0
>>148
初めからではないにせよ多分秦檜は政治の表舞台に復帰した頃には考えていたと思うよ。
張俊は軍ごと秦檜に懐柔されて韓世忠は高宗の言うことには逆らえなかった。
呉兄弟には手出しできないが遠方なので危険度も少ないので放置。
こうした兵権回収策の骨組みは別の人間が作ったものだが
張俊たちの懐柔と岳飛の殺害は彼の考案したもので
その経緯を見ると秦檜の意図が見えてくるんじゃないかな。

あと岳飛の場合は上に書いてあるような理由があるみたいだけど
講和直前の戦いで高宗からの張俊の救援要請を無視したことが決定打だったんじゃないかな。

しかしあそこまで周到に計画をして実行しながら岳飛をすぐには殺せなかった秦檜の心情は謎だ。
もしもかつて忠臣だった秦檜が忠臣岳飛を殺すのを躊躇ったと言うなら面白いけど
彼の場合はそう考えるのは非常に難しいことだと思うよw

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/30(日) 15:36:30 ID:59A3s5zS0
>>150
>>かつて忠臣だった秦檜が忠臣岳飛を殺すのを躊躇

なんとなく銀河英雄伝説を思い出した。
協力すれば理想と言われたふたりも、国家維持の大前提のためには、関係が破綻してしまった…!
これ、新しい秦檜像として書けば、結構いいんじゃないかとか、いやなんでもない。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 22:09:55 ID:zt8If/5G0
>>147
>>彼はあくまで徽宗・欽宗の帰還の為に働いていた

まさに岳飛にとっては、いや他の勤皇の志とやらをもっていた人にとって高宗は仮皇帝でしかなかったわけだ。
囚われたかわいそうな皇帝陛下を救出する正義の戦士なわけだ。
みごと奪還が適ったら、高宗は潔く地位を返上し美しくフィナーレ
…とかいうあたりが、中国における人道に沿った行為ではないかと、武侠ドラマなどを見ていて感じたw

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 23:27:48 ID:wFQnJcs90
>>152
そして高宗は一生座敷牢状態か、あるいは毒殺か
仮皇帝というよりは勝手に即位した謀反人にされかねないわけで、高宗にとってはそのフィナーレは全然美しくないというのが問題だったんだわな

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/03(木) 00:32:04 ID:mtOqmr+s0
唯一金軍から逃れることができた皇族であることだけが存在理由だった高宗を
徽宗・欽宗のどちらかでも帰ってきて護ってくれる奴なんていないよな
必死こいて金軍から逃げて、内乱を鎮圧して、金軍に喧嘩売って
失地と二帝の奪還を果たしたところで死ぬだけじゃ悲し過ぎるだろ

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/03(木) 03:30:49 ID:hoD5kxwo0
高宗からしたら、徽宗・欽宗の尻拭いに苦労させられたという思いはあっただろうしな。
まあ欽宗は徽宗の尻拭いで苦労させられたわけだが。

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