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【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 12:21:16 ID:ARwXX2Z70
 223年、劉備が亡くなり劉禅が跡を継ぐと、諸葛亮は蜀の政治の全権を握る。そして、呉との関係を改善した上で、魏に
対する北伐を計画した。
 227年、準備を終えた諸葛亮はいよいよ北伐を決行する。北伐に当たって上奏した『出師表』は名文として有名である。
 1度目の北伐で、諸葛亮はかつて蜀から魏へと降った孟達の調略を企図したが、司馬懿に察知され、孟達は討たれた。
 最初に躓いたものの、諸葛亮の作戦は続行され、翌228年に漢中より北へ進攻した。
 諸葛亮は、趙雲を囮に使って魏の曹真の裏をかくことに成功、南安・天水・安定の3郡を奪った。魏はこれに対して張郃
を派遣、諸葛亮は再度趙雲を囮に使い、要衝街亭に鍾愛していた馬謖を配する。ところが、馬謖は諸葛亮の指示を無視
して山上に布陣したために、張郃率いる魏軍に大敗を喫してしまう。
 街亭での敗戦で、蜀軍は全軍を撤退させ、諸葛亮は馬謖を敗戦の罪で誅殺し、自らも降格として丞相から右将軍となっ
た。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。もっとも、諸葛亮が右将軍となっても、他に蜀を運営できる人物がおらず、
実質上は丞相であった。
 その年の冬、諸葛亮は2度目の北伐を決行する。しかし、曹真に作戦を先読みされたために、戦局は優位に進まず、食
糧の不足もあって撤退した。
 更に翌229年には3度目の北伐が決行され、陳式に武都・陰平の両郡を平定させた。この功績によって、諸葛亮は再び
丞相の地位に復帰する。
 その次の年230年に4度目の北伐が行われるが、食糧不足で撤退に追い込まれる。この時に、魏の張郃を討ち取った。
 そして234年、諸葛亮は5度目にして最後の北伐を決行する。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えを持って
五丈原で、司馬懿率いる魏軍と長期に渡って対峙する。だが、諸葛亮には健康問題が生じていた上、頼りにしていた呉も、
荊州と合肥の戦いで魏に大敗を喫し、司馬懿は防衛戦に徹した。
 234年8月23日、諸葛亮は陣中で病没し、蜀軍は全軍が撤退した。その際、魏延と楊儀との間に争いが生じ、魏延が殺
される事件が発生している。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 22:03:06 ID:hLWsGe24O
2ゲットなら劉禅

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 00:25:11 ID:mtsTLmn1O
3getなら孟達

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 14:17:09 ID:IdEoaSXbO
4getなら月英

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 18:18:25 ID:qs15dPtQ0
もし蜀漢が関中を制圧できていれば、
その後の展開もだいぶ変わってきていたかな。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 18:26:50 ID:8Qowvdwb0
劉備が関中を制圧していたら違っただろうね。
それ以降だと、まぁ無理だろうなぁ。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 23:57:23 ID:X6I2hBEg0
劉備が漢中を平定した勢いで関中も平定、
ちょうど曹操も死に、
孫権もその勢いを恐れて荊州に手を出すのは控え、同盟復活、
劉備と孫権が手を組んで、曹操死後の魏に挑む。


8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 13:50:20 ID:DZp+vL+i0
でも、魏が守勢に徹したら、攻め込むのは難しいんじゃないかな。
戦線が膠着状態に陥ったところで、
蜀と呉の同盟に綻びが出始めるようなことになりそう。

9 :名無しさん@お腹いっぱい:2007/01/15(月) 17:47:27 ID:8mQxaMwy0
劉備が白帝城で死んだ時、諸葛亮が劉禅を皇帝に立てたのはなぜなんでしょうか?
諸葛亮が、蜀の皇帝になっていれば、天下は蜀のものになっていたかもしれませんね。


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 19:17:17 ID:oXbTndro0
蜀の人間は漢の皇帝に仕えてるという大義からあるからじゃね?
孔明は漢の大義>自分の名声と考えたんだと思う

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 19:36:48 ID:vqDfjfZb0
陳友諒化しそう>乗っ取り

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 23:43:28 ID:bAr99ni90
>>9
劉備も、本気で諸葛亮に皇帝の位を譲る気はなかったんじゃないか。
ああいうふうに言っておいて、諸葛亮が、
「はい、私が跡を継いで即位します」
とでも言おうものなら、たちまち謀反だとして捕らえて処刑へ。
そのへんは、諸葛亮も分かっていて答えたんじゃないかと。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 23:46:45 ID:P5zqpHR+0
普通に考えて無理だな。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 11:02:38 ID:eqnoPpCV0
諸葛亮は蜀の最高実力者だったわけだし、
本気で頑張ったら簒奪できたかな。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 12:19:40 ID:MVkFL2ZDO
>>14
李厳の言葉なんかを見るに、一部には待望論というか「曹操と同じようにやるんだろ?」みたいに思われてたフシもあるよね

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 15:11:23 ID:zJ7sKQdb0
魏ならともかく蜀のトップになったってねぇ

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 15:35:22 ID:7ChzSpV5O
まぁ、緒葛がどうあがいても魏を倒すことは不可能だけどな

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 16:04:50 ID:KkwY9sLx0
荊州に関羽じゃなくて趙雲置いといたら、違った展開もあったかな?

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 17:25:07 ID:W9BXhbLA0
魏呉に攻められ終わり

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 20:11:35 ID:EEfhJMGo0
趙雲は史実上はたいした活躍の場もなく五虎将軍の中でも官位も一番低くおくりなも低く
実はたいしたことがなかったという説がある。


21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 20:30:08 ID:KkwY9sLx0
じゃあ、鳳雛を失って伏龍が荊州を離れた時点で破綻は避けられなかったんだね。


22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 21:22:56 ID:apKaGFBG0
だから諸葛亮が援軍率いて益州に入るのは予定内の行動だって
益州で直接成都を突かなかったのも時節にあった作戦
丁度呉から援軍の要請が来てたので、帰ると見せかけて強襲するチャンスだった

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 23:32:40 ID:aKSMRl0S0
>>21
孔明が居たら大丈夫というものでもない。

24 :名無しさん@お腹いっぱい:2007/01/17(水) 00:08:03 ID:AL9gC3Lx0
劉備も劉禅も民のためとか言っておきながら、結局は欲に溺れて
最終的に蜀は降伏という形で、消滅。
やっぱり、どれだけ心の優しい人物でも欲望には勝てないんですね。
日本でいうと、豊臣秀吉とか・・・

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/17(水) 08:54:31 ID:8du7fsfI0
>>24
色々言いたい事はあるが
別に最初から民のために戦ってたわけじゃないと思うぞ

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/17(水) 23:13:02 ID:8L1XOCrm0
劉備もなかなかの奸雄だね。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/18(木) 14:28:40 ID:IAH4Z1xf0
孔明も南蛮を平定してからは北伐をせずに国内の固めと皇帝の調教に力を入れれば良かったのに。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/18(木) 16:12:13 ID:nP7um9Dc0
北方版みたいに雍州以西を奪うって案は?


29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/18(木) 23:47:13 ID:cfIuXVAX0
>>26
蜀を奪ったのも、劉備自身の主導っぽいしね。
諸葛亮が持ち上げられた分、劉備は落とされている。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 04:01:47 ID:oNjVRTSl0
そもそも孔明が勝ったといえるのは四回目の北伐ぐらいだろ
曹真にも勝てなかったし

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 10:51:21 ID:IbPeGSvP0
三回目で郭淮にも勝ってる

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 11:48:20 ID:V3v4Iqf10
街亭で馬謖がやらかさなかったら、長安くらいは取れた?

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 11:51:05 ID:zMUwOzr50
>>27
そうすると魏がどんどん富国しちゃって幾ら堅牢な蜀でもゆくゆくは滅ぼされる。
孔明は攻めるしかなかったんだぉ。


34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 12:16:49 ID:J+7f6Twb0
>>1
改行くらい覚えろょ

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 12:56:19 ID:3U9AujMN0
>>32
一時的に攻め取れても、それを維持し続けるのが大変な負担になったんじゃないかな。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 16:11:43 ID:hsTLgqI00
魏も呉もほっとけば内乱が起こって勝手に滅びそうな感じだったけどな

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 16:13:23 ID:Iq4Vd2tB0
後背の涼州を確保した上で長安とれれば食料補給は楽になるよ。
あの地域は秦王国の時代に潅漑工事を済ませてあって
穀倉地帯なんだからね。
次の収穫期まで持ちこたえればOK。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 20:27:55 ID:v/ODXrh/0
陝西から甘粛にかけての辺りって、当時は今ほど乾燥していなかったのかな。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 23:39:51 ID:5pQWJ/5H0
>>37
そーだっけ?
なら、なぜ東漢は長安に都を置かなかったの?

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 04:53:54 ID:KFKSfBsb0
>>31
あれは魏延のおかげでしょ、軍事能力は孔明より魏延のほうが数段優れてると思う。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 10:31:10 ID:A5vtSmVV0
魏延じゃなくて陳式のおかげだろ
それも孔明の指示を受けての戦いだし

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 13:52:06 ID:PkVX2E5X0
孔明って劣化張良ってイメージなんだけど人材不足で
前線に立たざるを得なかった劣化韓信ってところか?

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 14:18:16 ID:KFKSfBsb0
というか司令官になったショウカ

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 22:36:14 ID:fyKb4L4w0
いちいち劣化○○とか程度の低いこと言うなって

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 23:28:58 ID:TbeUwEWj0
劣化ウラン!
と書こうかと思ったけど
下らないから止めた。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 00:25:52 ID:JnEjPgmo0
とりあえず長安を取るんだろ?
話はそれからだ

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 12:49:56 ID:HJ+hcfDF0
>39
中国大陸全体からみて長安を都にすると不便なんよね。
後、春秋時代以来中国の文化の中心は晋(趙・魏・韓)のあたりで
洛陽はそのあたりだけど長安は昔の秦だからね。
やっぱり華やかさが欲しければ長安から遷都したくなるじゃん。



48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 15:10:48 ID:uyW5DGbW0
長安は場所が広く取れるけど、防衛上はあんまりよくない。

洛陽は小さめだけど、防衛に適している。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 16:04:28 ID:1Hfqndy30
>>46
魏延ですか?

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 16:48:20 ID:tb4iMdOn0
どの三国志の本読んでも孔明はかわいそうだな
あれだけ頑張ったのに結局志半ばで亡くなっちゃんだもの
最後まで戦ってきたのはいったいなんだったんだろうね

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 17:35:27 ID:JJiFoZL30
長安取れたら自動的に雍州以西が手に入るの?
洛陽や関中を伺いやすくなるの?

北方の小説だと、長安取れば魏は遷都を余儀なくされるし、
今までのような楽観はできなくなるって出てたけど。

詳しい人、教えてください。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 20:04:54 ID:A0D/jr2/0
ていうか李カクシ討伐してからいつの間に長安復活してたんだ?
大廃してたんだろ?

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 21:37:27 ID:jeemdOQVO

 ヘイヘ〜イ、オマイラ〜♪
♪ ∧_∧
  (´・ω・) ))
(( ( つ ヽ  ♪
  〉 とノ )))
  (__ノ^(_)
http://society4.2ch.net/test/read.cgi/jsdf/1145305314/
 タノシソ〜ウダナ〜♪
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 ♪ ノ ⊂ ) ))
 ((( ヽつ 〈 ♪
   (_)~ヽ_,)

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 00:48:06 ID:/Yk6FYOf0
>>52 鍾ヨウの治績じゃねえの?

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 00:51:18 ID:8KJPYyId0
もともと、赤眉に荒されてかなり落ちてたんじゃなかったっけ?

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 01:25:32 ID:lHE16nw/0
蜀漢ってある意味、今の韓国や北朝鮮みたいな感じの国家だったのかな。

何百年後かに誰かが「北朝鮮演技」みたいな小説をかいたら、
金イルソンやジョンイルが劉備並みの英雄として人気者になったりするのかも。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 02:38:07 ID:ddIUOum2O
いくらなんでもそれはやめてくれ
朝鮮に孔明みたいな民衆に慕われる政治家はいないだろ

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 04:26:19 ID:NCWSj9l+0
トンデモ説が出たなw

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 22:06:49 ID:yHsGYBFBO
孔明は第一次北伐の街亭の戦いで愛弟子の馬稷を大将に任命したのがだめだったな。蜀の諸将も経験豊富な奴を使ったほうが良いといっていたし、街亭で負けていなかったら長安を取れていたかもしれない。
軍才はあっただろうから。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 22:11:18 ID:uRZ8IMym0
よく言われるけど街亭ってそんな重要な戦いなのかな
仮に防げたとしてその後長安落とすとか涼州を平定するとかの軍事的結果が出る可能性ってどのくらいなんだろう

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 23:39:04 ID:8KJPYyId0
>>56
弱者は共通点はであることしかないだろw

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 10:20:42 ID:mO0xSwiz0
>>60
北伐の報だけで三郡が降伏
徐バク、游楚なんかの踏ん張りはあったが、街亭で時間を稼げれば
そこで涼州の東側のどっかの城抑えて魏軍本隊をガッチリ食い止められた筈
そうするともうあとは涼州を切り取り放題

問題なのは馬謖が蜀軍の先鋒が確保失敗した事

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 18:10:57 ID:73PZlEAl0
本当に起死回生だったんだね。街亭って…

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 12:09:03 ID:cwjCahzi0
バショクを起用した孔明が無能だっただけのお話

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 16:04:18 ID:mgfN0Wf2Q
呉と共同作戦とかやったの?
二方向から攻めた話とか聞いた事無いけど

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 20:52:36 ID:YwFWynfT0
時間の誤差ありまくりだけど一応やったよ。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 23:25:25 ID:INpdK2G90
>>65
メールか携帯が使えれば、うまく連携できたと思うよ。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 23:44:04 ID:8IXy9T0C0
蜀がソフトバンクじゃなかったからしょうがないよ

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 23:59:06 ID:INpdK2G90
>>68
それだと、圏外で使いものにならないと思うよ。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 00:15:16 ID:E/uaLKWk0
おまいらがゆとりだということがよくわかった

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/28(日) 00:14:00 ID:d1qdNSKR0
んにゃ、んなものは無かったな。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/28(日) 10:41:49 ID:GPJO0s/80
先ずは呉を攻めて荊州を奪還してから魏を攻めればヨカッタのに

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 06:23:49 ID:1hvKItfj0
>>72
呉と魏に同時に攻め込まれるんじゃね?

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/01(木) 02:30:08 ID:7yYDTzlf0
そういや、どっかの本に劉備と諸葛亮は筆談で話してた(中国は地方ごとに言葉の差が大きいため?)って書いてあったんだけど、
本当かな?

本当だったとしたらら、劉禅とはどうだったんだろ…
出師表とか…

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/01(木) 09:07:17 ID:i56Jc+6aO
諸葛亮って荊州に流れてくる前はどこらへんにいたんだろ?

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/01(木) 11:38:42 ID:pAyLzjkk0
あの広い中国なんだから、現在でも地方ごとで言葉の差はかなり激しい。
日本だって、何言ってるかほとんどわかんない方言だってあるよね。
で、勿論当時の中国も地方ごとで色々方言があり、
漢代にはずばり『方言』なんて本を書いた人もいる。
ただ、実際に当時どれほどの差があり、どの程度通じたかは具体的にはそれほど分かってない。
劉備と諸葛亮に限らず、言葉が通じず筆談したなんて記録なんて残ってないし。
ひょっとしたら、三顧の礼の時筆談で会話してたかもね、くらいの想像のお話。
劉禅のころって、さすがに十年以上たてば普通外人だってどうにかなるんじゃない。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/01(木) 12:20:44 ID:VRwp1TmI0
言語と方言は厳密な区別はできないそうだ。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/01(木) 20:33:00 ID:7yYDTzlf0
>>76
>劉禅のころって、さすがに十年以上たてば普通外人だってどうにかなるんじゃない。

それもそうですね。
ただでさえ、同じ文化圏の人間同士なんだから。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 11:26:04 ID:D9OD0r1c0
>74
劉備は近隣の徐州にもそこそこいたし、
それから荊州北部に入ってから少し経って諸葛亮に会っているのだから
筆談しなくても通じると思う。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 12:23:13 ID:0Ld7YI6C0
方言を通訳するのが役目の官職なんかも、あったのかな…
南蛮や涼州、交州なんかは言葉が中央とは全然違いそうだ。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 12:26:32 ID:jt04zEVQ0
学のない土人ならともかく師から学問を学んだ士大夫層なんかは違う地域のものでも通じる言葉(主流となる地方の言葉)も話せた(つまりバイリンガル)と思うがな。
どうなんだろう?

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 23:25:05 ID:IZtifpwf0
広東とかを除いたら、北方はある程度通じるんじゃないか。
日本でも、関西弁、東北弁、九州弁も理解できないことはないし。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 00:15:35 ID:39cAuQMx0
孔明って土着じゃなくて
流れてきた文化人の子じゃなかった?
玄徳も学問してるし筆談は必要か?

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 15:34:53 ID:XILg3lo00
劉備が使いこなしていた魏延や李厳に裏切られ
劉備が注意していた馬稷に大事を任せて失敗する

劉備って意外に優れた人物だとおもうけどな
特に人材登用と運用がすばらしい
実は劉備は孔明の弱点を補っていたと思う

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 17:09:49 ID:E2PKen/O0
>>84
三戦板でもなかなか見られない恥ずかしいレスだな。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 17:17:46 ID:cJex2FIy0
全くだな

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 18:48:58 ID:TTpvWC9B0
孔明は人の手柄を自分のものにして丞相に帰り咲いたのが素敵

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 18:53:28 ID:E2PKen/O0
>>87
陳式を派遣して武都・陰平を平定した時も自ら動いて郭淮らを牽制して動けなくさせてたよ。
馬謖では失敗したがこっちは成功した例だね。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 23:53:27 ID:T/219OKK0
>>88
武都・陰平って生産力ない僻地で魏にとっては守るべき価値が少ない、
蜀にとっても景気づけってだけで実利はないところだしね・・・
撤退した郭淮を追撃で破ったとかなら価値も出てくるのだろうけど

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 00:16:57 ID:u4nFwE5T0
>>89
でもあの二郡を抑えておけば成都と漢中を分断される可能性が低くなるから戦略的には意味があったとは思う。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 00:17:59 ID:vPnRdLOT0
>>89
生産力はある
涼州の3割くらいの人口があったと考えられてる
ついでに漢中の裏側の守りを固める戦略的な意味でも必要

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 00:23:20 ID:u4nFwE5T0
>>91
結構移住させられていた筈なので、生産力自体はそれよりは下がっていたと思うよ。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 17:42:27 ID:Vdkl9XRS0
>>90>>91
第一次北伐でスルーされてるから、それらの理由は薄いんじゃないか?
漢中の守りを固める目的からしたら真っ先に攻略対象にならんとおかしい

武都・陰平がどっちに帰属してたとしても、それほど大きな兵力の駐屯はさせない
(かつ、できない)だろうから、戦略的意味の大きさが実感できない・・・

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 18:09:13 ID:u4nFwE5T0
>>93
第一次北伐では街亭で魏軍を抑えつつ、その間に涼州を切り取ってしまおうという算段だから別に問題ないだろ?
またその後、涼州が魏への帰属を固めつつあったので武都・陰平を抑える必要性が高まったとは考えられないか?

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 21:25:44 ID:Vdkl9XRS0
>>94
相当好意的な解釈をすればそう考えるのかもしれないが・・・
西南端の陰平はともかく、武都は天水や南安へ出るときの通過地点だし、
そこを無視しているあたりで重要性が大きいとはとても思えない。
あと街亭が涼州固めるまでの足止めってのは演義での話で、
史実では魏軍との決戦の先鋒・前哨戦と思うが。

自分は第三次北伐に関しては、一次二次で失敗した穴埋めや士気低下対策として、
とにかく名目だけでも勝ちを得るために防備の薄い武都・陰平を獲りにいった、という見方が妥当に思う。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 21:28:55 ID:KZ6A+y/x0
戦略的要所なら再度とりかえすだろうしな。
とりあえず孔明を丞相に戻したかっただけだと思う。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 21:45:24 ID:u4nFwE5T0
>>95
馬謖が先鋒なのと魏への抑えであることは矛盾しないよ。
諸葛亮はその間、北伐に呼応した安定・天水・南安の三郡の平定に向かってるのは事実だし。
武都や陰平は三郡を平定しちゃえば簡単にものにできるでしょ。
住民が移住させられて生産力も下がってることだし。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 21:46:30 ID:u4nFwE5T0
>>96
漢中と同じで魏にとっての価値と蜀にとっての価値が違ったってことだろうな。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 22:15:05 ID:Vdkl9XRS0
>>97
>諸葛亮はその間、北伐に呼応した安定・天水・南安の三郡の平定に向かってるのは事実だし。
なんか微妙に時系列がおかしいんでは?馬謖の街亭への派遣は三郡の平定後の可能性が高いでしょ?
蜀が三郡(南安、安定、天水)を降伏させたから張コウが迎撃に出てきたんだし。

>武都や陰平は三郡を平定しちゃえば簡単にものにできるでしょ。
三郡には魏軍がいなくてあっさり降伏してるくらいだから、
三郡押さえるのを待つまでもなく、支隊派遣するだけで抑えられたはずだが。
あなたがいうように重要なら、補給路確保の意味でも抑える方が妥当。
結局、統治のリスクが収入・防衛などの実利に対して劣るってこと。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 23:58:30 ID:u4nFwE5T0
>>99
諸葛亮が祁山に向かうと三郡が呼応、それを落ち着かせつつ馬謖を先鋒として派遣、本体が向かうまで張郃を抑えさせとく。
こういう流れでしょ?
反乱分子もあるわけだし、呼応してくれたからはいそうですかと何の手当てもせず、前進することはできんと思うが?

> 三郡には魏軍がいなくてあっさり降伏してるくらいだから、
> 三郡押さえるのを待つまでもなく、支隊派遣するだけで抑えられたはずだが。
> あなたがいうように重要なら、補給路確保の意味でも抑える方が妥当。

三郡を押さえればすむ話。
だから後回しにした。
その後、三郡の呼応などが期待できなくなったので、まずは武都・陰平を抑えて漢中・成都間の防衛を強化しつつ、涼州侵攻の別ルートの確保を図った。
優先順位の話。

> 結局、統治のリスクが収入・防衛などの実利に対して劣るってこと。

何を根拠に?

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 00:25:22 ID:p9Lk8Zot0
電撃作戦ではスルーしたけど、それが失敗して武都・陰平は先に抑えておきたい土地になった。
政治的な意味でも勝利が必要だった。
この二は同時に浮上した。
という事かのう。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 00:37:47 ID:TxPznCLF0
>>100
馬謖を先行させたのは、単純に本隊に先行させただけと思うが。
三郡の対応を優先させるために先行させたわけじゃないでしょ。
三郡が降伏した報が伝わってから張コウ派遣されるまで時間的余裕があるわけだし。

>三郡を押さえればすむ話。だから後回しにした。
>優先順位の話。
本隊派遣しないと取れないのならその優先順位もまだありうるかもしれないが・・・
状況からすれば労少なくして確保できるものなんだから後回しにする意味がない

しかも、魏軍を迎撃できれば三郡に限らず涼州諸郡がなびくのだから、
三郡安定>魏軍迎撃(>>武都)って優先順位付けは根本的に間違ってる。

>武都・陰平を抑えて漢中・成都間の防衛を強化しつつ、涼州侵攻の別ルートの確保を図った。
武都・陰平を確保した後、別ルートなんて北伐では使ってないんじゃない?
四次は一次と同じだし、五次は一次で趙雲たちが使ったルートでしょ。
そもそも武都・陰平確保による漢中・成都間の防衛を強化ってのが必要性薄いよね・・・
実際そのルートで侵攻してきたのは蜀滅亡のときトウ艾が使ったくらいで、
しかも鐘会が蜀の主力を牽制する形になったから出来た話だし。

>何を根拠に?
魏・蜀それぞれのの武都・陰平に対する行動からの推論だけどさ。逆に聞くが
>漢中・成都間の防衛を強化しつつ、涼州侵攻の別ルートの確保を図った。
などは推論ではなく、史書などの根拠があるということか?

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 01:07:38 ID:M9KEYhb80
>>102
> 三郡が降伏した報が伝わってから張コウ派遣されるまで時間的余裕があるわけだし。

諸葛亮が出撃したのが228年春。
張郃が馬謖を破ったのが同じく228年の遅くとも2月上旬。
時間的余裕があると思えんが?

> 本隊派遣しないと取れないのならその優先順位もまだありうるかもしれないが・・・
> 状況からすれば労少なくして確保できるものなんだから後回しにする意味がない

その時点で三郡を押さえ後背の憂いをなくし、関中で魏軍と激突。
既に趙雲らを別働隊として動かしており兵数に余裕はなかったし、その時点で優先順位が低かったので後回しにした。
別に問題はないと思うけど?

> そもそも武都・陰平確保による漢中・成都間の防衛を強化ってのが必要性薄いよね・・・

> >漢中・成都間の防衛を強化しつつ、涼州侵攻の別ルートの確保を図った。
> などは推論ではなく、史書などの根拠があるということか?

地図を見れば明白だと思うけど?
あんなどてっぱらに楔を打ち込めそうな地勢の地域をいつまでもほったらかしにしておくわけにはいかんだろ?
蜀の場合、補給線を保ちつつ梓潼郡に侵入されたらアウトだよ。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 01:53:07 ID:35TXPNWQ0
張既伝注魏略の游楚の記述を見れば、当時蜀が隴西郡まで兵を派遣したのが分かるので、
規模は不明ながら、諸葛亮が隴西一帯の平定を行おうとしたのは確かだと思う。
また、隴西諸郡の内、広魏郡は降っておらず、郭淮も上邽にいたわけだから、
三郡が降ったからと言って、すぐさま隴西が安定したわけではないと思うよ。

少なくとも、張郃の迎撃に全力を傾注できる状況ではないね。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 21:24:51 ID:FglIUV6l0
武都・陰平は険しい山岳地帯で道路が非常に貧弱。
故にこのルートを大軍が行軍すると輜重が追尾できず補給切れになる。
武都・陰平の価値が低いのはそのため。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 21:45:43 ID:DeiJTBqG0
武都と陰平郡の攻略って、実利はさておくにしても、街亭と陳倉で躓いた事に
対する国内世論への配慮も大きい気がするんだけど

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 23:44:30 ID:GkjDKC4p0
北伐は蜀の存在意義なり

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 00:15:48 ID:L1VDnuly0
士気も上がるしね。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 00:22:00 ID:KIKl4+L40
>>105
武都経由で諸葛緒率いる3万が、陰平経由でケ艾率いる3万(内1万は間道を南下)が、
それぞれ剣閣まで前進できている事を考えれば、隴西にしっかりした物資集積基地を設ければ、
それなりの大軍を剣閣まで前進させる事はできそうだが。

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 02:30:59 ID:fsZZR5WT0
>>103
>時間的余裕があると思えんが?
そんな長期間手を当てないと無理な状態なら、
魏軍の迎撃を放っておいて時間をかけるのは浪費でしかないでしょ。
諸葛亮本人があたらないとできないことでもない。支隊を押さえにおいておけば済む話。

>その時点で優先順位が低かったので後回しにした。
後になったとしても優先順位はそれほど高くならない。
一次は速度重視で無視したとしても、重要なら二次で陳倉攻める方優先するのもおかしい。

>地図を見れば明白だと思うけど?
平面図の直線距離だけで判断されても・・・
あの辺で補給線を保つのは相当国力がないと無理。
かつ、侵入できても守る側が備えていれば破るのは難しい。
それが乱世になるたびに蜀に地方政権ができた理由でしょ。


>>104
そりゃ安定には達してないにしても、支隊を押さえに残しとけば済むんではないですかね。
本体がにらみ聞かさないと駄目な状態だったらば、兵の損耗を嫌って
極力安全な策を取った諸葛亮なら、魏の援軍が来た時点で失敗を悟って撤退してると思う。
史書にも馬謖を先鋒として派遣したって記述が多いから、本隊が迎撃に向かう方針だったと見てよいのでは?

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 22:56:29 ID:+L+nj30P0
ところで当時の関中一帯って、今と環境がだいぶ違ったんだろうか?

現在ほど乾燥が進んでいないとか。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 23:23:14 ID:L1VDnuly0
秦〜西漢の頃はかなりの穀倉地帯だな。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 00:46:31 ID:Xj7XI4ph0
薪用に木を切りすぎて乾燥したって聞いたな。
唐以降に開封に都が移ったのも木が豊富だったからとか。
ホントかどうか知らんけど。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 01:00:21 ID:uPX9hHGV0
>>110
游楚の事は既に述べているが、実際は、更に徐邈の南下もあって、
隴西は意外と戦力を割かざるを得ない状況だったと思う。
ただ、>>103の意見とは少し異なる。

両軍の配置を考えると、諸葛亮は内戦作戦の態勢にあったように思える。
従って、西か東、どっちを先に撃破するかという選択を迫られていたわけだ。
「援軍を撃破すれば隴西は自然と治まる」という游楚の言葉もあるし、
諸葛亮自身は張郃を優先して撃破しようとしたと思う。
ただ、最初から張郃に全力を注ごうとしたわけではなく、
張郃本隊の動向を掴んだ時点では、隴西や上邽など、十分な戦力が諸方に散っていたと思う。
張郃到着前にこれらを陥落するのが理想だからね。

つまり、馬謖の役目は単なる先鋒ではなく、やはり時間稼ぎ。
しかし隴西を平定する為の時間を稼ぐと言うわけではなく、
隴西を平定する為に分散していた軍を集結させる為の時間稼ぎ、と見るのが妥当だと思う。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 23:41:42 ID:A40pXmtM0
。。。。。曹真。。。。。
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170830908/

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 01:14:48 ID:Fy3/oVQF0
>>114

>103氏のいうような平定する為の時間稼ぎっていうのは、
相手側の心理考えたら、近くまで援軍来てる状態では抵抗も増すし、
降伏する可能性も減るしで不利な要因が増えるだけのように思いますが、

>つまり、馬謖の役目は単なる先鋒ではなく、やはり時間稼ぎ。
>しかし隴西を平定する為の時間を稼ぐと言うわけではなく、
>隴西を平定する為に分散していた軍を集結させる為の時間稼ぎ、と見るのが妥当だと思う。

この見方には大いに納得ですし、賛成です。
馬謖が敗れたら即撤退したことから推測して、
馬謖にはその時点で動かせる範囲でのかなりの兵力が与えられていたんでしょうね。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:42:47 ID:tg8IHOQq0
第五次で悉くを率いて十万だった事、第一次では趙雲らを別に派遣している事などを考えると、
この第一次の時の戦力は多くて6,7万だったろう。
また、撤退時に西県の住民を連れて行っている事を考えると、
祁山周辺にいて、且つある程度の戦力は保持していたと考えられる。
游楚だけなら5千を超えるような戦力は率いていないだろうが、
徐邈も来てるので、隴西方面は1万以上を残置する必要があると思う。
また、上邽の郭淮も数千という程度だったろうけど、その監視にはやはり1万近い戦力は必要。
あとは渭水方面がどうか、という事だが、これはよく分からん。

諸葛亮自身の戦力、上邽、隴西等に割く戦力を考慮すると、
馬謖の戦力は1万は超えるにしても、2万は大きく超えないんじゃないかな?

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 15:40:10 ID:s196tS9x0
『 孔明ハード 』

兵糧確保の為に街亭に馬謖を潜入させた孔明。
だが、それは魏軍の巧妙な罠だった。

「孔明の布陣は 私に崩される為に築いてきたんですものね」
「いつもの力が出せれば…こんな魏軍なんかに…!」
「よかったじゃないですか 馬謖のせいにできて」
「んんんんんんんっ!」
「へへへ おい、曹真を用意しろ。みんなで滅ぼしてやる」
(耐えなきゃ…!!今は耐えるしかない…!!)
「蜀漢の生涼州ゲ〜ット」
(いけない…!劉禅から無断で軍を奪っていったのを悟られたら…!)
「生馬謖様の生打ち首を拝見してもよろしいでしょうか?」
「こんな奴らに…くやしい…! でも…裁いちゃう!」(ズバズバッ
「おっと、漢中まで退却してしまったか。甘い恐れがいつまでもとれないだろう?」
それから蜀は後から侵入してきたケ艾によって滅ぼされた

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 23:57:45 ID:jj31+fY/0
北伐 = 蜀という国家の存在意義

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 23:29:23 ID:1aOMKual0
北伐は政治活動也

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 09:18:39 ID:LgnOuQicO
領内引き締めに使えるしな

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 23:54:49 ID:sZj+e9B80
はわわ

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 14:42:14 ID:0nlyQ7GH0
>>120>>121
軍事行動を続けて、緊張状態を持続させれば、政権の求心力を高めることができるね。
二代目の劉禅は、初代の劉備に比べると致命的なまでにカリスマ性に欠けるわけだし。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 02:31:53 ID:ualw5Dy/0
MIKIは何で泣いてるん?

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 12:16:07 ID:nJIYDMvA0
>>113
開封に都が移ったのは、それより単純に、
江南に直結する経済の中心地として栄えていたからだと思う。
開封をしっかり押さえておくだけで、相当な財源となるから。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 13:33:17 ID:aIstgZzV0
>>125
それ以前、唐の皇帝が、長安では食料が届くのが遅すぎて
洛陽までわざわざ出向くという、失笑すべきエピソードがある。
これは中国という国家が、いかに江浙の生産力に頼っていたかを示すものだけど
隋の運河の利便性も語っている。

その流通路にあって、一旦陸揚げされるところに、大梁、つまり汴州の街があったというわけ。
朱温がここに封ぜられたのは、確信犯的だったんじゃないかと…
春秋のころの梁とでは、立地条件は雲泥の差といえるかな。
ちなみに、近郊には陳留がある。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 15:41:07 ID:hhCz9CNN0
あのへんは、黄河の流れ自体が大きく変わってしまうからね。
数百年違うと、地形もかなり違うと思う。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 23:56:42 ID:Mo3M6hjg0
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 23:57:53 ID:klSFM2rT0
>>126
唐の時代はそうだけど、古代の関中は穀倉地帯だったわけでしょ。
この後漢末〜三国の時代辺りの関中はどんな感じだったのかな?

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 13:22:26 ID:yX6seAIj0
長安の人口は前漢で24万、後漢末だと10万と推定され、
またこの時期では長安への食料供給は関中の生産で間に合ったとされる。
このあたりにヒントが隠されているかも。

一方で唐代では人口100万を養うには関中の生産力は不足しすぎたともされる。

関中の農業生産力は内乱による社会システムの崩壊から立ち直れば
唐代も秦もあまり変わらないような気もする。
秦の開発でピークに達して基本的にはそのまま横這いというイメージ。
内乱と平定で生産が上下するみたいな。

ただ、農作物が畑作であまり河が広範囲に氾濫しないのなら
潅漑は塩害をもたらすので長期的には農業生産力はジリ貧になるが。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 22:30:14 ID:4y9NRpXUO
蜀にとっての北伐=国内引き締め
魏にとっての北伐=司馬懿のための軍閥維持策
決戦なんて起こりようがない

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 06:39:38 ID:a82izyRX0
>>130
華北は漢代に森林の伐採が進んで、乾燥化が進んだみたいだし、
唐代あたりになると、漢代の頃より農業生産力がやや落ちていた気がする。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 10:47:54 ID:V3c6qb9S0
関中は秦の時代に開発を進め過ぎたのかもね。
当時は先進地域となれた反面、以降の開発余地がなくなってしまった。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 12:25:06 ID:X2z0DkZt0
開発の余地ってなんだよwwww
森林伐採や塩害で土地が枯れただけ
イースター島の文明が滅んだのも、オスマンが没落したのも全部森林伐採のせい
それが文明史

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 12:50:23 ID:xYCMorHA0
人の手が入っていない平野。
それが開発の余地。
しかしそこに人が集まると開発余地はなくなる。
その上で、森林伐採とかがはじまるわけだ。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 17:18:59 ID:FVGEt08g0
諸葛亮は不運過ぎる
自分に出来ない事を補ってくれると思ったホウ統、法正、馬謖が次々死亡
作戦の立案なんかもほとんど一人でやったんだろうなあ

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 23:22:05 ID:1W/BLGO50
■最強は■五虎将軍■誰だ■
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1188962254/

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 14:03:05 ID:ijJ23HLS0
今の蜀道↓

http://home.focus.cn/msgview/1398/76563796.html

http://www.yododo.com/photo/5A7400EA0FF566ED010FF629D726006E
http://www.yododo.com/photo/5A7400EA0FF566ED010FF629D7A3006F
http://www.yododo.com/photo/5A7400EA11A03AE90111A0DA00040287


139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 14:42:26 ID:O6AMGzuw0
北伐の頃の蜀の軍師は・・・

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 15:13:33 ID:4l3LBCEe0
>>138
蜀って、よくもまあ早いうちから中国に入れたものだと思う。
普通、あんな地勢なら中原からは国家としても、民族としても、
独立した存在になっていそうだし。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 15:29:19 ID:lK1u6IzI0
流刑の地だった蜀… というか四川の地は
それだけ政争でやぶれた知識人も多く流されたので
かならずしも野蛮な気風ではなかったのだろう。
しかし、だからこそか、四川という地方は中国史の中で
異彩をはなつ存在といえる。
統一王朝も、ここの統治には苦労しているようだ。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 20:59:52 ID:hutohQZk0
日本でいう四国みたいなものだな
野蛮ながら政治犯が流されたり貴族が移住したり海賊がいたり
江戸時代にはよそ者に統治されたり現代では日本の3%の力しかなかったり

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 23:44:44 ID:sNQ57bUJ0
諸葛亮の評価は
優れた軍人であり、ずば抜けた政治家
で合ってる?
天才的な軍事的才能を持つは言いすぎだよね?

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 00:44:49 ID:r89iVYdH0
諸葛亮は朱子学で過大評価されている
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1190128235/

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 15:27:56 ID:QpzsAkeYO
劉備に皇帝を譲ると言われたのは孔明だけじゃなくね?
李厳も言われたのに何故触れないんだろ?
しかも蜀という国の中の位では李厳の方が孔明よりも上位だし。北伐は李厳と魏延で行ったら良かったんじゃ。
魏延も軍師に任命されてたし。

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 16:39:20 ID:fa5zScBqO
要するに篤実さと謹厳さが売りの官僚だからな。
魏延のほうが将帥としてはるかに大器だろう。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 02:58:12 ID:Kc+bu+130
魏延と比べるなよ
李厳ならいい

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 02:35:24 ID:auWokST20
>>118
クリムゾン自粛汁

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 23:39:58 ID:hIQykCx/0
>>140
最初、秦に編入され、その秦が天下を統一したのが大きかっただろうな。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 19:40:03 ID:StA8lDg/0
中国史上最強の軍師は誰だ?
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1192760012/

151 :名無し@孔明:2007/10/20(土) 07:54:22 ID:4lCzlsnz0
馬稷みたいな若者を先陣に送ったのがいけないんだよwここは関羽の息子関興を行かせて後詰で馬稷を送ったほうがよかったのでは?
それより王平ナイス!

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 15:42:32 ID:iUP7/uCkO
馬謖が駄目なんじゃない。
見方によっては手堅く持久戦に持ち込もうとしたとも言える。
敗因は馬謖にあるんじゃなく張合βの卓越した戦術眼。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 16:08:32 ID:IhTycGxG0
関興とか冗談きついです

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 18:49:06 ID:ajhQRtGF0
>>152
ただでさえ兵站が弱いのに持久戦選ぶなんて、卓越した戦術癌だな。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 20:07:38 ID:iUP7/uCkO
>>154
アホ発見www

お前は当時の蜀軍の動向を調べ直せ。
もし馬謖が一月でも張合βを足止め出来れば北伐は成ったも同前。

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 20:16:19 ID:DrnG7hTE0
馬謖の役目としては、ロウセイが掌握できるまでの時間稼ぎでしょ
1ヶ月で城が落ちるかは妖しいが
あと、囮にかかった曹真が戻ってくるかもしれんしな
実際は馬謖が張コウを上手く抑えてても、難しいとこだったと思う

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 20:48:57 ID:7v6PA6BKO
もし日本がミッドウェー海戦で勝ったとしてもサンフランシスコまではとてもいけなかっただろうしな。
国力差が違うの、国力差が。

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 20:52:44 ID:iLysiTKY0
日本の場合は国力差もだが、向上心がなかったことも大きい。
強大な相手に、どうすれば勝てるか、を考えなかった。
兵器の開発もだし、国家戦略にしても基本はゴリ押しでなんとかなるだろう、と。
その辺は、諸葛亮独裁の蜀とは、かなり違うところだとは思うがな。

あるいは日露戦あたりが、諸葛亮時代で、太平洋戦争は姜維末期の頃とか?

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 18:01:32 ID:f50HwOZx0
後漢代の四川省に製鉄所、「蜀」建国の理由に迫る発見か

中国・四川省の古石山(こせきさん)遺跡で、愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターと
成都市文物考古研究所などの日中調査隊が、後漢代(1世紀ごろ)の製鉄遺跡を発見した。

中国の中心部である中原(ちゅうげん)以外で、漢代の製鉄跡が見つかったのは初めてで、
221年に劉備が、この地域に三国時代の「蜀(しょく)」を建国した理由を解明する上でも
重要な発見として注目される。同大で27日午後に報告される。
秦の始皇帝(在位・紀元前221〜210年)が現在の四川省に鉄生産の役所を置いたとの
記録があることから、調査隊は同省内で昨年から発掘調査を行ってきた。その結果、
今年6月に、成都市蒲江(ほこう)県の古石山遺跡から、高さ1・5メートル、幅最大1メートルの
レンガ造りの製鉄炉の跡が出土した。炉は4メートルほどの高さがあったと推定され、
日本では幕末から明治にかけての製鉄炉と同じ規模という。

調査に携わった村上恭通・愛媛大教授(考古学)は「諸葛孔明や劉備たちは
山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために
積極的に入っていた可能性がある」と推測している。

(2007年10月27日14時32分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071027i506.htm?from=main5


160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 18:37:19 ID:RWglqk1e0
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1193473859/l50

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/28(日) 19:17:00 ID:dPLtISBhO
戦術的に街亭の戦いで山頂に陣を取る方法をとった馬謖の行動は決して間違いでは無い



162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/28(日) 23:54:09 ID:cPj72IaIO
間違いじゃないが、決して正解じゃない。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 00:57:44 ID:DwfrcYhf0
だから劉備の遺言がきいてくるんだよな

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 10:04:46 ID:lXzeeDUIO
>>161
同意。
馬謖の使命は「魏軍の足止め」
街亭で持久できればよいだけ。

張合βの使命は「蜀軍の掃討」
すみやかに街亭を通過してロウ西を奪回しなければならない。
そうなると街亭の馬謖軍に対し全力で攻撃しなければならない。
ならば馬謖が山上に布陣して持久の構えを取るのは当然の戦術。

そこで、あえて速攻を捨てて包囲断水を行った張合βの戦術は奇策といえる。
「急がば回れ」とはいうものの、現実に採用するには大胆な策だろう。
馬謖もまさか張合βが決戦を挑まないとは予想できなかっただろう。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 17:42:28 ID:ufRKr44U0
完全必勝などありえんのだから
情報が物を言うからな
ちょうこうが上手だっただけだ

山頂に陣を取る方法を愚作だの軍律違反だのいうのは
後付だろ 

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 17:51:47 ID:n4VUG7yQ0
>>164
そう考えると、張郃のいくさ上手ぶりがうかがえるな。
愚将なら、やっきになって攻めて、逆落とし喰らってたかもしれんし。
でも、馬謖が諸葛亮の指示を無視したのは、本当のことなんでしょ?
そこをはっきりしとかないと、諸葛亮の人事下手とか言って衝いてくる人もいるしね。



167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 18:22:48 ID:lXzeeDUIO
>>166
命令違反というか、
「将、外においては君命にも受けざる所あり」
の典型だと思う。

我々も孔明も、街亭の地形を実際この眼で見たわけではない。
現地指揮官である馬謖と張合βのみが現地を見ている。
そこで馬謖は「高所に布陣して防衛が最善」と判断したんだし
張合βはそれを見て「包囲して枯渇を待つのが最善」と判断したのだろう。

つまり馬謖と張合βとの「現場経験の差」が顕著にあらわれたと言える。
それはすなわち「当時屈指の名将張合β」
に対抗できる将器が存在しなかった事こそが
蜀の最大の敗因だと言える。

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 20:41:01 ID:Z+EvVAaW0
>>167
で、現場をみた王平は反対しているわけだが。

現場を見ていない司令官と、現場をみた味方の経験豊富な将と敵の当時の屈指の
名将が「山上布陣は駄目」といっているのに、馬謖の策を当然とかいうのは無茶。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 21:41:12 ID:lxbFs1lOO
実際に裾野から山頂を攻めるのは大変だよ…逆なら守るにもっとも適している…これは現代戦でも同じ、山頂の攻城戦など攻めるのはもう大変…馬謖はセオリー通りの布陣をした。当時の兵器や軌道力からいったら尚更なのだがね…なぜ孔明が山頂布陣を禁止したのかはわからん…


170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 21:46:24 ID:lxbFs1lOO
山頂から一斉に攻めいられる恐怖は心理的にも大変な物…
更に当然ながら見通しが利くので敵の動きもわかりやすい…

それらをさしひいてもダメってのはよほど欠陥な場所だったのだろうか??


171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 21:58:12 ID:lXzeeDUIO
>>168
王平は敗戦の中でも功績を挙げ処罰を免れている。
つまりは生き残った側の人間。
その言い分が完全に時系列的に正しいとは言えない。
勝者は後出しジャンケンが出来る。

張合βの読みが外れて、馬謖軍に十分な水と食料があり
包囲戦が時間の浪費となった可能性だってある。
いや張合βも心の底では危惧していたに違いない。
結果は勝利できたが、本来なら非常に投機的な戦術。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 21:58:54 ID:I5qm5Row0
はい、問題です。
蜀軍山頂に布陣。
魏軍に遠巻きに包囲されました。塹壕を掘られて持久戦態勢。
味方はきません。
山頂には水、食料が余りありません。
どうなると思う?


173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 22:06:36 ID:WxDO2fEsO
>>168
王平は確か第一次北伐が初陣じゃなかった?

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 22:12:32 ID:lXzeeDUIO
>>168
あと史書を確認したが、
孔明も王平も「山上布陣はダメ」とは言ってないが?
「水路を捨て高所に布陣した」とはあるけど。
それって結果論じゃない?

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 22:21:59 ID:lXzeeDUIO
>>172
はい、問題です。
蜀軍山頂に布陣。
ロウ西諸郡は救援を待ち望んでいます。
蜀軍は一万強。こちらは数倍の兵力があります。
この街亭の敵を撃破すればロウ西まで一躍駆け付けられる交通の要衝。
でも山上の敵に頭を押さえられた状態では足止めされてしまいます。

あなたが魏将ならどうしますか?

1、全力で蜀軍を攻め、ロウ西に急行する
2、山上の蜀軍を無視し、退路を絶たれる覚悟で強行突破する
3、ロウ西の救援を後回しにし蜀軍を包囲する

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 22:23:04 ID:qE+9IrdX0
謖舍水上山、舉措煩擾、平連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。(王平伝)
謖違亮節度、舉動失宜、大為郃所破。(諸葛亮伝)

馬謖の敗因は、
1.水路を捨てて山頂に陣取ること。
→水源を捨ててしまったことがより悪手と思われる。
2.指揮が煩雑を極めた。
→要するに指揮が下手。

水源を絶たれたことにより戦略的に不利に追い込まれ、戦闘指揮そのものもダメ。
これで勝てたら不思議の勝ちだよな。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 22:30:47 ID:qE+9IrdX0
>>175
急がば回れという俚諺もある。
街亭さえ撃ち破れば蜀軍は引き返すしかないという状況なら、
優先度は隴西諸郡の救援よりも諸葛亮が来るよりも先に街亭を陥とすことの方が上だったんじゃないかな?
史記にもそんな話があったよね?

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 00:37:00 ID:NrN/wIOH0
補給こそが北伐のテーマ。
蜀軍のか細い桟道を伝って秦嶺山脈を越える補給ルートというハンデは想像以上に大きい。
大軍を動かすには大量の食料がいる。
大体、撤退の事由は食料不足。
諸葛亮をもってしても、このハンデは克服することは出来なかった。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 19:05:09 ID:c5LosMPJO
馬謖も兵法に通じ、あの孔明が後継者と言わせるほどの麒麟児だよ…
水も食料も乏しいなかであえて、その地に陣を張ったってのは凡人にはわからん何かがあったのだろう…確かに王平は幾多の戦いの勇者だが凡人だよ…


180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 19:14:00 ID:c5LosMPJO
魏軍も、馬謖に対向して張った陣に、山頂からと片方からの蜀軍に挟み打ちにされたら全滅の恐れだってあった…
それほど山頂に張る陣は高い優位性がある
多少の水や食料のハンデがあっても通常ならぜがひにでも高い場所に陣を取るのが普通

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 19:16:38 ID:No4hO7YG0
>>179
劉備はアイツはダメ!って言ってんじゃん

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 19:23:15 ID:XxWb+8ogO
馬謖にとって最大の誤算は張コウが攻め寄せてこなかった事。
まさか急ぐべき魏軍がゆったりと兵糧攻めしてくるとは予想しなかっただろう。
というか、この張コウの戦術は普通なら悪手だな。
百戦練磨の張コウだから採用できたわけで、
そこらの駆け出しの武将なら間違いなく攻撃して撃退されていただろう。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 20:44:21 ID:v4V6Nx6U0
>>180
食料や水を確保して高所を維持するのが普通。
よほど短期で決着をつけたいのなら輜重を切り捨てることもまれにあるが、
飲食にハンデを抱えても高所を取るのが普通なんて聞いたこともない。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 20:45:43 ID:LG8frYvr0
馬謖が短期決戦を望んだのはわかるがそりゃ博打ってもんだと思うが

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 20:51:02 ID:c5LosMPJO
そうだな、馬謖もそれを狙ってたんだろな…長期戦は予想外だったんだろ…
孔明は実は勝てる戦いしかしない臆病物だったのではないか?って気がする…

馬謖に普通に陣を張るように指示って、勝つというより負けない算段だったのでは?って気さえするけど…
孔明はホンとに天才だったのか??

臆病物だったんじゃねえのか?

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 20:54:34 ID:c5LosMPJO
馬謖は蜀の食料不足を知っていたからあえて、その作戦を取ったはず…

蜀の食料不足は慢性的なもんだから、短期決戦しか無いと馬謖は踏んだんではないか?

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 21:04:55 ID:Kb/n9U/10
>>185
諸葛亮が天才かどうかはともかく、勝てるいくさしかしない、というのは誉め言葉だよ。
本来、名将というのは戦うべきときと、退くべきときを心得ている者を指す。
少数で大軍を破るのだけが名将というわけではないからね。
かといって、実戦なく不敗とかいわれてもアレだけど。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 21:22:16 ID:c5LosMPJO
孔明は総参謀長、軍司令長官、軍大臣を全て兼任しての絶対権限を持ってたんだから悪い意味の問題も起きるよな…
組織の硬直化とか考えに逆らう奴は悪者扱いとか(魏延とか?)


189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 21:34:46 ID:XxWb+8ogO
>>188
それはないだろう。
そんな小賢しい事をする人物が古今の名宰相と呼ばれるわけがない。
軍司令官としての手腕はともかく、組織の長としては比類なき人傑。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 21:42:34 ID:cqWxKka00
ID:c5LosMPJOは基本的な事をまず押さえろ。
街亭への派遣にさいして馬謖が課せられた任は諸葛亮の本隊が来るまでの時間稼ぎ。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 22:20:57 ID:NrN/wIOH0
だから、馬謖は応用が利かなかったんだって。
孫子の兵法を知っていても実戦で活用できたのはむしろ王平の方。
基本に拘泥しすぎて、百戦錬磨の張コウに見透かされた。
給水路を捨てるなんて下の下。喉の渇きに、人は耐えられるものではない。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 22:51:16 ID:PClwPpjIO
食糧さえ不足してなければokだったの?
魏に高地に陣をしかれた場合のデメリットは?



193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 23:20:56 ID:cqWxKka00
>>192
「舉措煩擾」「舉動失宜」から考察するに馬謖は指揮がダメだったみたいだから意味なさそう。
馬謖は一知半解の見本な感じ。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 23:54:29 ID:XxWb+8ogO
馬謖は「パーフェクトゲーム」を狙いすぎたんだろうね。
街道に布陣して、魏の攻撃を防ぎつつ戦略的に後退して
張コウの疑心を誘う戦術をとれば充分な時間稼ぎにはなった。
それで敗退しても結果として任務は達成となる。

ところが、「逆落としに迎撃して撃滅する」という欲をかいたがために
老練な張コウの前に惨めに敗れ去った。

策士策に溺れるというか才気走りすぎて自滅したというか…

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 08:57:47 ID:uyq/90u20
>>182
何で兵站で有利な迎撃側が急がなければいけないと思った?
本当に急ぐべきは兵站の弱い蜀軍だろ。

>>187
勝てる戦しかしないのは確かに褒め言葉だが、孔明の場合しっかり負けてるから。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 12:57:58 ID:QeX18EZ60
>>185
>馬謖に普通に陣を張るように指示って、勝つというより負けない
算段だったのでは?って気がする…

仮に、そうだったとしても馬謖が自分勝手に決めて
大敗北を喫するよりマシ。
それに君が臆病者だと思う孔明に取って代われるほどの
人材が蜀にいるのかな。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 13:33:11 ID:QUjcVn59O
>>195
>何で兵站で有利な迎撃側が急がなければいけないと思った?
>本当に急ぐべきは兵站の弱い蜀軍だろ。

この場合は逆。
当時の情勢をよく考慮しなければならない。
蜀はすでに3郡を降した。
いま必要なのは魏の正面兵力の撃破ではなく
降した3郡の防備態勢を固める時間。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 14:37:34 ID:yDVpy/Id0
>>196
劉備の信用の篤かった魏延や呉懿が普通に適任。
特に魏延は対魏戦線の最高司令官だしな。
あと、孔明の北伐は単に荊州派閥の地盤強化の為の出兵だろ。
わざわざ周囲の反対を無視してまで馬謖を先陣に据えたぐらいだ。
結果は失敗に終わり、更に馬謖が脱走騒ぎ起こして処刑と散々だったが。
その後の北伐は、形だけ右将軍に降格しつつ実権は全く手放さなかった事を見ても、
初回の失点分を取り戻す事が第一目標と見るべきだろう。
その年の内に陳倉へ出兵して再び敗退、翌年更に出兵して今度は住民拉致に成功し、
非常にあっさりと丞相の地位に返り咲いている。
その程度の功績でなれる程、丞相の地位は安く無い筈なんだがな。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 13:26:14 ID:iojTzPYI0
>>198
まあでも、魏延や呉懿が孔明の変わりをやったとしても
結果的に魏には勝てなかったんじゃないかと
思ってる俺は間違ってる?

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 13:44:14 ID:z3hYj8oF0
>>199
街亭を馬謖の代わりに呉懿や魏延が守っていたら十分勝ち目はあったんじゃないかな?
王平なんか街亭の時も231年の時も張郃の攻めを凌いでるところを見ると、王平自身の抜擢は難しいものの歴戦の勇将であれば街亭を守りきれた可能性は高いと思う。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 15:25:24 ID:iojTzPYI0
レスありがとう。そういう考えもあるんだな。
そういう大事な要所を孔明は何故、馬謖なんかに任せたのだろう。
馬謖ってこれ以前に、この大任を任されるような功をあげてたっけ。
それとも、ただ孔明は自分の息の掛かった部下に
任せたかっただけかな?

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 01:49:27 ID:1hjxV5gw0
やっぱり心を攻めるが上策がきいたんじゃね

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 07:09:21 ID:SQDtbmzu0
でももともと馬謖の任地で動乱が起きてるわけだしな…。
弟子の不始末を師が拭ったわけだ。
劉備が「口先だけの男だから、大事は任せてはならぬ」という表現は的を射ている。
馬忠の評価も当たってるね。
「(夷稜戦で)私は黄権を失ったが、代わりに弧篤(馬忠)を得た。これは世の中に賢者が少なくないと言う事だ」と尚書令の劉巴に語っている。


204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 13:14:40 ID:XvcKYSRn0
元々馬氏と孔明は親戚の可能性もあるそうだし、
単なる身びいきだよ。

成功の可能性が有ったのは第一次だけなのにな。

四次以降になると、仲達や明帝ら魏首脳陣には
補給が繋がらないことを見透かされて、
ダラダラと持久戦に持ち込まれ如何ともできなくなった。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 15:38:39 ID:IlZW2l5ZO
なぜ街亭に馬謖を派遣したのか仮説を立ててみる。

街亭守備軍の規模が理由じゃないだろうか?
長駆して街亭まで進出する部隊であるため、数万もの軍勢では到着に時間がかかる。
そのため、馬謖に与えられた軍は一万以下と推察される。
このあたり兵力の記述あったっく?「大軍」とあった記憶はあるが。
一万以下で、工作兵など設営隊を同行したとすれば
実戦部隊は五千強ぐらいかも知れない。
五千強程度の戦闘指揮官としては魏延や呉懿だと役不足。
馬謖など部将レベルが適任となる。

街亭の敗因は、蜀軍の年功序列人事がもたらしたものと仮説してみる。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 11:07:54 ID:ifk7Z6HoO
孔明が三軍の長
この場合、総参謀長兼軍司令長官兼軍務大臣兼任が悪い方にでたと思う。
孔明に法正なり鳳統なりの有能な副軍師がついていればなあ

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 11:29:26 ID:tD04ZSnm0
>総参謀長兼軍司令長官兼軍務大臣兼任が悪い方にでたと思う。

孔明はなんでこんなに兼任したんだろう?
他にふさわしい人材がいなかったからか
孔明が私欲で独占したか、どっちなんだろう?

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 12:25:28 ID:0LaPiBQb0
曹操とおんなじことだと思うが

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 12:58:49 ID:Gf3XZ7/z0
ある程度権力と権限を集中しておいたほうがやりやすいという事もある
だからといって兵の裁判までやるのもどうかと思うが

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 10:05:17 ID:pEKODIGS0
武都は曹操の漢中強制移住の煽りで無人に近かったようだな。
張飛と馬超が武都に陣取ってるのに城を出て戦い曹洪に敗れているのも、
城に篭っても補給が出来ず、遠征してきた曹洪より先に飢餓状態になる恐れがあったからだろう。
そうすると武都が20年後にほとんど無視されたのも頷ける。

曹操の漢中放棄は最後の統一好機を逃して守りに入った証拠という見方が一般的だが、
蜀の北伐の芽を毟り取ったという点では、自分の死後を見据えていた慧眼といえる。
漢中近辺20万戸が関中に行ってるんだから防衛生産能力も上がっていたんだろう。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 21:34:42 ID:zjynSMfy0
>>210
>蜀の北伐の芽を毟り取った
>漢中近辺20万戸が関中に行ってるんだから防衛生産能力も上がっていたんだろう。
これは表現がちょっと違うだけで、「守りに入った」そのものじゃないのか?

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 06:50:51 ID:e5z0+99J0
鳥の肋よのう。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 17:00:54 ID:LRAg0j7e0
なぜ街亭に馬謖を派遣したのか

手柄を立てさせて自分の後継者にしたかっただけだろうよ

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 17:25:04 ID:G39Qng8cO
そんなの稀によくあること

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 04:19:22 ID:SuBdvbCU0
蜀が魏を滅ぼす可能性ってのはほとんど無かったんだよね?

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 11:04:29 ID:vy1Nu/AJ0
まあ、滅ぼせるより失敗する確率のほうが格段に高かったのは事実だ

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 11:40:23 ID:rFSQmkec0
諸葛八卦村ってなんかインチキくさいな。


218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 22:20:01 ID:5GpOMx5l0
日本での落ち武者が祖先の村みたいもんだ
日本中国問わず世界中でよくあること

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/20(火) 20:17:09 ID:E1vUx7Un0
アンチ孔明スレにおける諸葛亮ファン+シンパ+擁護派のみなさん
アンチに対する大勝利おめでとう! 結局、感情的な中傷以外の有効な反論は全くでず
奴らの正史読みの浅さを露呈しました!
中立的な歴史ファンも基本的に味方してくれました

魏晋バイアスのかかった正史に対する疑念など読み応えばっちしのスレでした
(連中のレス以外はね)
これで安心して中国英雄最高の知名度をもつこの人を好きといえます!
ありがとうございました!

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